終章.君がいる世界
「蘭!」
何度も自身を呼ぶ声に、蘭はもやがかったようにぼんやりとした頭で考えた。何故こんなにも必死に名を呼ばれているのかがわからない。
何か酷く疲れているような気がし瞼を開ける事すらも億劫だと、蘭は再び眠りに引きずり込まれそうなまま声の主の名を呼んだ。
「セルア?」
「どこか痛いとかはねぇのか? 大丈夫か?」
これまで何をしていたのかもはっきりとしないまま、蘭は心配そうにかけられた声に驚く。
側にはセルアがいるのだとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。不慣れな発音で言葉を紡ぐ相手は誰なのかと、慌てて瞳を開く。
「だ……れ?」
必要があり呼びかけられていると思える声と共に、蘭はのぞき込まれていたようだ。自分よりも焼けているらしいが似た肌色に、黒髪と濃茶の瞳を持った人物が随分と間近でこちらの様子をうかがっている。
(知らない人……だよね?)
どこか覚えがあるような気もしたが、特徴と合致する者を思い出せないと蘭は真上にある顔を見つめながら瞬く。
すると相手は酷く眉を寄せながら言葉を返してくる。
「誰とはなんだよ? 俺に決まってるだろうが」
眉を潜める仕草がやけに見慣れたものに思え、蘭は確かめるように瞳を動かす。あまりに近い為に顔以外を確認する事はできないが、どうもセルアに似ているように感じられた。しかし明らかな違いがあるからこそ、言葉もないままに相手を見つめる。
「どうした?」
蘭は仰向けに寝転んだまま、かけられた言葉すらも無視して相手を眺め続けた。こちらへ向けられている表情は心配しているであろう事がはっきりとわかるものであり、例え色が違えどもこの人物はセルアなのだろうかと思い始める。
しかし、あまりにも見慣れぬ色合いが蘭に不安を抱かせる。
「大丈夫か? 蘭」
男から発せられた台詞はどこか発音が不自然であり、名を呼ぶ時だけが耳慣れたものに聞こえた。ずっとお前呼ばわりだったはずの、いつの間にか蘭と呼んでいた声が自身に向けられているように感じられてしまう。
浅黒い肌に鋭い碧の瞳、そして癖のある金髪が見知ったセルアの姿だった。しかし目の前にあるのは、蘭とあまり変わらぬ肌の色を持ち、髪は黒く瞳は濃茶の人物なのだ。
「何……? セルアなの?」
まるで別人ではないかと思いつつも名を呼べば、目の前にある顔がはたと気付いたとばつが悪そうに変わった。同時に右手が髪をかき上げる仕草も見慣れたものであり、やはりこれはセルアなのかと蘭は考える。
「悪い、色が変わってるんだった」
ユージィンも色を変え城内へ入ったと告げていたのであり、ここでは可能なものだった。顔形はセルアと合致する人物が言うのだから、色を変えたという事なのかもしれないと蘭は問う。
「……どうして色が違うの? 肌もだし……話し方も変だよ?」
「ああ、色々あってな」
蘭が変化を認識したからだろうか、間近にあったセルアの顔が遠ざかり起き上がると共に上半身が目に入る。それがまたとてつもない驚きをもたらした。
セルアは服装も違っており、蘭の目には黒いTシャツにジーンズ姿というあり得ないものが映っている。
「ちょっ、ちょっと待って!」
慌てて体を起こし周囲を見渡せば、またもあり得ない光景が蘭の瞳には飛び込んでくる。
ウィルナやアンヘリカでは建物は基本的に石で造られており、四角く切り出した物を積み上げて形成されなくてはならなかった。しかし今ある光景は、ある意味蘭が見慣れたと思わなくてはならない造りをしている。
室内はどうやら八畳程のフローリングであるらしい。テレビやソファ、テーブルが置かれている。思いもしない状況に自身がどこにいるのかと確認をすれば、蘭はパイプベッドの上におりセルアが載せられた布団の端に腕を着く格好でこちらを眺めていた。
「な……な、な、な、なんで?」
壁に押し付けられるように置かれているベッドからは、身を起こしていれば簡単に窓の外を眺める事ができる。
サッシの入ったガラス越しに見える景色は明らかに住宅街であり、ここはマンションか何かの一室なのかと思わされた。
蘭は何も言えぬまま窓の外へと目を向け続ける。今度は目先だけではなく体をベッドの端へと移動させ、窓際からしっかりと景色を見た。ウィルナやアンヘリカでは見受けられない風景は、蘭のよく知るものだ。アスファルトで舗装された道があり、塀があり家屋が並ぶ、アパートやマンションの姿も見え、どうやらここは本当に住宅街の一角らしいと認識する。
本来自身がいるべき世界と確信せざるを得ない光景に、蘭はわずかに持ち上げていた腰を力なくベッドへ落とし掠れた声を漏らした。
「帰って来た……の?」
見知らぬ世界で目覚め、帰る事をずっと目標としてきたはずなのだ。願いが叶ったと言える状況ではあるが、蘭はただ混乱するばかりだった。
(わたしはさっきまで何をしてた?)
眠りから覚めたと理解しているが、それ以前がすぐには思い浮かんで来ない。
(どうして帰ってきてるの?)
優先すべき事柄がわからず、とにかく色々と考えを巡らせようとしても蘭の頭はうまく働いてはくれなかった。無意識に長い己の髪を掴み、眉根を寄せて考える。
追いつけない自身の気持ちをとにかく落ち着けなければと、深く呼吸を繰り返す。
そうしてゆっくりと一つ一つを考え始め、はっと脳裏に浮かんだ映像と共に蘭は呟いた。
「わたし……アンヘリカで」
ヘンリク達と会い、刺されたのだ。まざまざと蘇った記憶に蘭は息が止まりそうになる。
恐る恐る胸元に目を落とすと、衣服が破れ肌が見えていた。あまり大きくはない穴に手を差し込んでみたが、肌は傷一つなく滑らかだ。
おかしいと蘭は首を捻る。
嫌な感覚がはっきりと記憶に残っているのだ。
確かに自分は刺されていると蘭は服の中を何度も覗き込むが、やはり傷は見受けられない。布自体は破けているのにどういう事かと考えていると、同じように覗き込んでいるセルアに気付く。いつの間にかベッドに上がり隣に並んでいたらしい。
「ちょっと、何で見てるのよ!」
慌てて胸元を隠すと、不満そうな表情が目に入った。
「別にいいだろうが、俺だって心配してんだ」
この口ぶりにああやはりセルアだな、と思いつつも蘭は改めて聞く。
「……本当にセルア? それにここって」
窓の外に見える景色から答えがわかっている気はしたが、聞かずにはいられなかった。セルアは口端をしっかりと上げた後に答える。
「俺はセルアだ、ここではこの方が暮らしやすいからな。そして、間違いなく蘭がいた世界だ」
黒く変わった己の髪を軽く摘んで見せたセルアに、蘭は聞き返そうとしたが上手く言葉が出て来ない。驚いているのか喜んでいるのか、よくわからない感情に戸惑いつつもどうにかセルアを見つめ続ける事で何かを訴えた。
「あり得ねぇと思えるだろう? だがな、これが現実なんだよ」
そうして返って来た言葉と表情はやはりセルアのものであり、蘭は不思議に感じつつもやはり納得するほかはないのかと思わされてしまう。
「でも、わたし刺されて……」
嫌な衝撃がはっきりと思い出せる程、それは記憶に刻み込まれている。だが証明する衣服の破れはあるものの、いくら確かめようとも中身の蘭自身には傷一つない。
あの時確かに自分は死ぬと思ったのだ。鋭い刃に貫かれ、走馬灯のような思い出を見つつ意識を手放した。飛び交う様々な声をうまく聞き入れる事もできないままに絶望していたはずだった。
セルアは何も言わずにこちらを見つめていたが、しばらくの間を置いた後小さく呟くように告げる。
「死んだ。蘭は胸を刺され、死んだんだ」
酷く暗い表情は本当にこちらが命を失う場面を見たと感じられる気もしたが、どうしてもおかしさは拭えない。
「死んだ?」
ならばどうして自分は動いているのか。死を迎えたのならば、何故こうして話をしているのかがわからないと聞き返す。
「おかしいと思うだろ? 俺だってそうだ」
あぐらで座るセルアは片手を伸ばすと、確かめるように隣にいる蘭の髪に触れた。
「だが、すぐに蘭に溜まっていた魔力が噴き出した」
「噴き出す?」
暴発したという事かと思うと、どうやら違うらしかった。
「元に返したってとこか、見ていた俺でもはっきりとは説明できねぇ」
セルアが言うには、蘭は刺されて確かに絶命したらしい。地面に倒れこんだ蘭をセルアとユージィン、クロードや周りにいた人々は確かに見た。剣に貫かれたまま鼓動を止めた蘭の姿をたくさんの人が目撃していたらしいのだ。
だがそれも一瞬の事であり、蘭の体からはまばゆい光を帯びた魔力が噴き出し誰もが目を開けられない事態に陥ったという。
「とんでもねぇ光と風で、あの状況をしっかり見ていた奴なんて一人もいないはずだ」
これを聞いた蘭はやはり魔力の暴発なのではないかと思う。セルアが暴発した際に浴びた風も目を開けられない程に強いもので、蘭は体に細かな傷をいくつも負ったのだ。
しかしセルアはあっさりと否定をする。
「誰も怪我なんかしちゃいねぇよ。風は強かったが、俺の暴発とは別物だ。次に目を開けた時にはアンヘリカ中、いやウィルナからシェラルドまでの間、全てが植物に覆われていたんだからな」
「植物?」
今度は何を言い出したのかと蘭は驚くばかりだが、セルアにふざけた様子は一切見られない。
「ああ、そうだ。砂ばかりだったはずの土地が、緑豊かな土地に一瞬で変わっちまったんだ。砂が土になり、木が生い茂る。後から調べてわかったんだが、水脈すら増えてたみてぇだな」
セルアの話す内容をただ聞いているだけではわからない事ばかりだった。自分が刺され、魔力が噴き出し、緑が生い茂る。
「どういう事……?」
更に詳しい内容を知りたいと蘭は口を開いたのだが、セルアは軽く笑うだけだった。
「俺にだってよくはわからねぇよ、ユージィンだろうが誰だろうが、はっきりとした事は知らねぇ。その後にあったのは、蘭が倒れていた場所には違うランがいただけだからな」
「違う…………蘭」
一つ呟いた後に、それは本来いるべき姫の事なのだろうと蘭は気付く。
「姫様が帰って来たの?」
蘭が身を乗り出した為にセルアに掴まれていた髪がするりと手から抜け落ちる。
セルアは大きく頷くと、何を思い出したのか随分と顔をしかめた。
「ああ、あいつは何事もなかったみてぇに立ち上がり、こっちに向かって言いやがった」
ようやく帰れたようだ。
その一言だけでもセルアとユージィンは蘭ではなくランだと気付いたらしい。
溜息をこぼしながらもセルアは言葉を続ける。
「見た目も声も一緒だが、蘭とあいつは全然違う。まあ、あの光景のおかげで後々楽な部分もあったんだがな」
「楽?」
「人が死んだと思ったら光り、そして普通に起き上がって話したんだぞ? 周りの驚きようはとんでもねぇって話だ」
詳しい情景を思い浮かべる事はできないが、とにかく倒れたであろう自身が起き上がる様を蘭は想像した。
「それを上手く利用した結果、あいつはもう神様扱いだ。ウィルナとアンヘリカとシェラルドを救った女神様って事になる」
蘭の常識とはかけ離れた世界ではあったが、さすがに人一人が蘇る姿は人知を超えたものに映ったのだろうと頷けばセルアは面白そうに笑う。
「ちなみに蘭を知っている奴らは皆、お前が神様だと思ってるぞ」
「わたしが?」
思いもしない発言に蘭は疑問を口にし、セルアは更に笑い声を上げた。
「アンヘリカでは蘭がいて、世界を救って帰ったって事になってる。実際に話してる奴らもたくさんいるしな。子供達に違う世界から来たって言ったんだろ?」
確かにアンヘリカで子供達と遊んだ際に、そのような事があったなと蘭は思い返す。
「そうは言ったけど……」
あの時はまさか自分が神様扱いをされるとは思いもせず口にした内容だった。帰る事ができるのかもはっきりとしないまま、何気なく伝えた言葉に意味があるとは思いもしない。
セルアの話す内容が嘘だとは思わないが、どうにも納得できないと蘭は表情を曇らせる。
「俺は嘘なんてついてねぇぞ? あとは、実際に見た光景のせいだな。蘭はこの為にアンヘリカへ来たんだってクロードに言ってる姿は見物だったな」
「クロードに?」
突然、話が変わった事に蘭は首を傾げる。
「俺とユージィンはどっちも知っているが、クロードは違う。蘭がランに変わった事もわからないで話しかけて相当驚いてたな。その後は傍目にもわかるくらいに取り乱しやがって……まあ、時間が経って最終的には子供達に宥められたってわけだ」
どんな状況を思い出したのかはわからないが、セルアは己の記憶を楽しんでいるようだった。だが、表情が突然真顔に変わる。
「まあ、それ以外にも色々とあったがな。目の前で蘭が死んじまったんだ、わかるだろ?」
死という単語で思い出される出来事がクロードにはあった。以前、アンヘリカで蘭が斬りつけられた際に見せた行動は、確かに死に関係しているのだろうと皆が結論付けている。
理由がなくとも人の死には驚かされ悲しみを覚えるものだ。だが、クロードはそれだけではない何かを抱えている。
「何かあったの?」
クロードの身に何が起きたのかと聞けば、セルアは表情を少々困ったものへと変えた。
「ないとは言えねぇな。だが、蘭はクロードにも変わる機会を与えたって事なんだろう。俺も蘭に出会い変わり、世界も変わった。クロードも一緒だ」
あまりに大雑把な説明に蘭は不満をはっきりと口にする。
「よくわかんないよ」
しかしセルアはクロードに関する詳しい話をしようとはしない。自分の死を見て何かしらの影響を受けた事はわかったが、それがどのように変化したかを教える気はないらしかった。
食い下がるような蘭を見た為か、セルアは仕方がなさそうに髪をかき上げて言う。
「俺はあのクロードに蘭が会わなくて安心してるってこった」
「安心? そんなに大変なの?」
会わせられるような状態ではないのかと聞けば、違うとセルアは苦笑する。
「……こう言うのは気にいらねぇが、あのクロードを見ると少し自信がなくなりそうなんだよ。負けるとは思っちゃいねぇけどな」
意味のわからない蘭は酷く眉を寄せてしまう。
「どういう意味?」
煮え切らないセルアに蘭は何度も聞き返したが、どうしてもはぐらかされてしまう。しまいには頭を乱暴に揺さぶられ、蘭は眉を吊り上げる。
「なんなの!」
「そんなもん自分で考えろ。クロードはたぶん、いや確実にアンヘリカを仕切るようになるんだろうな」
諦めたのかどうか、わずかばかりの情報を与えてくれたセルアへ蘭は更に聞く。
「マルタみたいに代表になるの?」
「おそらくな。あいつがアンヘリカと二国を取り持つ気がする」
何故かはわからないがクロードがアンヘリカの代表になるのだろうと蘭はひとまず頷く。どうやらセルアは詳しく話す気がないようなので、これ以上を教えてもらえるとも思えない。
とにかくアンヘリカの代表になれるとセルアが言い切るのならば、決してクロードの状況は悪くはないのだろう。
もう少しはっきり知りたいものだと思いながら視線を落とすと、クロードに貰った腕輪はいまだに蘭の手首にはまっていた。腕を動かすとしゃらしゃらと音を奏でる姿を見ながら、ふと飛び込んで来た事実に疑問が浮かぶ。
胸には傷がないが、右腕には傷跡がはっきりとあるのだ。
アンヘリカでは薄い布を羽織っていたが、どうやらなくしてしまったらしい。ヘンリクから逃れる為に駆けた際にでも落としてしまったのかと思いながら、晒された右腕に視線は固定される。
「どうした?」
セルアが心配そうに声をかけて来ているのはわかっていたが、蘭はすぐには答えず無言のまま視線を向けた。
「なんだ?」
不思議そうに目を合わせてくるセルアに蘭は疑問を素直にぶつける。
「結局わたしはどうして向こうに行ったの? 突然、向こうに行って一年近くも過ごして、そして今度は急に帰って来た。傷は腕にはあるのに胸にはないし……わからない事だらけだよ? それにセルアはここにいるけれど、何か方法が見つかったって事?」
畳みかけるような言葉にセルアは目を大きく見開いたが、すぐに表情を戻しはっきりと言う。
「向こうに行けるかと言ったら、それはもう無理だ」
「……そう」
理由を聞かずともセルアの口調から蘭は本当に無理なのだろうと思った。すると、セルアはまた別の質問への答えを口にする。
「蘭が何の為に向こうへ行ったかの理由は、結果的に言えば魔力を溜めて魂を返す事か?」
「魔力を溜めて、魂を返す……」
疑問系であった言葉を同じように繰り返した蘭の頭を優しく撫でながら、セルアは更に続けた。
「絶対ではないが、俺とユージィンとあいつの意見では蘭は死ぬ為にウィルナへ来たんじゃねぇかって事になってる」
「死ぬ為?」
思わず声を荒げた蘭へセルアは沈んだ表情を見せ、口にはしたものの決して言いたい内容ではなかったらしい事が窺えた。
「実際に死んではいないが、向こうにあるべき魂の欠片は死を迎えたのかもしれねぇ」
小さく返された内容に、蘭は疑問を抱く。
「魂の欠片?」
どれだけ口にしたのかを覚えていない程に、魂の欠片という言葉は蘭の側に付いてまわっていた。それが何なのかをはっきりと形で知る事はできなかったが、魂の欠片を返す為に自分は死を迎えたという。忘れる事のできない身を貫いた嫌な感触を改めて思い出し、蘭は体を震わせる。
セルアは蘭の動きに気付き、優しく肩を抱くようにしてこちらを落ち着かせようとしてくれたらしい。それでも蘭の体はすぐに震えを止めはしなかったが、話は続けられる。
「正直、蘭が死ぬ為に来たって事には俺も納得はしちゃいねぇ。だが、帰るきっかけはそれだったとも思えるんだよ」
時期を待ち、何かが動くと言って行動してきた自分達。蘭はどうしても思わずにはいられない。
「なら、死ぬ為に行ったのに、死ななかったから一年も経ったの?」
素朴な疑問だった。クロードにさらわれヘンリクには腕を斬り付けられたりと、蘭は確かに命が危機にさらされる状況に出会ってきたのだ。セルアの暴発もおそらくではあるがこちらが咄嗟に腕を掴まなければ、恐ろしい結末を迎えていた可能性がある。
しかしセルアは随分と嫌そうな表情を浮かべ、優しく触れていたはずの手で今度は蘭の頭を小突く。
「そんな事言うんじゃねぇよ。おそらくだが、ただ死ねばいいってもんじゃなかったんだ。蘭がいたからアンヘリカとの関係も良くなり、シェラルドとも不本意な状況ではあったが場を共にする事ができた。それらが全て集まったから上手くいったんだろうよ」
あまり良い発言ではなかったのかもしれないが、どうしても納得のできない蘭は不満げにセルアを見上げる。
「上手くいったって?」
「ウィルナ、シェラルド、アンヘリカの人間が揃った状態で起きた出来事だからこそ、誰もが否定できねぇんだよ。ウィルナの姫によって奇跡が起きたって事に……。結果的にウィルナとシェラルドとアンヘリカは一つにまとまるきっかけを持った」
「一つにまとまる?」
ユージィンは姫と自身の間の子をきっかけに、ウィルナとシェラルドに繋がりを持たせようとしていた。それが叶ったという事だろうかと蘭は驚かずにはいられない。
「ああ、俺は蘭がいなくなりあいつが戻って来てから半年位を見ただけだが、あのままならいずれは一つの国になるのかもしれねぇ。そこまでには時間はかかるだろうが、戦いをするような状況からは脱していたと言えるな」
隠されていた赤い本には先視みはただ一つのものであり、決して分けてはならなかったと記されていた。蘭はウィルナ、シェラルドは元は一つの国だったのかとすら考える。先視みが関わる何かがきっかけで分かれ、再び戻る機会を得たという事ではないのだろうか。
(それにウィルナとシェラルドが一つになるだけじゃなくて、アンヘリカまで)
初めからアンヘリカに住んでいた者もいたのだろうが、あの土地は二国の者が共に暮らす為に移住する場所でもあったのだ。戦いにさらされると知りながらも国を捨てるという覚悟を持った人々がいる町だった。
ユージィンはマティアスであると正体をさらしてしまっており、おそらく国をまとめ上げるには苦労もあるのだろう。しかしウィルナでのユージィンである事も変わりはしないと、どちらも捨てはしないと強く告げていたのだ。
ウィルナのユージィンであり、シェラルドのマティアスでもあるからこそできる事。そして、そこにアンヘリカも加わりあの世界は変わって行く。何より、誰よりも望まれていたウィルナの姫であるランが姿を現しているのだ。
おそらくだが、ユージィンならば全てをやってのけるのではないかと蘭は思う。
蘭はウィルナで目覚め、アンヘリカへ行き、シェラルドと関わりを持った。その間に幾つも危険な目に会っていたと思い出しながらも告げる。
「じゃあ……わたしが行った事は無駄ではないんだね」
何となくではあるが、無意味ではない。そう思えた蘭は、帰って来て初めて笑みを浮かべる事ができた。今後も忘れられないような恐ろしい体験もしたが、こうして生きていると実感する事が叶っている。
「無駄なんて言えねぇよ、蘭は体を張ってまであの世界を変えたんだよ。何もしてないわけじゃねぇだろう?」
セルアも笑顔を見せ、そっと労わるように蘭の右腕に触れる。
「これがシェラルドと関わるきっかけだったもんね」
薄れはしても消える事はないであろう傷痕を見た蘭が告げると、セルアも頷いた。
「これがと言うよりは、全てがきっかけだったのかもな……俺もその一人だ」
「セルアも?」
「蘭があっちの世界に行った事自体。そして、向こうで会った奴全てが何かのきっかけなんだろうよ。ユージィンもクロードも必要があって出会ってるんじゃねぇのか?」
蘭から腕を離したセルアは己の髪をかき上げながら言うと、今度は肩を抱くようにしてこちらを強く引き寄せる。
「だが、俺はそれだけじゃなくて蘭に惹かれたんだからな? 先視みのせいとか言うなよ?」
「ちょっと、急に何?」
耳元に迫ったセルアの頭を押し退けるように片腕を伸ばせば、簡単に空いている手で抑えられてしまう。
「別にいいだろうが魔力を移すって事だ。しかし、蘭に会う為にわざわざここまで来たものの、言葉が違うのには驚いた」
魔力を移すと言われれば断れないと蘭は抵抗を止めたが、それ以上にセルアの言葉に捕らわれる。
「言葉が違う?」
「ああ、蘭とは普通に話していたから気にもせずに来たが、さっぱりだった」
苦々しい表情を浮かべるセルアへ蘭は眉を潜めた。
「だって、わたしは普通に喋ってたじゃない」
文字を読む事はできなかったが、蘭が会話に困る事はなかったのだ。すると、セルアは溜息を一つ零す。
「魂の欠片を持っていたから、だろうな」
「魂の欠片……」
またも現れた言葉に蘭は繰り返す事しかできず、セルアは苦笑しながら続けた。
「先視みの力を持っている代わりに魂の一部がない。その一部を持っていたのが蘭、理由ははっきりしねぇがそれがあるから会話も成り立ったって事だろう。蘭が向こうへ行ってる間に、いなくなった姫のランはこっちに来てたんだよ。あいつはここの言葉を理解できちゃいなかった。何の知識もないままに知らない言語を喋れる蘭が特殊なんだろうな」
一人納得しているらしいセルアだったが、気になる内容は話せるという事実だけではなかった。
「姫様がいたの?」
あれだけどこへ消えてしまったのかと思っていたウィルナの姫は、自身と入れ替わるようにこちらへ来ていたのかと蘭は声を上げる。
「ああ、あいつは俺がどうにか連れ出してここで過ごさせた」
「連れ出して?」
「あいつが蘭の家にいて家族と会ったらどうなると思うんだよ? 警備会社とかに入っていなくて助かった、どうにか部屋に入り込めたからな」
淡々と疑問に答えるセルアへ、蘭はまた驚きの声を発してしまう。
「わたしの部屋に入ったの?」
するとセルアは困ったように眉を下げながら言った。
「問題はそこじゃねぇだろうが。あいつをここに連れてくるのが重要だったんだよ。蘭だってその格好で家族の前に出れるのか?」
確かに蘭が今まとっているのはウィルナの赤い衣服である。とてもではないがこれで外に出る事も、誰かの前へ立つ事もできるとは思えない。何より髪が有り得ない程に伸びてしまっているのだ。
どうやらすぐに帰宅はできないらしいと考えながら、蘭はとにかく疑問を口にする。
「でも、なんでわたしと入れ替わりでここへ来た姫様とセルアが会えるの? おかしくない?」
その時、蘭は向こうでセルアと一緒にいるのだ。どう考えても不自然に思えた。
セルアもこちらの言わんとしている事がわかるらしい、大きく頷く。
「それは俺にもよくわからねぇ。とにかく、俺はこっちに来たかった。あいつにもこっちが向いてるから行けっては言われたんだがな、蘭が残して行った教本にはこっちの文字が書き込んであっただろ? 困るはずだから絶対に覚えていけと、半年間嫌になるくらいに強要されたんだよ」
何やら随分と酷い目にあったようにセルアは告げていくが、蘭は再び驚くだけだ。
「向いてるって姫様が言ったの?」
蘭と入れ替わるようにやって来た姫と出会っているセルアが、姫の意見を受けてこちらへやって来ている。どうにもおかしな状況を理解する事ができない。
「ここには魔力がねぇからな、溜まる事がない。俺が過ごすにはいいって言われたんだ。あいつが知っているなら何とか移動できるんじゃないかと術を使って、たまたま成功したってとこだ」
「たまたま?」
「術で世界を移動するなんて考えた事もねぇ、向こうにいる時だって一瞬で場所を移動しようなんて思いもしなかった。だが、やってみればどうにかなるもんだな」
セルアの口にしている内容はとてもではないが信じられるようなものではなかった。しかし、蘭は実際に向こうの世界へ行き、帰って来ているのだ。それだけでも移動する事が不可能ではないと証明してしまっている。
「それが成功した?」
何とも不確定な状況でやって来たらしいセルアへ聞けば、曖昧な笑みが返された。
「そういうこった。まあ、三年も前に着いちまったのは失敗だったが……どうにかなったしな」
どうもあまり良い口ぶりではないセルアに蘭は詰め寄るように問う。
「どうにかって、危なかったんじゃないの?」
しかしセルアは後悔してはいないらしい、はっきりと言い切った。
「試してみなきゃわからねぇんだ、俺は上手くいく事に賭けた。そして、こうしてまた蘭と会っている。問題ねぇだろう?」
「問題ないって、もし……」
ここへ辿り着く事ができなかったならば、セルアの身はどうなっていたのか。おそらくではあるが、酷い結果が待っているような気がすると口にはできないまま蘭はうつむく。
「そうやって蘭が俺を心配してくれるなら、来た甲斐があるってもんだ」
何故か嬉しそうな声を上げたセルアへどうしたのかと目を向けると、真剣な瞳がこちらを見つめていた。
「俺がここへ来たのには他にも理由がある」
間近にいるセルアがどこか苦しそうな表情で言葉を搾り出す。
「蘭が最後に俺の名前を呼んだからだ」
「わたしが……名前を?」
真っ直ぐに見据えてくるセルアを瞳に映しながらも蘭は、その瞬間を思い出そうとした。
「覚えてねぇのか? 崩れ落ちながら、蘭は俺の名前を呼んだんだよ」
しかし蘭にとっては全く記憶にない出来事だった。確かにあの時セルアの姿が思い浮かんだとは思ったが、それを言葉に出していたのかまではわからない。
何故自分はセルアを思い出したのだろうか? 蘭はそれすらに疑問を覚えつつも、手繰り寄せるように記憶を辿る。
そうして思い当たった感情と共に目の前にいるセルアを見た途端、蘭は顔を真っ赤に染めた。
これまでは帰れるのか帰れないのかもわからぬままであり、答えを出す事などできないのだとまるで自身に言い聞かせるように考えてきていたのだ。しかし状況は変わってしまっている。はっきりと答えを出せると言える現状で、蘭は己の想いに行き当たってしまった。
セルア自身はもう帰れないのだと言い切っており、蘭のように曖昧な存在ではない。何より己の意思でこちらへ来る事を選んだのであり、迷いなど持っているはずもないのだ。
「どうした?」
聞き返して来るセルアの瞳がどこか面白がっているようにも見えた蘭は、大慌てで否定をした。
「な、なんでもないよっ。それよりもその後は?」
熱い顔を戻さなくてはと思いつつ早く話を進めようとすれば、つまらなそうに言葉が返ってくる。
「その後はさっき説明した通りだ。蘭の魔力によって世界は変わった。ユージィンはランと婚約し、シェラルドとウィルナは時期を見て統合される。そこまでは何年もかかるだろうが、先視みがなくなっちまったんだ。かえって悪い方向へは進まないだろうな」
それでもセルアはしっかりとした内容を教えてくれ、更なる事実に蘭はまたも驚く。
「先視みがなくなったの?」
「蘭が持っていた魂の欠片が戻った事で、先視みの力は綺麗になくなっちまったらしい。まあ、あるべきものが返って来た事により、与えられていた力が失われたって納得はしてたぞ。二人共、それで良かったみてぇだ。力を持った奴にしかわからねぇが、とにかくあれは不要だと言っていた。あれがある限りは平和でいられる気がしねぇだとよ」
ユージィンなのか、それとも帰った姫が言ったのかは分からないが、蘭はその言葉で思い出す。
「平和でいられる気がしない、か。確かにユージィンは先視みが嫌いだったもんね」
最後の最後に頼ろうとはしたが、決して良い力だとは思っていないとユージィンは告げていた。振り回されてしまうような感情を与える先視みの力をなくした事をきっと喜んでいる。蘭はそんな風に考えてしまう。
思わず笑みをこぼした蘭へセルアも口端を上げる。
「あの世界は今、発展に向けて進んでいるはずだ。当分は陰る事もねぇだろうな」
理由も忘れる程の長い間、いがみ合って来たウィルナとシェラルド。そして、その狭間で多くの血を流し続けてきたアンヘリカ。三つがまとまる事ができる、それはきっと良い未来なのだろうと蘭は問う。
「戦いが起こる心配って本当にない?」
先程も戦うような状況ではないとセルアは告げていたが、改めて聞けば少々悩ませたらしい。わずかな時間が置かれた。
「ん、小競り合いくらいはあるんじゃねぇか。全部が仲良くなんてはできねぇだろうからな。だが、規模は違う。前に比べれば可愛いもんだろ?」
「そう言われると、そうだね」
全てが良くなるとは言い切れないが、未来に向けてあの世界は動き出しているのだろうと蘭は納得する。
するとセルアは体の向きをわずかに変えて、蘭を更に引き寄せようとした。無理に胸元へと抱き寄せられた蘭は、両手を使って押し戻すように抵抗する。
「何? どうしたの」
しかし、それでも離してはくれないセルアを不思議に思いながら、今までのやり取りのおかしな点に気付く。
「待って! ちょっと待って」
「何だ?」
激しい声を上げた事を気にしたのか、セルアの腕が緩み蘭は胸元から抜け出す。そして、大きく離れる必要もないだろうと、改めて正面に座りなおし口を開いた。
「魔力がないならくっつく必要もないじゃない」
魔力を移す為だと言われ納得していたものの、この世界には魔力がないと告げられていたのだ。張り付かれている意味がないのだと蘭は訴える。
「俺がそうしたいんだからいいだろうが?」
しかしセルアはそんな事は気にしていないらしい。蘭の片手を掴むと、その甲にうやうやしく唇を落とす。
「な……な、何?」
再び蘭の顔は熱くなり、話がどこへ向かっているのかがわからないと混乱してしまう。
そんな様子に満足したのだろうか。セルアは蘭の手の側で嬉しそうに口端を上げながら、瞳だけをこちらへ向けてくる。
「向こうは向こうで上手く収まったってこった。で、こっちはこっちで上手くやっていけるだろ?」
そうして当然のように紡いだ言葉へ、蘭は聞き返す。
「何? どういう事?」
するとセルアは信じられないものを見るようにあんぐりと口を開けた。だが、すぐに言葉は放たれる。
「俺の名を呼んだくらいだ。結果を出したって事だろうが?」
「……そ、それはそうなんだけど」
思わず飛び出した自身の言葉に蘭は慌てて掴まれた腕を引っ込め、両手で口を覆う。何故そう答えてしまったのかと思いながらもセルアを見れば、満面の笑みが浮かんでいた。
「なら、いいだろう」
改めてこちらへにじり寄って来そうな雰囲気に、蘭は両手を伸ばしセルアを遮る。
「ま、待って! 今は無理、もう少し待って、もうちょっと」
「何だよ? いつまで待たせる気だ」
不満そうな顔がこちらを見つめてくるが、受け入れる事はできない。
「いつまでって、わたしはさっき気付いたんだもん……まだ、何て言うか……うん、とにかくお願いだから待って」
苛ついた声にどうしたものかと蘭は思ったが、よく考えると自分は本当にまだ気付いたばかりなのだ。どうにも心の準備ができていないというか、追いついて行けない。
だが、セルアもすぐに引いてはくれないらしい。
「俺は向こうだけじゃなく、こっちで三年待ったんだぞ?」
自信有りげに言い切る姿に思わず溜息が出そうになったが、蘭はどうにか押しとどめる。そうだと認めてしまったのだから仕方はないのだが、何かを言わねばと考えを巡らせた。
「ちゃんと家に帰って落ち着いてからにするからね?」
明らかに不機嫌そうな顔をしているセルアへそう告げながら、蘭は不在だった期間に気付く。
「向こうに行って……一年経ってるんだよね」
「一週間だ」
呟いた蘭へセルアが返した内容は予想外のものだった。何が一週間なのだろうかと、蘭は聞き返す。
「一週間?」
「向こうには一年いたが、こっちでは一週間ってこった」
特にからかうような雰囲気もなくセルアは告げており、うまく理解のできない蘭はやはり聞き返す事しかできない。
「何が?」
「理由はわからねぇが、蘭は一年、あいつは一週間を過ごしてる」
そうしてセルアが室内に置いているカレンダーを指差したので、蘭の視線はそちらを向く。すると、自分がいなくなったであろう年の五月と印刷されている。
「じゃあ、わたしは本当に一週間しかいなくなってないの?」
半信半疑で問う蘭へ、セルアは大きく頷く。
「そういうこった。ああ、悪いが一度だけ使わせてもらったからな」
セルアは立ち上がると、テーブルの上に置いてあった物を手にし引き返してくる。蘭は手渡された品をただ眺め首を傾げた。
随分と懐かしく感じるそれは、見知ったストラップをぶら下げている自身の携帯電話だった。ベッドサイドに置いてあったものをセルアが持ってきたのだろうかと蘭は問う。
「どうして、携帯?」
受け取ったものの、全く意味がわからない。
「ただいなくなったら問題だろうが? だからメールを一度送った」
「誰に?」
「蘭の母親にだ」
「お母さんに?」
セルアの言葉を聞きながら電源ボタンを押し、ゆっくりと起動する画面を見つめる。なかなか操作のできない様子にこんなにも遅いものだったかと思いながら蘭は、送信フォルダを開いた。
最新の履歴は確かに母に宛てたものであり、いなくなったであろう日に送られている。蘭はその内容を確認した。
一週間、出かけてきます。心配しないでね。
ただ、それだけだった。
呆然と画面を見つめる蘭へ、セルアははたと思い出したと口を開く。
「送ってすぐに電源は切ってるからな。他は何もいじってないし、見てないぞ」
勝手に携帯電話を使われる事は確かに嫌なのだが、今はそこを重視する時なのかと疑問を覚えつつ蘭は眉を潜める。
一年間いなくなっていたのではなく、一週間だった。それはありがたいような気もしている。しかし、短いとはいえたった一通のメールで家を出てしまった事には変わりがない。
現にメールを開いている状態の為に着信音は鳴らないが、サーバーに保管されていたのであろうメールを大量に受信しているのだ。
ちかちかとランプを点滅させながら画面に表示される送り主は、父と母の二人だけではなく親しい友人達までもが含まれていた。開く事がないままでも想像できる内容に蘭の顔は青ざめる。
「どこにいたのか……何て言おう」
確かに理由があって姿を消したのではあるが、信じてもらえるとは思えない。異世界の存在など誰一人、いやセルアはいるのだが通常は理解されないはずだ。
そんな蘭を見つめているセルアは、何故か自信ありげに笑う。
「そこで俺を出せばいいだろうが」
「セルアを?」
またも意味が分からないと目を向ければ、笑みを浮かべたままセルアは告げる。
「一緒に行って、ここにいたって言えばいい」
「ええっ、待ってよ」
それはまた別の問題を抱えてしまいそうな予感がし、蘭はすぐに否定をする。するとセルアは眉を潜め、大きな溜息をつく。
「さっきから待て待てって、俺は待ちくたびれてんだよ」
「何でそこで怒るのよ? 私だって好きで待たせてるんじゃないわ! 少し前に死んで来たのよ? 普通じゃないでしょ?」
ふと口にした、死んで来たという台詞に蘭は思わず笑ってしまう。そんな姿をセルアは不思議に思ったのだろう、訝しげに見つめてくる。
「どうした?」
「ううん、わたしは生きてるんだなって改めて思っただけ」
携帯電話を握り締めたままようやくこの世界へ戻って来た安堵感を覚えた蘭へ、セルアはしっかりと頷いてくれた。
「ああ、無事で良かった。確かめるまでに随分とかかったからな。何より……俺は守ると言ったのに蘭を見殺しにしたんだ。悪い」
そのまま暗い表情を浮かべたセルアを見ながらも蘭は考える。
罠だと知りながら先視みの力を信じた結果がこれなのだ。あの時、セルアが地面から手を離し蘭を助けようとしたならば、アンヘリカの人々が惨事に見舞われた。更にはセルアの首には剣が向けられていたのであり、死ねば姫すらも命を失うとユージィンは告げていた。抱えていたものは多分にあり、蘭一人と多数とを選び、先視みすらも考慮して悩んだ末の決断だったのだろう。
そして、それは間違ってはいなかった。だからこそ蘭はこの世界へと帰り、あの世界は救われたのだ。
「怖かったけど……あれが必要な事だったんだよ。そうでしょ?」
様々な出来事で感覚が麻痺してしまっているのかもしれないが、蘭は不思議と全てを受け入れる事ができ冷静に言葉を向ける。
するとセルアは頭を抱えるようにしながら顔をしかめ呟く。
「心臓に悪いどころじゃねぇ光景だったけどな」
「わたしだって、凄く怖かったんだから」
物事が動く時はいつも突然であり、蘭自身もいまだに戸惑ったままであるとは言えた。しかし現状が全ての結果だと思うほかはないのだ。
まだこの部屋の外へ出たわけではないが、セルアがわざと嘘をついているという事もないだろう。確かに自身の携帯電話があり、中身を見ればウィルナへいなくなる直前まで使用していた痕跡が残っている。腕にはヘンリクに斬られた傷が残り、クロードからの贈り物である腕輪も存在していた。
驚く程に長い髪のままに蘭は、色を変えてしまったセルアの側に座っているのだ。
決して夢ではなかったと思える証拠があり、だからこそ蘭はセルアの目の前で絶命したのだろう。
自分が死んだ後にセルアがどう思ったのかはわからない。三年という月日をこちらで過ごしてきた内容もまだ詳しく耳にするまでには至らない。それでもこうして大切そうに蘭の頬に触れ、瞳を合わせてくる想い人が目の前にはいる。
「さすがにもう、危険な目には合わせねぇからな?」
セルアは少年の姿のままで、こちらを見つめるクロードから蘭を守ろうとしてくれていたのだ。ユージィンでなくては叶わなかったと、先視みの力によって敢えて状況を作ろうとしなければ全ては動き出しもしなかった。
もしかすると蘭は、セルアに出会わなければもっと酷い目にあっていたのかもしれないのだ。魔力を使い果たしてまでアンヘリカへ現れ、何かがあればいつも側にいてくれた。
大人の姿に変わったり暴発したりと驚かされる事や危険な場面も多かったのかもしれない。それでも蘭は、ずっとセルアの隣で過ごし続けてきたのだ。
(いつからなんだろう?)
向こうでは何故セルアがこちらを気に入ってくれているのかと不思議に思えていたが、蘭は自身の感情がどこで変化したのかすらもわからなかった。
どうせ帰るのだからと初めは深く考えもしなかったはずが、いつの間にか不安定な立場に置かれている自身の状況に悩んでいたのだ。いるべき場所が決まってさえいれば答えは出せると、その時はすでに蘭の中では何かが変わってしまっていたのだろう。
(はっきりと区切りがつくものじゃないのかもしれない)
おそらく自覚した時が線引きではないのだと、蘭はようやく認める事の許される状況で無言のままにセルアを見つめる。
「どうした?」
返事もせずに視線を向けているのが不自然だとはわかっていた。しかしお願いだから待って欲しいと告げてしまっている手前、今更想いを吐き出しても良いのかと蘭はどうにも面倒な自分自身に戸惑ってしまう。
(だって、本当に急なんだもの)
蘭にとってはあっという間の出来事が、相手にとっては三年以上というおかしな状況が更に頭を悩ませてくるのだ。本当に随分と待たせてしまっているらしいという気持ちも現れてしまうところが困りものだった。
(まあ、言葉ではまだ言わないって事にすればいいかも)
不思議そうに瞳を向けてくるセルアは、蘭の頬に触れながら言葉を待っているように見える。危険な目には合わせないのだと、守ってくれるのだと真剣に想いをぶつけてくれるのだ。
ならばこちらも何かをぶつけようと、蘭は布団へ両手を付くと力を込め体を浮かす。そしてそのまま思い切ってセルアに抱きつくと、慌てる声が上がった。
「何だ?」
側にいる事は当然だったが、蘭が自らセルアに触れるという事態は珍しいのだ。もう心は決まっていると蘭は初めてセルアの胸に飛び込み、返ってきた反応に喜ぶ。今までは驚かされるばかりだったが、逆の立場になる事も可能らしい。
「ねえ、本当にもう何年も待たせたりはしないから、少しだけ待ってくれる?」
セルアの首に両腕を回し蘭が笑い声交じりに告げると、目の前の眉がこれでもかと寄せられるのがわかる。
「この状態で待てって言うのか?」
「いいじゃない。わたしはやっと決められる場所に帰ってこられたの」
態度ですでに表してしまっているようにも思えたが、蘭はこれからこちらの世界でやるべき事があるのだ。あちらにいた期間を考えると一週間などわずかなものだが、それなりに必要とされる事象が存在しているはずだった。
そして、向こうで起きた出来事をもっと時間をかけて聞き、受け止めて納得をしたいとも思えた。
全てを落ち着かせてからでも大丈夫と言える状況であるはずなのだと、蘭はただセルアの温もりを楽しんでみる。
「鬼か」
表情も言葉も嫌そうではあったが、セルアはすぐに応えるように蘭の背中へ腕を回す。どうやらこちらへやって来て覚えたらしい発言を耳にしつつも蘭はまた笑う。
「セルア、ありがとう」
答えはすでに出ていたとしても、蘭が口にできるのはもう少し先になりそうだった。
君がいる世界 終
「君がいる世界」を読んでくださりありがとうございます。
これにて蘭の物語は終了となりますが、ユージィン、セルア、クロードと主人公を変えながら先視みのある世界の物語は続きます。
携帯サイトにて二作目である「君が視る世界」が完結済ですので、もし良かったらそちらもお付き合いいただけると嬉しいです。(小説家になろうへの掲載も考えてはいますが、現在は時間の捻出が難しく時期は未定です)
あとがきまでも読んでくださり、本当にありがとうございました。
2011年9月11日 みなわ彌生




