北へ
町は深い眠りに包まれ、風の音だけが響いていた。
無機質な帝都とはまるで違う素朴な町並みを眺めながら、ライグはマフラーをしっかり巻き直す。そして、隣を無言で歩くティリンスに目をやった。
「アルトネアはここよりもっと寒い。気を引き締めて行こう」
ティリンスは「うん」と答え、後方に佇む宿屋グラートを振り返った。ライグは青年の目に微かな後悔と未練が映っているのを見とり、ティリンスが口を開くより先に話し出す。
「仕方ないさ。本当ならちゃんと理由を説明して礼を述べてから出て行くべきだが、頑固なムルトに話が通じるとは思えん。それに、彼が俺たちを怪しんで変な行動をとったら困るからな」
「でも、あんなにお世話になったのに、何も言わずに出て行くなんて」
ティリンスはやましい思いを拭えないのか、暗い表情で目線を落とす。ライグも気が咎めるのは事実だったが、ずっとここで足踏みをしているわけにはいかない。彼はティリンスに向き直ると、厳しい声で諭した。
「いつまでも気に病むな。先へ進むためには、多少の犠牲だって必要なんだ。確かにナンシーたちには申し訳ないが、今は目的のことだけを考えて──」
「そう、申し訳ないとは思っているのね」
後ろの雑木林から響いた声に、ライグは素早く身を返す。身に染みついた癖で剣の柄に手をかけたものの、すぐに思い直し手を離し、雑木林から出てきた女性を見て渋い表情を浮かべた。
「……ナンシー。どうしてこんなところに」
ナンシーは小首を傾げ、決まり悪そうにするライグとティリンスにおどけた眼差しを向けた。
「さあ、なんでかしら。女の勘ってやつかもね」
ナンシーは立ちはだかるようにライグたちの前で足を止めると、物問いたげに二人を眺め回した。ライグは恐らく詰問されるであろうことを予感し、腹を決めてナンシーに向かい合う。
「ここ最近、ちょっと様子がおかしかったわよね。やたら散歩の帰りが遅かったり、一晩無断で家を空けたり、帰ってきたと思ったら腕を骨折してたり。……何を、してたの?」
ライグはどう答えたものかと困惑しながらも、決して折れるつもりはなく、ナンシーを無言で見つめ返した。たとえ彼女に引き止められようと、恩知らずと罵られようと、今行かなければきっと後悔するとわかっていたからだ。
やがて、ライグが毅然とした態度を崩さないのを見て、ナンシーは何かを諦めたかのように深く息をついた。
「ハルグには訳ありの流れ者が多いから、貴方たちが何者であっても驚きはしないけど、別れの挨拶もないのはひどいじゃない。そんなに私は信用できないの?」
「すまない」
即座に謝ったライグにくすりと笑うと、彼女は少し声を潜めて話し出した。
「でも、下手に事情を打ち明けなくて正解だったと思うわ。きっと貴方たち、噂のアルトネア人と何か関係があるんでしょう? お父さんがそれを知ったら、何をしでかすかわかったもんじゃないから」
予想外に鋭いナンシーの発言に、ライグとティリンスは目を瞬く。ライグはナンシーの思わぬ慧眼に僅かに戦慄しながらも、彼女を真っ直ぐに見つめ返した。
「そこまでわかっているのなら、頼む、何も聞かずに俺たちを行かせてくれ。君たちには、今後一切迷惑をかけないと約束する。だから、」
「わかってるわ」
ナンシーはあっさり即答し、穏やかに微笑んでみせた。
「こういう経験は、初めてでもないしね。いいわ、黙って行かせてあげる。お父さんにも、適当に話をつけておいてあげるから」
躊躇なく言い放ったナンシーに呆気にとられ、ティリンスは拍子抜けしたように尋ねた。
「本当にいいの?」
ナンシーは間抜けな表情のティリンスを見て軽く吹き出すと、笑いをこらえようとしながら頷いた。ティリンスは笑われていることに気づくと恥ずかしげに咳払いし、目線をうろうろと漂わせたので、ライグもつられて苦笑する。しばらくして笑いが収まると、ナンシーは潔く言い切った。
「だって私、本当は詮索するの好きじゃないもの。それに何より、私は貴方たちが気に入ってるから」
そう言うとナンシーは、ライグに真剣な眼差しを向けた。どこか寂しげなその目にライグは一瞬動揺したが、ナンシーの口から出てきた声は、予想とは裏腹に明るいものだった。
「実は貴方、死んだ夫に似てるのよ。特に、そういう真面目で一途な性格がね」
ナンシーが既に夫を亡くしているということはライグたちも知っていたが、突然の告白には二人とも面食らった。しかし、ライグが返事を返すより先にナンシーが続ける。
「安心して、だからって貴方に恋心は抱いていないの。それにこれはあくまで予想だけど、貴方には既に想い人がいるみたいだし。そんな男性を誑かすほど私は分別がないわけじゃないし、もう若くもないのよ」
ライグはナンシーの言葉に黙り込み、遠い空の下にいるであろうバレンシアを思い描いた。決心が揺らぐからと彼女のことは思い出さないようにしていだが、ナンシーに言葉にして指摘され、バレンシアの快活な笑顔が鮮やかに脳裏に浮かんだ。
──駄目だ、思い出しては。
ライグは未練を振り払うように静かに目を閉じ、ナンシーに手を差し出した。ナンシーは笑って握手に応じ、優しい声で言った。
「貴方たちの目的がなんであれ、応援しているわ。がんばってね」
「ありがとう。俺も、君に相応しい素敵な男性が現れることを願っている」
ナンシーは「まあ」といたずらっぽく笑った。それを見ていたティリンスも、隣で小さく笑い声を上げる。
そして、二人が握っていた手を離した。ライグとティリンスはどちらからともなくナンシーに一礼すると、険峻な雪山に向かって歩き出した。
ライグたちが集合場所に到着したときには、既に残りの面子は揃っていた。ライグは木々が絡み合うように立ち並ぶ辺りを見回し、自分たちを待っていた二人組に問いかけた。
「さて、集まったはいいが、ここからどうするんだ? 見ての通りまだまだ山頂は遠いし、この雪山を越えるには全員準備不足だと思うんだが」
ライグはそう言って、必要最低限の荷物しか持っていない自分とティリンスを見た。対する二人組も荷物という荷物は殆ど手にしておらず、寒中登山に向かうにしては無謀すぎる備えだ。
しかし、問われた相手は柔和な笑みを浮かべ返答した。
「イグアスに任せておけば大丈夫ですよ、軍曹。彼女はこの雪山のことをよく知っていますから」
答えたのはアルトネア王家の青年、ウラジーミルだった。
彼は先ほど名を挙げたイグアスを振り返り、彼女に軽く頷いた。イグアスはそれを受け、気怠そうに説明を始める。
「今回は、時界石採掘のために拓かれた坑道を使う。もちろん直接アルトネア領へ続いてるわけじゃねぇが、坑道を使えばかなりの労力節約になるからな。そんで、ある程度まで進んだら後はひたすら歩くだけだ」
不安になるくらい簡単な説明に、ライグは唸るように指摘した。
「しかし、坑道には見張りがいるだろうし、アルトネア領付近にも当然警備兵がいる。どうやってそいつらの目をかいくぐるんだ?」
「坑道の中には、時界石を採り尽くして用済みになった廃道があるんだよ。それに、警備兵たちが近づかないような足場の悪い危険地帯だってある。あたしたちが使うのは、そういった抜け道だよ」
イグアスは特に思案する様子も見せず即答した。ティリンスが小さく「危険地帯って」とぼやく声がしたが、ライグはイグアスの土地鑑に感心していた。
「随分ハルゲニー山脈の地理に詳しいんだな。この山で暮らすようになって、長いのか?」
イグアスは怪訝な表情を浮かべたが、顔を背けぶっきらぼうに答えた。
「長いもなにも、物心ついたときからここで暮らしてる。だから、周辺の事情にも自然と詳しくなったんだよ」
イグアスの言葉を聞き、ライグはある見解に思い当たった。
恐らくイグアスは、フレーザー一族による迫害から逃れてきたニグミ族の子どもなのだろう。ニグミ族の血を引く一部の者は、迫害から逃れるため各地を放浪したと聞く。イグアスの親もそのうちの一人で、逃亡の末この雪山に流れ着き、ハルグの人間との間に密かに子を成したのではないだろうか。
ライグがそんな思案に耽りながらイグアスを眺めていると、相手が不思議そうな表情で見返してきた。ライグはその時ようやく、イグアスが(黙っていれば)かなりの美人であるということに気づいた。鋭い顔つきは赤い目と相まって、どこか危険で野性的な美しさを漂わせているような気もする。
「なんだよ、じろじろ見やがって。気色悪い」
イグアスがライグに向かって吐き捨てた。ライグは唸り声を飲み込み、代わりにぎこちなく咳払いする。それを見ていたウラジーミルが同情するような笑みをライグに向け、場の空気を和らげるように明朗な声で言った。
「仲間割れはよしましょう、二人とも。成り行きで協力することになったとはいえ、私たちの目的は同じく『アルトネアに入国する』ということです。確かに我々はお互いを詳しく知りませんが、今は信じ合い、助け合い、共に前進しましょう」
ウラジーミルは王子らしく優雅にイグアスとライグの手をとり、二人を半ば無理矢理握手させた。ナンシーの女性的で綺麗な手とは違うやや骨っぽいイグアスの手を握ったとき、彼女の尖った爪が手の甲を掻きライグは顔をしかめたが、イグアスはライグより更に迷惑そうに手を払った。
「てめぇ! あたしが握手嫌いだって知ってるだろ!」
「済まない、忘れていた」
ウラジーミルは子どもっぽく微笑むと、隣で大人しくしているスズダリの顎の下を撫でた。
「荷物はこの子に持たせてくださって結構です。あと、疲れたときは乗せてもらってもいいですよ。それでは、質問がなければ出発しましょう」
彼はイグアスに目配せし山の奥へと歩き出した。イグアスが毒づきながらその背を追い越し、ライグたちについて来いと手で指示を出した。
深々と溜め息をついたライグを見て、ティリンスが苦笑いを浮かべる。
「あの二人と付き合うのは、なかなか大変そうだね」
「だが、アルトネアに入るためには彼らの協力が必要だ。多少の苦労は致し方ない」
ライグは手の甲についた擦り傷を撫で、おもむろに歩き出した。ティリンスもそれに合わせ、イグアスたちの背を追った。
目指すは山脈の向こう、永遠の凍土。
冷血な皇帝が支配する、雪と氷の国だ。




