北国の使者
暗殺者は不機嫌だった。
というのも、彼が敬愛してやまない枢機卿ヴァルモニカが、例の不愉快な参謀副長を何かと贔屓にするからだ。
現につい先ほどまで、ナスカが警備するテントの中で二人は飲みながら楽しげに談笑していた。内容は教養のある人間同士の高度な次元のもので、確かに時々くだらないジョークなども聞こえたのだが、学などほとんどないナスカは全然理解できないし楽しくもなかった。
そもそも、ヴァルモニカがガルアを贔屓にすること自体が楽しくない。
いや、楽しくないというよりは信じられないと言った方がいいのだろうか。
「なんであんな気味が悪い若造を……」
ナスカよりはガルアの方が年上だが、彼は参謀としても一軍団の指揮官としても若すぎるので、どう考えてもヴァルカモニカとは釣り合わない気がするのだ。ナスカは独り舌打ちすると、ヴァルカモニカのテントの前を行ったり来たりしながら腹の中で不満をこねくり回し始めた。
──と、
「……?」
ナスカはぴたりと足を止め、耳を澄ました。暗殺者特有の鋭い五感が、夜の闇に紛れる微かな生物の気配を探り当てたのだ。
「誰かいるのか」
テントの裏手に広がる底の見えない暗闇に向かって、ナスカは囁くように問いかけた。今日は新月で辺りの様子はほとんど見えないが、丁度その方向はテントがなく少し先に丘があるだけだ。もし誰かが気配を殺して丘の向こうから近づいてきたのだとしても、妙な事態だ。
冷たい闇の中からは返事はない。だが感覚が研ぎ澄まされるにつれ、何者かが潜んでいる気配は先ほどより確かになる。
ナスカはテント周辺に他の動きがないことを確認し、懐からダガーをそっと抜き出した。
「何者だ。答えなければ、誰であろうと問答無用で始末するぞ」
ナスカは威嚇するように一歩前に踏み出したが、相手には依然として動きはない。どうやら闇の中からナスカの動向を窺っているらしく、ナスカは不愉快な気分になる。
帝国の軍人かアルトネアの密偵かは知らないが、始末しておいて悪いことはないだろう。
ナスカがそう思い、勢いよく走り出そうとした瞬間だった。
「そこのテントの中にいるのは、ヴァルカモニカか」
聞き覚えのない低い声が、質問ではなく確認に近い調子で告げた。相手は三国の共通語であるリンド語で話したが、僅かに北部特有の訛りが聞き取れた。
相手の冷ややかな声音にナスカは不覚にも一瞬動揺し、一呼吸遅れてから返答する。
「お前には関係ねぇな」
ほぼ確実に、相手は愉快な客人ではない。ヴァルカモニカを狙うアルトネアの密偵かスパイである可能性が高い。
「ここまで誰にも気づかれず接近できたことは感心するが、俺がいる限りヴァルカモニカ様に危害を加えることは不可能だ。諦めてさっさと帰りな」
もちろんナスカには、敵国の密偵をみすみす見逃すつもりなどない。これまでもわヴァルカモニカの寝首をかこうとする不届き者を今まで何度も始末してきたし、今回相手は一人。油断しなければ、ほぼ確実に捕らえられると踏んだ。
ナスカがどう斬り込むかを思案しながら相手の位置を探っていると、予想以上に近い場所から声が聞こえた。
「安心しろ、俺の目的は彼の暗殺ではない。ちょっとした伝言を頼まれただけだ」
妙に気怠そうに言う相手を訝しみながらも、ナスカは一応尋ねた。
「ヴァルカモニカ様に?」
「違う、参謀副長にだ」
そう言うと、相手は思いの他あっさり近くの松明の明かりに姿を晒した。
目深に被ったフードと身に纏う毛皮の防寒具のせいで顔は特定できないものの、服装からアルトネアの人間だとわかる。また、かなりの長身で、ナスカとは40センチほども身長差がある。
男はフードの下から、腹話術師のように言った。
「ガルアのテントを教えてくれ。あとは自分でなんとかする」
ガルアの駐在場所を教えるのがさも当然というような口調に、銀髪の暗殺者は呆れた。
「なぜ敵国の人間にそんなことを教えなきゃならん。てめぇは俺を馬鹿にしてるのか?」
「敵国の人間? お前にとっては、ガルアも同じことだろう」
男の指摘に、ナスカは眉根を寄せる。尤もな言葉だと思ったのだ。いくら帝国の参謀副長と協力関係であるとはいえ、帝国と皇国が対立している事実は変わらないのだから。
ナスカがガルアに対する嫌悪感にしばし浸っていると、ふいに男が背を向けた。敵前でのあまりに無防備な行為に、呆気にとられてしまう。
男が背を向けたまま闇に向かって歩き出した。
「教える気がないならそれで構わん。俺にお前を攻撃する気はないし、お前が俺を攻撃する理由もないだろう。俺はヴァルカモニカに興味はないからな」
ヴァルカモニカに興味はないという言い草にナスカは怒りを覚えたが、深追いしてテントから離れるほど子どもではない。彼は音もなく去っていく背中に、鋭く忠告を飛ばす。
「てめぇがガルアに何を伝えに来たか知らねぇが、簡単に帰れると思うな。奴はあれでも優秀な軍師様だからな、死なれたら困るんだよ」
ナスカは威嚇するようにダガーを一本投げつけたが、案の定相手に命中した気配はなく、代わりに楽しくなさそうな乾いた笑い声が響いた。
「その心配はしなくていいぞ。俺も彼に死なれたら困るんだ」
男は謎の言葉を残すと、その場から気配を消した。
外套は必要なかった。
彼──ヨアンは、はためく毛皮の衣を鬱陶しそうに見下ろしながら心の中でぼやく。
いくら国境間近とはいえ、ここは皇国領。北国で生まれ北国で育ったヨアンには、皇国や帝国の人間が身を切るようだと形容するこの地の風さえも生暖かいものに思われた。
こんな寒さは、寒さの内にも入らない。
ヨアンは骨の髄まで染み着いたアルトネアの無慈悲な冷気を思い起こしながら、あるテントの前で足を止めた。
先ほどナスカが「気味が悪い若造」と毒づいていたその人、ガルアのテントの前だ。
「誰だ」
テントの前に佇むヨアンに、ガルアは予想以上に早く気がついた。
参謀副長の意外な勘の良さに微かに驚きながら、ヨアンは周りに聞こえないよう小さな声で答える。
「俺が誰かはこの際あまり問題ではない。今重要なのは、俺が貴方宛ての伝言を預かっているということだ」
しばらくの沈黙。そして、
「入れ」
という簡潔な命令が下る。
ヨアンはフードを被ったまま、テントの中に滑るように入った。ほとんど物音を立てずにガルアの前までくると、ヨアンは質素な椅子に腰かけたままのガルアを眺めた。
ガルアはどうやら地図を見ていたらしく、未だに謎の来客には目もくれていない。彼は、地図に目線を落としたまま平然と言ってのけた。
「なんとなく来るような気はしてたんだけど、予想以上に早かったね」
ヨアンはガルアの発した言葉の意図が掴めず、相手をしばし見つめた。
ガルアは初めて顔を上げ、やっとヨアンに目を向けた。
「わかってる、グロザー様からの伝言だろ。でも、話す前にせめてフードはとってくれ」
ヨアンは爬虫類を彷彿とさせる金色の目で射抜かれ、しぶしぶフードを払う。顔を知られたところで、あまり差し障りはないだろうとの判断だった。
ガルアはヨアンの顔を軽く眺めたあと、小さく頷いた。話せということだろう。
ヨアンはガルアを見据え、淡々と言い切った。
「一週間後、ある場所に来てほしい。そして我が国の皇帝、グロザー陛下と対談してほしいのだ」
「それで?」
反応を窺うように言葉を切ったヨアンに、ガルアは不気味なほど冷静に続きを促した。ヨアンはガルアの腹の内が全く読めないことに内心焦りを感じながら、努めて淡白に続ける。
「もちろんこのことは秘密裏に願いたい。貴方の部下にも、協力者にも。特に、枢機卿猊下に事が露見した場合、甚大な被害を被るのは我々だけではない」
ヨアンは懐から飾り気のない手紙を取り出すと、ガルアに手渡した。ガルアは断りを入れることなくそれを広げ、読み終えると同時に喉の奥で笑い始めた。
「まさかここまで気づいてるなんて、感服したよ。君の上司は天才だな」
「貴方ほどではありませんよ」
冷たい口調で答えたヨアンにガルアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに薄ら笑いを浮かべ話し出す。
「おだてても何も出ないよ。僕は賞賛されることに馴れてるんだ」
さらりと不愉快なことを述べたガルアにヨアンは素っ気なく頷き、目で返事を催促した。ガルアはわざとヨアンの視線を避け、思案にふけりながら顎に手を当てた。
「多分、嫌だと言ったところで拒否権はないんだろうけどね。グロザー陛下のことだから」
「その通りだ」
「うーん、こんな重大な決断を今すぐに下せと言われてもな。少し時間をくれないか?」
ヨアンはその返事を想定していたかのように即座に頷いた。
「一週間後、貴方が指定の場所に指定の時間までに来れば問題はない。逆に、貴方が来なければそれは提案の拒否と見なす。よろしいか?」
「わかった、問題ないよ。一週間もあれば充分だ」
ガルアは手紙をランプの火に投げ入れ、手紙がじりじりと燃え尽きるのを確認して、ヨアンに片眉を吊り上げてみせた。
どうやら退室しろということらしい。ヨアンも他の人間が嗅ぎつける前にお暇したかったので、大人しくガルアの指示に従いテントの垂れ幕をくぐり抜けようとした。
「あ、そうだ」
ガルアが呑気な声を上げる。
「陛下によろしく伝えておいてくれ。息子の君なら、できるんだろう?」
ヨアンは足を止め、肩越しにガルアを振り返った。わずかに青ざめたヨアンを見て、ガルアは澄ました表情のまま先を続けた。
「驚くほどのことじゃない、君の正体については今ある情報だけで見当がつくよ」
ガルアはそこまで言うと、人差し指を立ててみせる。
「まず一つ目の情報は、長髪を三つ編みで束ねたその髪型。アルトネアではよく見る髪型だけど、君の場合は長さと職業が問題だ。僕の経験上、体格や雰囲気から君は恐らく暗殺や密偵を生業にしていると思うけど、その場合長すぎる髪は行動の邪魔でしかない。それなのになぜそんな長さまで髪を伸ばしているのかと考えたとき、君の所属と出生は自然と絞られてくる」
ガルアは次に、中指を立てた。
「二つ目は、君の容姿。長身痩躯で肩幅が広い、頬骨が高く通った鼻筋などの特徴に加え、最も決定的なのは……目だ。アルトネアでは、君のような漆黒の目は珍しい。そして、切れ長の一重もあまり見ない特徴の一つ――」
「それ以上言うな」
ヨアンは思いがけず強い口調で遮った。ガルアは険しい表情のヨアンを見ながら、少し意外そうな声を上げた。
「もしかして機密事項だったのか? それは済まない、無粋な真似をした」
ヨアンは三白眼でガルアを睨みつけ、少しだけばつが悪そうに言った。
「……重大な機密というほどではないが、不用意に口外すべきことでもない」
ヨアンは背を向けテントを出た。後ろで参謀副長が小さく笑う声が聞こえたが、無視して夜の中へと紛れ込み、来たときと同じように音もなく連合軍から離れていく。
やがて丘を登りきると、陽気な声に名前を呼ばれ彼は溜め息をついた。
「仕事は終えた。帰るぞ、アンナ」
アンナと呼ばれた人物が、ヨアンの隣に並びながら不思議そうに尋ねる。
「あんたが溜め息をつくなんて珍しいね。何かあったの?」
「いや、大したことじゃない。噂には聞いていたが、案の定不気味な男だったから、少し疲れただけだ」
ヨアンはそう言うと、アンナに目で合図をした。アンナは背に担いでいた長い板のような物を覆う布を取り払い、自分の横に立てる。
アンナが担いでいたものは、姿見だった。
少女は夜の世界を映し真っ黒に染まる鏡を前に、たいして興味もなさそうに問う。
「ふぅん。父上とガルア、どっちの方が不気味?」
「大差ないな」
ヨアンは唸るように答えると、鏡に向かって踏み出した。彼は鏡の中に溶けるように消え、それに続いてアンナも姿を消した。




