密入国者
「ったく、べたべた触りやがって……。気色悪いんだよ」
月光の下で服についた雪を払いながら、女が唸るように毒づいた。一方のライグはといえば、女が無防備であるにもかかわらず痛みと動揺のせいでその場を動けない。
しばらくし、ようやく我に返ったライグが女に尋ねた。
「ニグミ族か?」
女はライグの問いに、曖昧な返事を返す。
「さあ、どうだろうな。お前ら、あたしがニグミ族に見えるか?」
「見えるよ……。赤い目を持ってる人間なんて、たぶんニグミ族以外いないから」
女の後ろでうずくまっていたティリンスが、苦労しながらゆっくり立ち上がった。同族を前に緊張しているのか、または痛みのせいか、声が変に上擦っている。ライグはティリンスの無事を確認すると、続けて質問した。
「だが、髪は飴色に近いし肌も褐色とは言えない。見たところ、混血か?」
女はばさばさの髪を払い、気怠そうに答えた。
「だろうな。それしか考えられねーし」
ライグは改めて目の前の女を観察した。予想通り身長は170センチ前後、しかし、怪力や高い身体能力とは裏腹に予想以上に細身。おまけに雪山を塒にしているであろうというのに、身に纏っているのは動物の毛皮とおぼしき衣類だけで、腕や脚はそれこそ剥き出しになっている。確かに、ニグミ族らしい頑丈な体を持っているようだ。
「それにしても」
今思い出したと言わんばかりに呑気な声を上げ、女がティリンスを振り返った。彼女はしばらくティリンスを眺め回していたが、ふいに意地の悪い冷笑を見せる。
「やっぱりあんたもニグミ族か。たぶんそうだろうとは思ってたけど、ここまで弱いなんて残念だぜ。いやぁ、同族として情けねーよ。こんな軟弱者がいたら、ニグミ族の名が汚れちまう。あーあ、残念残念」
ティリンスは数ヶ月前銀髪の暗殺者が言ったのと似たような言葉を投げかけられ、沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。確かに、自分は一般的なニグミ族と違って戦いを好まないし別段強くもないのだろうが、ようやっと出会えた同族にまで見下されては堪らない。
だが、ティリンスは何も言わなかった。ここで言い返しでもしたら、隙をつかれると考えたのだ。悔しいのは事実だが、彼は唇を噛み締め屈辱に耐えた。
しばらくし、女が呆れたように首を振った。
「っち、簡単な挑発には乗らねーか。おつむの方は上出来だな」
そう言うや否や、餓えた野獣のような眼差しをティリンスに注ぐ。
「なら、さっさと殺ってやるよ」
女の殺気を感じ取り思わず後ずさったティリンスに、ライグが鋭く声を張った。
「ティリンス! 動じるんじゃない、ただの脅しだ! 自分を強く持て!」
ティリンスと女が動きを止め、ライグに視線を向ける。女は最初怪訝な顔をしていたが、ライグをしばらく眺めたあと喉の奥で低く笑ってみせた。何がそんなにおかしいのかとライグは不愉快になったが、どうやら女はライグに狙いを定めたらしく、彼に向かって一歩足を踏み出した。
「『ただの脅し』とはひでぇな。あたしはちゃんと実行するつもりだったんだが……まあいい、とりあえずうるさいあんたから黙らせることにしようか。どうせあの弱腰兄ちゃんは、あたしから逃げることもできねーだろうし」
ライグは迫ってくる女に切っ先を向け、右手を柄に添えると同時に顔をしかめた。時間が経つにつれ痛みは増しているようで、最初に痛みが走ったときに「やられた」と思った通り、折れているらしい。赤く腫れた手首全体をじんじんと痺れるような鈍痛が覆い、先に続く掌、指にはほとんど力が入らない。
──この状態で最強の戦闘一族と戦おうとは、俺も無謀なものだ。
謎のアルトネア人を捕獲するというちょっとした親切を行うつもりが、とんでもない野獣に捕まってしまった──ライグは自分の相変わらずの運のなさを思い、自嘲した。
「さあ、どうやって殺してほしいか言えよ。あたしは外道じゃねぇし、そのくらいの自由はやる。楽に死にたいっていうなら、お望み通り一瞬で終わらせてやるから」
「生憎だが、当分死ぬ予定はないんだ。せいぜい足掻かせてもらうぞ」
嫌に真面目腐った表情で問いかける女にライグは澄ました顔で答え、左手だけで柄を強く握り締めた。利き腕を潰されているこの状態では勝ち目はないに等しいかもしれないが、大人しく死んでやるつもりはない。それに、なんとかティリンスだけでも逃がしたい。ライグは腹を括り、迫り来る敗北という絶望に真っ向から挑みかかる準備を整える。
「イグアスッ!」
緊迫した空気を裂くように、辺りに鋭い声が響いた。それは女のハスキーな声ではなく、ティリンスの声でもない。ライグは予想外の事態に目の前の女を忘れ、声のした方向へと目を向けた。
声の発生源である人物は、女とライグたちを小屋の前から神妙な面持ちで見つめていた。顔立ちは柔和で身長は女と同じくらいの青年で、放つオーラはどこかしら気品に満ちライグの動きを止めるだけの圧力がある。
しかし何よりも目を引くのは、彼の三つ編みにされた鮮やかな紺碧の長髪だ。
アルトネア人──。ライグの脳裏を一つの言葉がよぎる。容貌から察するに、彼がハルグで噂の密入国者だろう。
闇の中であっても異様な存在感を放つ青年に、ライグは何も言えず困惑した眼差しを注いだ。驚いているのは女も同じらしく、彼女は信じられないというような声音で青年を怒鳴りつけた。
「てめぇ、なに出てきたんだ! こいつらにばれたら、どうするつもり──」
「いいんだ、イグアス。今まで迷惑をかけてすまなかった。逃げ隠れするのは、もうやめにするよ」
青年は凛と言い放つと、ライグが抜き身の剣を握っているのも気にしていない様子でライグに近づいてきた。ライグは超然とした態度を崩さない青年に不覚にもたじろぎ、体を強ばらせる。しかし、そんなライグに対し青年は唐突に頭を下げた。
「すみません。彼女が貴方たちを攻撃したのは、全て私のためです。彼女のことを、どうか許してやってくれませんか?」
青年の口から飛び出した謝辞に、ライグはなんと返せばいいのかわからず途方に暮れた。
「おい、待ってくれ。急にそんなことを言われても困る。俺たちはまだ、今の状況を全く把握できていないんだ」
「それもそうですね」
青年はライグの狼狽を悟ったらしく、顔を上げ思案するように黙り込んだ。そして、何かを決心した表情でライグを真っ直ぐ見つめる。
「ではまず、私の正体についてお話しましょう。私の名は、ウラジーミル=アルトネリス。前アルトネア皇帝ユーリーの第六子にして、第三王子です」
青年は迷いなく言い切ると、童顔に優男を思わせる微笑を浮かべた。
小屋の中は予想通り寒く、予想以上に質素だった。家具らしい家具もない簡素な造りの内部を眺め回したあと、ライグは自分の右腕に目線を落とした。
ライグの胸中を察したのか、右腕に包帯を巻きつけ手当てしていたウラジーミルが牽制するように告げる。
「1ヶ月ほど剣は振らないほうがいいですよ。幸い折れてはいないようですが、ひびは入っていると思います」
包帯を巻き終えたウラジーミルが、背後でくしゃみとおぼしきものを発した巨大な獣──サバーカのスズダリの頭部を優しく撫で始めた。ライグは一応礼を述べその光景を眺めながら、未だに恐怖感が拭えない肉食獣じみた外観のスズダリの従順さに感心する。
北国アルトネアは国土の殆どが雪と氷に覆われた貧しい弱国で、近代化・魔術化の遅れが目立つ。それ故にあらゆる作業は人力や動物の力に頼るしかなく、移動には人間に割合友好的なサバーカを利用することが多い。恐らくスズダリも、そういう目的で躾られたサバーカの一匹だろう。
「良かったな、折れてなくて」
やや離れた位置からかすれた声が響いた。ライグは渋い表情を浮かべ、戸口の側にだらしなく立つイグアスを一瞥する。イグアスはライグの怪訝な表情を見逃さず、素っ気なく肩を竦めてみせた。
「はいはい、あたしがやりましたよ。申し訳ありませんね、元帝国軍軍曹ライグ・ダンバー殿」
イグアスに仰々しく名を呼ばれライグはうんざりした。ウラジーミルに「争っても互いの利益にならない」と説得され、馬鹿正直なティリンスの提案でそれぞれ素性について明かすことになり、彼らは簡単な自己紹介を済ませていたので、お互いの名は既に把握している。
ウラジーミルが困ったような表情でイグアスをたしなめた。
「嫌味な言い方はよせ、イグアス。それに、この怪我は君の責任じゃない。私の責任だ」
ライグは妙に大人びた若者に微かな好感を覚えた。
「彼女の襲撃については、別にもう気にしていない。君を庇っての行動なら、仕方ないとも言えなくはないからな」
そこまで言って、ライグはある疑問にぶつかった。
「しかし、ハルグには密入国者やアルトネア人を差別する者しかいないわけじゃない。何も、この雪山に隠れることにこだわらなくてもいいんじゃないか? 町に降りれば別の場所へ移動する手段も増えると思うし」
「……存外鈍いんだな、おっさん。確かに頭硬そうな顔してるけどよ」
ライグの尤もな意見に、イグアスが不躾な言葉を返した。ライグは心底不愉快そうな顔をイグアスに向けたが、彼女はライグの怒りなどどこ吹く風といった様子で爪をいじっている。険しい表情でイグアスを睨みつけるライグにティリンスが苦笑を浮かべた。
ライグが諦めてウラジーミルを振り返ると、青年は柔らかい微笑を浮かべて話し始めた。
「すみません、口は悪いですが良い人なんです。雪山の中で途方に暮れていた私を助けてくれましたし、その上匿ってくれて」
善人扱いされたイグアスが不満か言い訳を述べようとしたが、ウラジーミルがやや強引に話を進めた。
「ダンバーさん、ティリンス君、貴方たちは今アルトネアで起きていることをどのくらい知っていますか? アルトネアは閉鎖的ですし、今は三国間での対立が深まっているので内情は伝わりにくいかもしれませんが、現皇帝くらいはご存知でしょう?」
「確か、ユーリーの弟君、グロザー陛下だな。彼が何故玉座についたのか、詳しい事情は知らんが」
ハルグはアルトネアに近い町なので、情報は比較的手に入る。ライグはナンシーやムルトが話していたことを思い出しながら続けた。
「いや……少しは知っている。最近になって、王家や貴族の中で一悶着あったと聞いた。それで、ユーリーや彼の息子たちは王座から遠ざけられた、とか」
ライグはユーリーの息子を名乗るウラジーミルの様子を窺った。彼の言葉をまだ完全に信用しているわけではないが、アルトネリス王家の象徴である三つ編みや青年が放つ上品な威厳と物腰の柔らかさは、確かに王族の匂いがする。
もし彼が本当に前皇帝の息子ならば、今の状況は思わしいものではないのだろう。それは、彼がこんな辺境に身を潜めていることからもわかる。
ウラジーミルの表情がわずかに翳る。彼は、どこか他人事のように答え始めた。
「王座から遠ざけられた、ですか……。ええ、そうですね、間違ってはいません。ですが、その表現は決して正しくはない」
ウラジーミルはぞっとするほど感情のこもらない目でライグを見据えた。
「ユーリーと彼の血を引く者は、全員殺されたんです。私の叔父の、グロザーの手によって」
ライグの後方で、ティリンスが小さく息を呑む。薄暗い部屋の中に凍りついたような沈黙が流れ、床に置かれた蝋燭の火が揺らめきウラジーミルの蒼白い顔を朧気に照らし出した。ライグは彼の表情を見てその言葉が事実であると悟り、思わず唸るような溜め息を零す。
「……なるほど、そういうわけか。残忍な王もいるものだな」
ウラジーミルがくすりと笑った。
「ええ、本当に」
「ちょっと待って! 君は、大丈夫なの? だって、君もユーリーの息子なんでしょう? だったら、親や兄弟を──」
今まで大人しく話を聞いていたティリンスが、不安そうな声を上げた。問われたウラジーミルはきょとんとした顔でティリンスを見たが、諦観した表情を浮かべ目を伏せた。
「実は、こうなることをなんとなく予感していたんだ。あくまで私の主観だが、叔父は怜悧である故に冷淡で、どんな凶行も平然とやってのけるような気がしていたから」
ライグはまだ見ぬグロザーを思い描き、無自覚に眉根を寄せた。凍てつく大地を治める冷血な王というものが、嫌に現実味を持ってライグの脳裏に浮かび上がったのだ。
しかし、興味を持ったライグがグロザーについて更に尋ねようとすると、イグアスが盛大に手を鳴らして遮った。
「要するに、こいつはグロザーから命を狙われてんだよ。だから下手に人前に姿を晒せないし、迂闊に移動することもできない。それがこいつが雪山に隠れてた理由の全てだ。以上、長ったらしい説明は終わり!」
イグアスが疲れたなどとぼやくのを聞きながら、ティリンスが何かに気づいたようにウラジーミルに問いかけた。
「イグアスはああ言ってるけど、君はさっき『もう逃げも隠れもしない』って言ったよね。あれはどういう意味なの?」
「それはあたしも聞きたいと思ってた」
イグアスもティリンスの言葉で思い出したようで、ティリンスの横に派手に腰を下ろしあぐらをかいた。答えを待つ二人を交互に見比べたのち、ウラジーミルが涼しい顔で話し出す。
「そのままの意味だ。どうせこのまま雪山に隠れていたって、何も解決しない。だから、そろそろ国に戻ろうと思う」
「随分無鉄砲なんだな。いくら前皇帝の息子とはいえ、今のアルトネアはすでにグロザーの支配下にあるはず。ならば、国に戻ったところで取り押さえられ皇帝陛下の前に突き出されるだけじゃないのか?」
ライグの指摘に、ウラジーミルはやけに快活な笑い声を上げた。しかし彼の表情はどこか暗く真に迫るものがあり、ライグはウラジーミルが放つ言葉をある程度予測することができた。
「でしょうね。でも、ただで死んでやるつもりはないんです。私が事切れるときに、必ず叔父上も道連れにしてやりますよ。私は宮廷内の見取りもよくわかっていますし、奇襲をかければ不可能ではないはずですから」
ライグは青年の目の奥に揺れる狂気を見て取り、ぞっとした。
「ウラジーミル……」
ティリンスが悲しげに王子を見つめる。しかし、王子は目線を落とし、反応を返そうとはしなかった。
ライグも、復讐に人生を懸けようとする若者に早まるなと忠告したい気持ちはあったが、気の利いた言葉も上手い説得の言葉も思い浮かばず唇を結んだ。そもそも、たった今知り合ったばかりの人間に諭されてもそう飲み込めるものではないだろう。
恐らく、ウラジーミルの中にたぎる憎しみは強く、深い。
家族を目の前で惨殺されたのだとすれば、なおさらだ。
ライグが何も言えないまま黙っていると、ウラジーミルはぼそりと続けた。
「それに、私は“ゼルカロ”だ。上手く潜入できれば、生きて宮廷を出ることもできるかもしれない」
聞き慣れない単語に、ライグは訝しげな顔つきになった。
「ゼルカロ?」
「そのうちわかりますよ」
ウラジーミルは再びいつもの温和な表情に戻り微睡み始めたスズダリの顎の下を撫でると、ライグとティリンスに少し悪戯っぽい眼差しを向けた。
「そういえば、今日はここに泊まるんでしたね。どうです? スズダリの毛皮はなかなかのものですから、この子に温めてもらっても構いませんよ。ただし、貴方たちがこの子と一緒に一晩過ごす勇気があるなら、ですけど」




