夏が始まった合図がした
「ずっと前から好きでした。私と付き合ってください」
──あの最悪な夏は、クラスで一番人気の美少女からの告白より始まった。
昼休み、突如呼び出された校舎裏。
焼きそばパンを買うための150円を握りしめ、売店を横切って約束の木の下で片足をかけて佇む少年。
そんな彼の眼の前まで来るや否や、開口一番に出た少女の言葉は、彼の心を動かした。釣られた魚がまだ必死に跳ねるように。
誰もが羨むこの告白相手は、香坂宇京。高校二年生。
身長146cm、体重45kg前後。好きな食べ物はオムライスと母が作るクリームパスタ。
体力テストは平均7.5点、定期テストの順位は40人いるクラスで10位前後。部活は入っていない。
なんでも要領よくこなせるが、これといって目立つ長所はない。
目立つ短所はやはりその低身長。朝礼等で身長順に並ぶときは決って一番前だった。この頃の悩みもそれ関連で、「声変わりと同時期に身長の伸びが止まる」というネット記事を読んで、謂れなき不安に駆られることだ。
加えて、勇者フェネルの転生前の姿である。
「えと……はい。よろしくお願いします」
「本当に⁉ やった! 嬉しい!」
絵に描いた二つ返事。漠然と彼女を欲していたが、良い相手がいなかった彼にとってはまさに僥倖だったのだ。
少女のことはよく知らない。
バレーの強豪校として有名な我が校のエース部員で、学級委員も務めるしっかり者……に見えて、偶に課題を忘れたりと抜けた一面を持つ愛嬌の塊のような人間。課題回収の時や学校行事の時の意見出し以外の場面でまともに話すことのない彼の眼にも好意的に映っているのは間違いなかった。
だから、好きだと言って差し支えない。
それが、数秒の間に彼の頭の中で組み立てられた答えのプロセスだった。
「でも、どうして俺なんだ? 自分で言うのもなんだけど、俺みたいなチビよりも頼り甲斐のある人は一杯いたんじゃない?」
彼女のような人間が、自分を好きになるどころか、興味を持つきっかけすらわからない。
天真爛漫で男女問わず友達の多い彼女だ。宇京はその中で自分が選ばれた理由を知りたかったのだ。
「えっとね……」
聞かれると思っていなかったのか、少女は目を上に背ける。次に、何やらぼそぼそと呟きながら指折りし始めた。
十数秒が経ち、「宇京君って」と始めた。
「よく、先生が教室に来ない時に率先して呼びに行ってくれたり、怖いな~って先生でも間違いを指摘出来たりするじゃん? あーいうことが出来る……自分を持ってる人っていうのかな、憧れてたんだよね」
「自分を持ってる……か」
宇京は彼女からの評価を反芻する。
自分では、そういう短所だと思っていた。
彼は、小中と「空気の読めない奴」という烙印を押され続け、幾度となくそれを治そうとしていた。だが、『無神経』という名前の付かない先天性の病気は薬では治らない。現に、彼の本棚には自己啓発本や人との話し方についての本、コミュニケーションの指南書などが何冊も並べられているが、そのどれもが症状を改善することは無かった。周囲からの指摘という形の処方箋が出たとしても、それはただの対症療法。変な空気を作ったら、後から振り返って同じような過ちを失くすだけ。
彼の低身長以外の悩みはそこにあった。
だからこそ、今の少女の言葉は干天の慈雨に等しかった。自分では気づけないが、待ち望んでいたその言葉。
短所を長所へと意識を書き換える魔法の言葉。それは、彼にとってのクリティカルだったのだ。
「え……泣いてるの?」
少女は慌てた様子で駆け寄った。
彼女の戸惑う表情を見て、初めて少年は自分が泣いていることに気が付いた。
「ごめん……私、変なこと言っちゃってたかな?」
少女はハンカチを差し出した。白無地に、犬と木の刺繍だけが施されたシンプルなハンカチ。四つ折りにしたその角で、宇京の涙を迎えに行く。
彼女の献身的な優しさに、更に涙が溢れて来る。
「逆だよ……逆。嬉しかったんだ、ずっと悪いことだと思っていたから」
少女は笑った。少年の縮まりきった子供の肩を見て、呆れるように。
「宇京君って、子供みたいだよね」
「見損なった?」
「ううん、そういう所も含めて……だったから」
ハンカチを手渡した彼女の右手は左腕の肘へと着地する。そのとき、彼女の視線も宇京から逸れた。
空気を読めない癖に人間観察に優れる彼は、その行動に少しだけ違和感を持った……が、それを口にすることは無かった。というか、それを出来るほどに彼は冷静を保っていなかった。
人生初の彼女が、クラスで一番人気の女子なのだ。浮かれていても無理はない。
「本当はこの後一緒にご飯でも食べようかって思ってたんだけど、丁度友達から声掛かっちゃってさ。また別の機会でもいいかな?」
彼女はポケットから取り出したスマホの画面を見てそう言った。
宇京の目には、メッセージアプリのトーク画面がチラリと映る。きっと、友達からの催促のメールでも来たのだろうと思った。
「いいよ、行ってあげて。俺もこんな恥ずかしい姿を晒した後じゃ格好つかないし」
「そんなことはないけど……宇京くんなりの気遣いなんだよね」
ありがとう、と頭を下げて少女は校舎へ入っていく。
「えらいことになったもんだ」
宇京は、再度木の下にもたれ掛かる。ポケットの中で握りしめた二枚の硬貨が湿気を帯びる。
蝉が鳴き始めた七月初旬、清々しい風に高鳴る胸の余韻を載せて、宇京の夏が始まった。
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