雪山の死闘
「どうして私を匿うんだ?」
薄暗い室内に、どこか弱々しい声が響く。声の主である男は床に置かれた蝋燭の火に照らし出され、酷くやつれて見えた。
蝋燭を挟んで向かいに横になる人物が、男に背を向けたまま答えた。
「特に理由なんてねぇよ。気が向いたから助けただけだ」
素っ気ない返事に男は黙って相手を見返したが、床に寝そべる人物が振り返る気配はない。男は諦めたように目を閉じると、小さく吐息を漏らした。
ふいに暗闇から獣の唸り声のようなものが聞こえた。どうやら音は男の背後から発せられたらしく、男は寄りかかるようにしていた大きな物体に優しげな眼差しを向ける。
「どうしたんだ、スズダリ。もう夜も遅いから、静かにしなさい」
男はそう言うと獣の耳元に手を伸ばし、そこをくすぐるように撫でた。しかし、普段なら主の手を喜ぶ獣は一向に落ち着く気配はなく、灰色の毛皮を纏う体を硬くし鼻をひくつかせている。男は明らかに緊張している相棒を見つめ、何事かと困惑した表情を浮かべた。
すると、
「──静かにしろ」
ハスキーな声が男の耳を刺した。男は獣の鼻先にそっと手を置いて動きを制し、隣で身を起こした相手の命令に従う。
やがて、耳を澄ましていた人物が毒づくように呟く。
「のこのこついてきやがったか。図太い野郎だ」
そう言うと立ち上がり、全く足音を立てずに窓へと近づいた。そして、もの問いたげな目を向ける男に微笑を見せる。
「心配するな」
口の動きだけでそう伝えると、その人物は躊躇いなく窓を開けて体を引き上げ、素早く夜の冷気の中へ滑り出た。
辺りに息が詰まるような静寂が満ちる。残された男と灰色の獣は、ただ静かに待つことしかできなかった。
ライグたちが襲撃者の足跡を辿り木造の荒ら屋を見つけたのは、夜も深まり山が静まり返った夜分だった。夜目の利くティリンスが、雪と木々に隠れるように潜む小屋を目敏く発見したのだ。
「こんな山奥でどうやって生活してるんだろう」
小屋の様子をやや離れた場所から窺っていると、ティリンスが素朴な疑問を口にした。ライグは油断なく小屋を見張ったまま、ほとんど口を動かさず答える。
「無駄口を叩くな。そろそろ始めるぞ」
ティリンスは無言で小さく頷き、ライグの指示に従い慎重に移動を開始した。これはティリンス自身が提案したことなのだが、ライグよりも感覚が鋭い自分の方が小さな音を聞き取れるし視界もいいので、偵察には向いているのでは、と小屋まで様子を見に行くことにしたのだ。
ティリンスはできるだけ雪の浅い場所を探しながら、嫌になるほどゆっくり前進した。ここは木々が密集して立ち並んでいるため、他の場所に比べ雪は深くない。しかしながら雪を踏みしめる音というのは存外響くもので、ティリンスは薄氷を踏む思いで雪の上を歩いた。
やがて小屋目前というところまで来ると、ティリンスは全神経を耳に集中させた。雪に音が吸い込まれたかのように凍りついた無音の世界で、耳につくのは自分の呼吸音と──心臓の鼓動だけ。周囲にティリンスを警戒するような動きは微塵も感じられない。
ティリンスは深く息をつき、やや後方でティリンスからの合図を待っているであろうライグを振り向いた。ティリンスは一般人のライグにも見えるように、できるだけ大きく手を振ってみせる。
ライグがティリンスの合図に気づき、木陰から足を踏み出す。
それと同時に、月を覆っていた雲が切れ、仄かな月明かりが雪の世界を照らした。
ティリンスは朧気にしか見えていなかったライグの姿がはっきり確認できるようになったのに気づき、何故か悪寒を覚えた。ライグにとっては月明かりがあった方が有り難いのだろうが、ティリンスには今の状況が危険に思え、慌ててライグに木陰に戻るように手振りで伝えようとした。しかし暗くてティリンスの表情がよくわからないのか、ライグは訝しげな顔をしたもののそのままこちらに歩いてくる。
得体のしれない寒気に襲われ、緊迫した声がティリンスの口をついた。
「危ないっ!」
ティリンスが叫んだ刹那、ライグの背後の闇に銀色の煌めきが走った。
ティリンスは絶望に駆られ、思わず目を逸らす。
ライグが斬られてしまう……!
──しかし、ティリンスの予想とは裏腹にライグの悲鳴は聞こえなかった。ぎゅっと目を瞑った彼は、おそるおそる顔を上げ目を開く。
例の襲撃者のものとおぼしき声が響いた。
「やるじゃねぇか」
目を向けたティリンスは、ライグが剣を構え辺りを警戒している姿を確認した。どうやら彼は、背後から襲撃してきた何者かの刃を無事退けたらしい。
「そう何度も同じ手が通用すると思うな」
ライグはティリンスの方へ速やかに後退した。彼らは小屋を背に回し、暗い木立の間を注意深く見張る。
「助かったぞ、ティリンス。俺だけじゃ気づけなかった」
ライグは隣に駆け寄ったティリンスにちらりと目をくれると、口早に感謝を述べた。ティリンスはよかった、と答えながら、再び闇に紛れた襲撃者の気配を探った。
「大丈夫だったの? 相手は刃物で貴方を切りつけようとしていたでしょう?」
ティリンスの問いにライグは難しい顔をした。
「俺は君のお陰で運良く攻撃をかわせた。とっさに反撃を試みて、少しだけこちらの刃が相手にかすったような気もしたが、たいした負傷ではないだろう」
ティリンスはさっきまでライグと襲撃者がいた場所に目を向ける。ライグが目の前で人を斬る可能性が、もしくはライグの首が飛ぶ可能性があったのだと思い、残酷な光景を想像して足が震え出すのを堪えきれなかった。
息が詰まるような無音の中に、ふいに不気味な笑い声が広がる。
「大人しく帰ってれば良かったのにな。そうすれば、これからも命だけは狙わなかったのに」
ライグはその言葉に込められた真意をうっすらと感じ取り、姿の見えない敵に答えた。
「それは、俺たちが君の居住を突き止めたから殺す、ということなのか? だったら心配は無用だ。俺たちは君を捕らえに来たわけではなく、君と話をしたいだけだ」
「誰だって最初はそう言うんだよ。そんなお決まりの台詞、信用するに値しねぇ」
襲撃者はとりつく島もないほどはっきり断言すると、再び何も言わなくなった。ライグは声がする方向から位置を特定することができなくなり、小さく毒づく。
それにしても、ここまで完璧に気配を消せるというのは異常だ。
ライグは改めて相手の手強さを知り、剣を強く握り直した。隣で同じく緊張しているティリンスが、ごくりと唾を飲み込む。
直後、ティリンスの耳が微かな物音を捉えた。
「ライグッ!」
ティリンスの警告と同時にライグが後ろへ勢い良く剣を払う。しかし手応えはなく、代わりに何かがライグの右の手首を掴む感触があった。ライグはしまったと思い手を引こうとしたが、相手の力は凄まじく、振り払えそうもない。
ライグの手を掴んだ相手が楽しそうな声で叫ぶ。
「口ほどにもねぇな!」
その言葉を合図に、ライグの右手に激痛が走る。痺れにも似た痛感が右手首から駆け上がり、ライグの手から剣が滑り落ちた。
襲撃者が掴んでいた手首を離し、低く嘲笑う。
敵前で剣を取り落とすなど、自殺も同然だ。ライグは痛みと驚愕で、為す術もなく立ち尽くした。
しかし、ライグの体に次の攻撃が入ることはなかった。ことの成り行きを見ていたティリンスが、襲撃者に向かって果敢にも(無謀にも)突撃したのだ。
青年の投げ身の突撃を受け、襲撃者は不覚にも後方に転倒した。
腕を自由にさせては危ないと、ティリンスは倒れた体勢のまま相手にしがみついた。ティリンスに行動を制限され憤る襲撃者が激しく暴れたものの、ティリンスは抵抗に耐え拘束を緩めようとはしない。
そのまま彼らはもつれあった状況で雪の上を転がり、それに合わせティリンスの目の前の景色が目まぐるしく変わる。
そんな中、ティリンスの目がついに襲撃者の全貌を捉えた。
「……なっ」
ティリンスの口から、情けない狼狽の声が漏れた。ティリンスが見たのは、押さえ込まれ耳を覆いたくなるような暴言を吐いていたのは──。
「どけっ!」
襲撃者が怒鳴り、ティリンスの股間を蹴り上げた。ティリンスは「うっ」と息を詰まらせ、余りの痛みに声も出せずに悶える。襲撃者が上に覆い被さるようになっていたティリンスの体を乱暴に突き放し、気怠そうに立ち上がる。
ライグは、思わず息を呑んだ。
──月明かりに照らされ不敵に微笑んだその人は、赤い瞳を持つ若い女だったからだ。




