第6話 未来に向けて
二日間の揺れに満ちた道中を経て、私たちはヴィステール領の別荘に到着した。
本邸のある中央から遠く離れた、静かな高台。周囲は豊かな原生林と、なだらかな緑の丘陵に切り取られており、遮るもののない澄み渡った空気が広がっている。深く肺を歓ばせるように息を吸い込めば、木々の鋭い芳香と湿った土の匂いが混じり合い、前世の硝煙で焼けた鼻腔の奥まで浄化されるような錯覚さえ覚えた。
「ずっと放置されていたと聞いていたけれど……。管理だけは、しっかり行き届いていたのね。思った以上にまともな物件だわ」
アステリアはゆっくりと周囲を見回しながら、満足げに唇を綻ばせた。手入れされた庭木、目立つ傷みのない漆喰の壁。これなら長期間の潜伏――もとい、療養生活にも十分に耐えられる。
「ではお嬢様、中へ参りましょうか」
荷物を手に先導しながら、穏やかだが凛とした声をかけたのは、アステリアの専属侍女であるリサだ。
元々は実母の側近くに仕えていたという彼女は、アステリアがこの世界で物心ついた時から、影のようにその身の回りを支え続けてくれていた。
洗練された無駄のない立ち振る舞い。歩行の際に一切ブレない体幹の軸。そして、周囲を無意識に索敵するような鋭い視線。
――前世で数々の戦場を渡り歩いてきた秋風廉次郎の眼は、彼女がただの給仕係ではないことを見抜いている。服の奥に隠された筋肉の質、微かに漏れ出る魔力の波長は、彼女が「人を殺める技術」を相当な高レベルで修めた手練れであることを示していた。
だが同時に、あのドロドロとした悪意の煮凝りのようなセラフィード家において、アステリアが唯一、背中を預けてもいいと思える人間性を持った人物でもある。
今回、この最果ての地に同行を許されたのは、そのリサただ一人。
つまりこれからは、この広大な別荘で、五歳の幼女と一人の武装侍女による、奇妙な二人きりの新生活が始まるということだ。
室内の整理を手早く済ませた後、長時間の馬車移動で強張った関節をほぐすため、アステリアはテラスへと出た。リサが丁寧に淹れてくれた温かいハーブティーの湯気が鼻腔をくすぐる。
風に揺れる木々の鮮やかな緑、遠くから聞こえてくる小鳥たちのさえずり。すべてが心地よく、張り詰めていた神経を優しく弛緩させていく。
「……それにしても。アステリアお嬢様が、まさかオリヴィア様と『全く同じ道』をお選びになるとは思いもしませんでした」
リサがぽつりと、重い感慨を込めて零した言葉に、アステリアはカップを唇から離し、静かに目を細めた。
「初めて耳にする名前だけれど……。オリヴィアとは、私の本当の母親のことかしら?」
「はい。……お嬢様が使われた『ウドーム症』とは病名こそ異なりますが、オリヴィア様もまた、感染力の極めて強い奇病に罹患したという名目で、遠方の隔離施設へと移ることを……ご自身で強く望まれ、この家を出て行かれたのです」
その言葉を聞いた瞬間、アステリアの脳内でいくつかの情報が火花を散らして結びついた。
一度も顔を合わせたことのない実の母親。彼女もまた、私が使った『ウドーム症』と同じように、強力な感染症という名目で本邸のしがらみから抜け出していたのだ。方法論としての共通性に、アステリアは奇妙な符号を感じていた。
「私はお母様はずっと亡くなっているものだとばかり思い込んでいたけれど……。どうやら、まだどこかで健在のようね」
「はい。現在も、静かで安全な場所で、元気に過ごしておられます」
リサは一瞬だけ小さく息を詰め、胸の内の感情を押し殺すように、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「オリヴィア様は今でも、アステリアお嬢様のことを、深く深く愛しておられます。……あの屋敷を離れようと決意されたのも、すべては――」
「ディアナお義母様が原因でしょう?」
「……!……左様でございます。ディアナ様はオリヴィア様を完全に敵視されており、あのまま屋敷に留まれば、いずれアステリアお嬢様の身に直接的な『排除』の手が及ぶと判断されたのです」
(それで母だけが身を引くことでディアナのストレスを緩和させ、私の安全は信頼できるリサに託したということでしょうね。ディアナお義母様は、ストレスさえ溜めさせなければ基本的に無害な人だ。私もこれまで細心の注意を払い、決して彼女を刺激しないよう立ち回ってきた。おかげで一度も明確な危害を受けたことはないが、嫌悪の視線だけは本物だったわね。母が私を一緒に連れて行かなかった理由も理解している。お父様が絶対に許可を出さないからだ。母の実家であるミスティアール家との政治的な関係を良好に保つために、母か私のどちらかの存在が必要だったのだろ。胸糞悪いが、貴族の政治劇としては実につじつまが合うわ)
アステリアは前世の冷徹な知悉をもって、実家の悍ましい構図を瞬時にプロファイリングした。
「安心して、リサ。私はお母様を恨んでなどいないわ」
むしろ、過酷な盤面の中で最大限の戦術を選択したその母親に対し、奇妙な同質性すら感じている。恨む筋合いなど、分子一個分もありはしない。
「――さて。過去の答え合わせはここまでにしておきましょうか、リサ。あなたに、どうしても確認しておきたい『最重要事項』があるの」
「なんでしょうか、お嬢様」
アステリアはハーブティーをテーブルに置き、幼い身体から、一瞬にして令嬢の仮面を剥ぎ取った。剥き出しになったのは、戦場で数多の生死を分かつ契約を交わしてきた、老兵の冷徹な眼光だ。
「セラフィード家や、実母のミスティアール家といった『組織』の意向は関係ない。私は、あなたという個人の意思を聞きたいの。……リサ、あなたは、私個人に対して『絶対的な忠誠』を誓えるかしら?」
今後の隠密作戦を進める上で、この同居人が敵の「間諜」に成り下がるリスクだけは、何としても今ここで摘んでおかねばならなかった。
アステリアの放った濃厚なプレッシャーに、リサの背が一瞬だけ強張る。だが、彼女はすぐにその意図を正確に汲み取った。
「それは……セラフィード侯爵家、ひいてはミスティアール家をも、明確に『敵』に回す可能性がある、という意味でしょうか?」
「ミスティアール家はまだ未知数だけれど。少なくとも、お父様のいるセラフィード家は、確実に私の『敵』としてロックオンすることになるでしょうね」
リサは一瞬の躊躇も見せなかった。
その場に流れるような動作で膝を折り、スカートを広げてアステリアを真っ直ぐに見上げる。その瞳の奥には、濁りのない、冷徹なまでに強固な忠誠の炎が宿っていた。
「私はセラフィード家……いえ、仮にこの世界のすべてを敵に回すことになろうとも。オリヴィア様、そしてアステリアお嬢様お二方のために、この命を賭して生涯の忠誠を捧げます」
その真摯で迷いのない言葉は、かつて前世の紛争地帯で、血の誓いを交わした義勇兵の戦友たちの声と重なった。胸の奥に確かな熱が灯るのを感じ、アステリアは椅子から立ち上がった。
「十分よ。――では、早速『作戦行動』に移りましょうか。外へ出るわよ」
リサを伴い、別荘の裏手に広がる深い林の奥へと足を踏み入れた。頭上から木漏れ日が優しく降り注ぎ、足元では何層にも重なった柔らかな落ち葉が、踏みしめるたびにササリと音を立てる。周囲の索敵を終え、十分な遮蔽が得られる空間に到達したところで、アステリアは足を止めた。
「この辺りでいいかしら」
「お嬢様、一体ここで何をなさるおつもりですか?」
「私はここに隔離されている期間を利用して、可能な限り『独自の資金』を稼ぎ出すつもりよ。セラフィード家を完全に捨てて、私とあなたが奴らの追跡から隠れて生きていけるだけの、安全な拠点と軍資金が欲しいの」
アステリアはリサの目を真っ直ぐに見つめ、冷徹な事業計画を告げるように言った。
「それは……将来的にセラフィード侯爵家を完全に破棄し、出奔するための資金、ということですね」
「ええ、その通りよ」
「では、具体的にどのような手段でそれほどの巨額を稼ぎ出されるおつもりで?」
「――冒険者になろうと思っているの」
魔獣の討伐、要人の護衛、未踏領域の威力偵察、希少素材の回収。多種多様な依頼を請け負う、武装した万能の「何でも屋」。
初めてこの世界にその職業が存在することを知った時、前世の晩年、息子に勧められて観た異世界もののアニメをふと思い出したものだ。
この世界の住人の起源は、かつて地球から召喚された人間たちであり、現在も十年に一人の周期で新たな召喚が行われているという。近代的なギルド組織やシステムが存在するのも、その地球の知識が持ち込まれた結果だと考えれば、義勇兵上がりの自分にとって、これほど肌に合う職業はなかった。
「アステリアお嬢様……!それだけは、絶対に認められません!」
リサが普段の冷静さを完全に失い、焦燥を露わにして即座に拒絶の声を上げた。
五歳児の姿をした主人が「戦場に出る」と言い出したのだ。従者として、当然すぎる防衛反応だった。
アステリアは感情の消えた瞳で静かにリサを見つめながら、小さく息を吐いた。そして、無造作に右拳を軽く横に振り――近くにそびえ立つ、大人が三人で抱えるほどの太い古木の幹に、そっと掌を触れさせた。
瞬間。
――ズ、ドンッ!!
鼓膜を激しく震わせる、重爆弾が炸裂したかのような凄まじい衝撃音が林の中に轟き渡った。
衝撃波が落ち葉を円状に吹き飛ばす。太い古木は、まるで目に見えない巨人の斧で叩き切られたかのように根元からへし折れ、地響きを立てて倒壊していった。アステリアの小さな拳が触れていたはずの部位は、内側から爆散したかのように激しく抉れ、無惨な木屑を散らしている。
「お、お嬢様……!? 今のは……一体……」
リサの洗練された立ち振る舞いが、今度こそ完全に瓦解した。その双眸には、戦術的な脅威への戦慄と、にわかには信じがたいものを見たという激しい動揺が走っている。
「私の体内で圧縮した魔力を、接触と同時に外部へ一気に指向性放出させただけよ。(前世の成形炸薬弾の理論の応用ね)」
「魔力を……体内で圧縮……!? お嬢様、それはあまりにも危険すぎます!制御を誤れば、ご自身の肉体が内側から木っ端微塵に――」
「そのリスクなら疾うに通過しているわ。三ヶ月間、毎夜血反吐を吐きながら調整したの。今ではよほどのことがない限り、暴発の不発は起こさない」
「ですが……!」
「――能書きはここまでよ、リサ。これ以上、私の選択に口を挟みたいのなら、言葉ではなく力づくで止めなさい。あなたに負ける程度の『商品価値』しか私にないのだとしたら、大人しく引き籠もって療養生活を送ってあげるわ」
アステリアは冷徹に言い放ち、小さな両手をぶらりと下げて脱力した。
「お嬢様……」
リサの顔に、明確な葛藤が走る。相手は五歳の幼女。しかし今、目の前で古木を吹き飛ばしたその存在は、紛れもない「殺戮の捕食者」の威容を放っていた。
「リサ、構えなさい。――実戦開始よ」
言い終えるのと同時。アステリアの姿が、リサの視界から「消えた」。
隠密歩行と身体強化を組み合わせた、超高速の踏み込み。アステリアはリサの肉体反応速度の限界値、迎撃がギリギリ間に合うか否かの精密な速度を演算し、その顔面へ向けて容赦のないストレートを突き出した。
「くっ……!」
リサの眼孔が鋭く見開かれる。プロとしての本能が恐怖を上回り、彼女は紙一重で両腕を交差させ、アステリアの拳を強固にガードした。
激しい肉撃音が林に響く。身体強化だけで放たれた一撃だったが、リサの細い身体がずるずると数メートル後退し、足元の土が深く抉れた。
「さっきの魔力圧縮は使わない。純粋な身体強化と、近接格闘術だけで相手をしてあげるわ。リサ、あなたはそのスカートの裏に隠し持っている実戦用の得物も使いなさい。持てるすべての戦術で、私を制圧してみせなさい」
手加減はしていた。しかし、ガードの上からでもリサの骨を軋ませるほどの重さ。
その一撃を肌で受け止めた瞬間、リサの瞳から「幼児を労る甘さ」が完全に消失した。彼女は目の前の主を、対等な、いや、自分を遥かに凌駕し得る『強者』であると認識したのだ。
「……よく分かりました、アステリアお嬢様。これより、全力であなたを止めさせていただきます」
「いいわ。来なさい」
リサは躊躇なく袖口から鈍く光る短剣を抜き放ち、地を走るような素早い足捌きで距離を詰めてきた。鋭い踏み込みから放たれる、喉元への刺突。
だが、いくら全力と言いつつも、リサの刃にはまだ「寸止め」の迷い、主の命を奪うことへの恐怖が僅かに残っている。アステリアの戦鬼の眼は、その微かな甘さを見逃さない。
それでは意味がないのだ。
迫り来る短剣の軌道に合わせ、アステリアは避けるどころか、自らの右拳をその鋭利な刃の中央へと真っ直ぐにぶつけにいった。
ガキィンッ!!
身体強化の質量を乗せた拳に正面から殴られた短剣は、刃の中央から硬質な音を立てて破断し、リサの手から離れて遥か後方の藪へと吹き飛んだ。
「お嬢様!?なんて無茶を……!」
「大丈夫よ。慌てないで、よく見なさい」
リサが驚愕の声を上げる中、アステリアは躊躇なく、刃を殴ったことで深く裂け、鮮血が溢れ出る自身の右拳をその目の前に突き出した。
アステリアは体内の魔力を固有能力へと滑らかに通す。
瞬間――じゅわ、と微かな熱を帯びた音が響き、裂けた皮膚が生き物のように蠢きながら結合していった。溢れていた血が急速に引き、筋肉が再生し、わずか数秒で傷一つない白く滑らかな幼女の肌へと戻る。
「これは……傷の超高速修復……いえ、お嬢様の固有能力ですか?」
リサは息を呑み、一瞬前まで血塗れだったはずの、無傷の手の甲を凝視した。
「そうよ。私は【再生】の固有能力持ち。……あなたが私を怪我させまいと、無意識に刃を寸止めしようとしたのが分かったから、あえて自分から殴りにいったの。見ての通り、私は刺されようが、腕を吹き飛ばされようが、脳と心臓の同時破壊じゃない限り何事もなかったかのように完治できる。だから――私を殺す気で来なさい」
それほどの殺意の圧力で向かってこさせ、それを完璧にねじ伏せてみせなければ、この頑固な武装侍女を本当に納得させることはできない。
「……っ。……承知いたしました。ですが、絶対に死なないでくださいよ、お嬢様」
「問題ないわ。あなたがどれほど本気で殺す気で向かってこようと、私を殺すことなんて絶対に不可能なのだから。……私、人を見る目には絶対の自信があるの。私の眼に映るあなたは――どう足掻いても、この私より『遥かに弱い』わ」
アステリアの不敵な言葉に、リサの唇が、かつて戦場を駆けていた頃の冷徹な戦士のそれへと歪んだ。
リサは懐から予備の新しい短剣を引き抜き、再び低く構える。
その全身から、密度を増した微かな魔力のオーラが立ち上り始めた。魔力の流動、術式の展開速度から察するに、次の波はただの物理攻撃ではない。魔法を織り交ぜた、本物の暗 リサの全身から、バチバチと細い火花が爆ぜる。彼女は弾かれたような、無駄のない足捌きで再び間合いを詰めてきた。
放たれたのは、大気を引き裂く青白い閃光――中級水準の『雷魔法』だ。獰猛な蛇のように蛇行しながら、アステリアの顔面へと一直線に肉薄する。
(なるほど。威力を絞り、光量で視神経を焼くための閃光弾ね)
「だけど、その程度の目潰しで私を捉えたつもりなら、些か浅はかだわ」
アステリアは網膜への直撃を最小限の首振りで回避し、視界を焼かれるのを防ぐ。
案の定、リサは雷光によって生じた一瞬の死角に滑り込み、音もなくアステリアの背後へと回り込んでいた。その手元から、頸椎の隙間を正確に狙った、容赦のない短剣の刺突が放たれる。
だが、あらゆる武術を修め、死線をくぐり抜けてきた達人の直感は、その全軌道を完全に捉えていた。
アステリアは右足の軸をわずかにずらし、相手の突進の勢いをいなすように身を翻す。同時に、体幹の捻りをそのまま脚の先へと伝える東洋武術の勁力を使い、全力の身体強化を乗せたカウンターの回し蹴りをリサの空いた脇腹へと叩き込んだ。
ド、ゴォンッ!!
五歳児の短い脚から放たれたとは到底信じがたい、質量兵器級の衝撃が炸裂する。リサの身体は砲弾のように真横へと吹き飛び、林の奥にそびえる数本の木々を凄まじい破壊音とともにへし折りながら転がっていった。
「……ある程度は動けると思っていたけれど。さすがはお母様に選ばれた護衛ね。よく耐えたわ」
巨木が倒れた木屑が舞う中から、リサが血を吐きながらも立ち上がる。
アステリアの眼は、衝撃が激突する直前、リサの皮膚が特異な魔力の膜で覆われたことを見逃さなかった。筋肉の出力を爆発させる『身体強化』に対し、皮膚組織の密度を極限まで高めて衝撃を減衰させる防御魔法――『身体硬化』。基本にして、実戦で最も生死を分かつ盾だ。
「ぐっ……、はぁっ、……っ」
それでも、内臓への透過ダメージまでは完全に防ぎきれなかったらしい。リサは苦しげに息を荒らげ、脂汗を流しながらも、再び短剣を順手に握り直した。
「次は、こちらからいかせてもらうわ」
言葉の終わりを待たず、アステリアは地面の土を爆発させて消えた。縮地にも似た、一瞬でリサの視界を塗り潰す圧倒的な踏み込み。
リサは即座に両手を前方へと突き出し、空間に強固な魔力障壁を展開、さらに自身の肉体を重ねて硬化させる。完全な二重防壁。
しかしアステリアは、その障壁の構造など一顧だにせず、拳の芯に魔力を一瞬で凝縮させ、剛拳を無造作に振り抜いた。
――パリィンッ!!
ガラスが砕け散るような硬質な音が響き、リサの展開した障壁が一瞬で粉砕される。硬化させた肉体ごと、その細い身体が再び後方の茂みへと弾き飛ばされた。
だが、その直後。
激突の風圧に混じり、周囲の空間に突如として濃密な『白霧』が発生した。霧は爆発的な速度で周囲を侵食し、林の中にあるはずの巨木が、数センチ先すら視認できない完全な濃霧へと変貌していく。
(……この霧、空間の魔力濃度が一切変化していない。つまり、魔力による生成物ではなく、純粋な『水蒸気の急激な相転移』。――生まれ持った特殊能力、彼女の『固有能力』による物理現象ね。面白い技術だわ)
視界ゼロの全方位から、風を切る無数の金属音がアステリアの鋭敏な鼓膜へと到達する。投擲ナイフ。
濃霧のせいで一瞬だけ反応の初動が遅れたが、アステリアは武術で培った音響定位のみを頼りに、空間を鋭く薙ぐように小さな両手を振るった。
ガガッ、と硬質な音が連続する。飛来した四本のナイフの刃が、身体強化された指先の中にすべて無傷で収まっていた。
アステリアはナイフを握ったまま、一瞬だけ全神経を周囲の気流のわずかな乱れに集中させる。気配の起こり、すなわち『発』の瞬間を捉える武の極意。
「――そこね」
アステリアは即座に反転し、今しがたキャッチした四本のナイフを、音の発生源である背後の闇へと寸分の狂いもなく投げ返した。
シュッ、と霧を裂く鋭い風切り音。直後、ドスッという重い肉撃音とともに、短い悲鳴が響いた。
「うぐっ……、あ……」
アステリアが魔力を通して周囲の空気を振動させると、生成されていた白霧が急速に霧散していく。
視界が晴れた林の奥。そこには、左右の太ももと両肩の肉を正確にナイフで射抜かれ、地面に膝をついて動けなくなっているリサの姿があった。
もちろん、大動脈や神経叢といった急所は完璧に外してある。
「もう、いいかしら?」
「……は、はい。……完全に、私の敗北です。……認めます、お嬢様。もう、あなたを止める言葉はございません……」
リサは痛みに顔を歪めながらも、自らの敗北を静かに受け入れた。
アステリアは静かに彼女へと歩み寄り、衣服を血に染めているナイフの柄を躊躇なく掴み、一本ずつ引き抜き始めた。
「うっ……!」
「我慢しなさい。すぐに治してあげるから」
アステリアはナイフを放り捨て、リサの血塗れの肩へと小さな手のひらを触れさせた。
体内の魔力を、自身の生まれ持った特殊能力である【再生】の回路へと滑らかに、しかし出力を引き上げて流し込む。
「私の固有能力は、こうして直接触れていれば、他者の肉体にも適用できるのよ。ただし、自己再生と違って相応の魔力で強化して消費する必要があるし、治癒の速度も数倍は落ちる。欠損までは再生できないという制約もあるわ」
アステリアの手のひらから漏れ出た淡い光が、リサの傷口を包み込む。
速度が落ちる、とアステリアは言ったが、リサの肉体からすればそれは神業の領域だった。裂けた筋肉組織が生き物のように結合し、皮膚の細胞が急速に新陳代謝を繰り返して傷口を塞いでいく。
完治までに、五分とかからなかった。リサは、自身の衣服に残った血痕と、完全に修復された無傷の肌を交互に見つめながら、呆然と唇を震わせる。
「ありがとうございます……。驚きました、これほどの能力をお隠しになっていたとは……。……ところで、お嬢様。一つ現実的な問題として、冒険者ギルドへの登録は、通常『十歳』にならなければ受け付けられない規則になっていることはご存じですか?」
「ええ。この世界のギルド規約の基礎くらい、書庫の文献で頭に入っているわ。だからこそ――」
アステリアは完璧な無傷に戻った自身の右拳を軽く握り締め、不敵な達人の笑みを浮かべた。
「規則を捩じ伏せるだけの『圧倒的な商品価値』を叩きつけて、ギルドマスターと直接交渉するつもりよ」
五歳の幼女の皮を被った戦鬼の言葉には、それを単なる子供の絵空事と言わせないだけの、圧倒的な暴力の裏付けがあった。リサはそれ以上、主人の決定に対して強く反対する言葉を見つけることができなかった。




