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星崩しのアステリア  作者: 狐坂蒼
第一章 準備と決意

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第5話 好機到来

 それから約三ヶ月後。季節は巡り、アステール高原を冷たい冬の突風が吹き抜ける頃となっていた。


 朝の凍てつく空気が、幼い肌を容赦なく刺す。前世の八十四歳の肉体であれば、この時期は決まって古傷の膝が疼いたものだが、今はただ、五歳児の軽い皮膚が引き締まるだけだ。


 用を済ませ、自室への廊下を無音で戻る途中――アステリアは、その足をわずかに止めた。


 廊下の奥、領主の執務室から奇妙な「熱量」を感じ取った。人数は三人。


(……この魔力の揺らぎ。父のロイド、義母のディアナ、そして妹のミリアナね)


 アステリアは即座に気配を完全に遮断した。前世の紛争地帯で敵の哨戒兵の目を欺き続けた隠密歩行。足音どころか衣擦れの音さえ消し、滑るように執務室の木扉へと近づく。

 さらに体内の魔力を聴覚神経へと滑らかに収束させ、聴覚強化を細く発動した。肉厚なオーク材の扉の隙間から、粘つくような会話が漏れ聞こえてくる。


「お父様、お願い!レオハルト殿下の婚約者を、今からでも私に変えてちょうだい!」


「そうよ、あなた。私たちの可愛いミリアナがこれほど熱望しているのです。何とか手段を講じられないの?セラフィード家の格としても、あの『不気味な娘』より、我が愛娘の方がよほど相応しいわ」


「……私とて、あの娘を王家に差し出すのが最善とは思わん。だが、今回の婚約は第二殿下ご本人の強い希望だ。殿下が心変わりされるか、あるいは物理的に不可能な事由でも発生しない限り、大人側の都合だけで覆すのは難しい」


 ロイドの苦渋に満ちた、しかし冷徹な打算を含んだ声。それに続くのは、義母ディアナの、呪詛に近い舌打ちだった。


「本当に、あの忌々しい母親共々、私の目の上のコブだわ。存在しているだけで目障りで仕方がない」


 姿は見えずとも、怒りで引きつった義母の貌が容易に脳裏に浮かぶ。その声は、かつて泥沼の戦場で見た、利権を貪る前線基地の悪徳将校のそれと酷く似ていた。


(――ふん。なるほどね。この泥仕合、私の『出奔計画』にそのまま利用させてもらうわ)


 アステリアの可憐な唇の端が、不敵な弧を描いた。

 彼女はあえて足音を一つだけ立て、事務的に執務室の扉をノックした。


「誰だ?」


 中からロイドの警戒を含んだ声。だが、その返事を待つほどアステリアは殊勝ではない。静かに、しかし確実な力で扉を押し開け、室内へと足を踏み入れた。


「貴様、アステリアか!勝手に立ち入るなど――」


 即座に立ち上がり、怒声を張り上げるロイド。ディアナとミリアナの視線が、まるで汚物を見るかのように突き刺さる。その濃厚な敵意の嵐を受け流しながら、アステリアは鈴を転がすような愛らしい声に、冷徹な「芯」を混ぜて言い放った。


「失礼いたしました。ですが、扉の向こうまで随分と賑やかな声が響いておりましたので。……そこで、私から一つ、皆様にとって非常に有益なご提案があります」


 突然の乱入と、あまりに堂々とした態度。三人の動きが、奇妙な静寂の中に凍りついた。


「レオハルト殿下と私の婚約を、王家側から『不可抗力』によって白紙に戻させる方法。そして、その後にミリアナが収まるための、確実な舞台装置の作り方です」


 その言葉が落ちた瞬間、家族三人の歪んだ表情が、驚愕と、それに続く浅ましい期待へとわずかに和らいだ。


「……貴様、何を企んでいる?」


 ロイドの目が細められる。誰もが喉から手が出るほど欲する王家との繋がりを、自ら手放すという狂気。当然、そこには罠を警戒するだけの疑惑が宿る。


「誤解しないでいただきたいのですが、私はレオハルト殿下に一ミリの恋愛感情も抱いておりません。ですので、殿下を慕うミリアナの方が、家のためにもよほど相応しいと思っているだけですわ」


 アステリアは無垢な令嬢の笑みを完璧に貼り付けた。

(恋愛感情など、前世の戦場に置いてきたし、今世でもこの小さな身体には欠片も存在しないがな)と、内心で冷ややかに苦笑しながら。


 ロイドはデスクの上で指を組み、値踏みするようにアステリアを凝視した。

「……一応、聞いてやろう。どうやって王家に納得のいく形で白紙にするつもりだ?」


「お父様。この世界に存在する奇病、『ウドーム症』についてはご存じですか?」


「ウドーム症……?ああ、発症例が極めて少なく、治療法も確立されていないとされる珍しい病だな。それがどうした」


「ええ。初期症状はただの風邪に酷似しており、微熱と酷い咳が続きます。ですが、この病の本質はそこではありません。ウドーム症は通常の風邪に比べて感染力が遥かに高く……そして何より、未成年の女性が罹患した場合、五割を超える確率で『生殖機能』が完全に失われると言われています」


 この家を出るための「決定打」を探していた際、書庫の古い医療記録から偶然見つけ出した情報だった。潜伏期間や特徴を細かく頭に叩き込んでおいた甲斐があった。


「なるほど……」

 ロイドの瞳に、ギラリとした冷酷な計算が灯る。


「私がウドーム症を患い、将来的に『子を成せない身体』になったと診断されれば、跡継ぎを何より重視する王家は、確実に婚約を白紙に戻さざるを得なくなります。体裁を守るため、王家側からの打診という形に持ち込めるでしょう。……その後、傷心の殿下の懐にミリアナが飛び込めるかどうかは、ミリアナの頑張り次第ですが」


「完璧じゃない……!」

 ディアナが我慢しきれず、歓喜の声を漏らした。ミリアナもまた、自身の勝利を確信したように顔を輝かせている。


「ふむ。筋は通っているな」

 ロイドが顎を撫でる。


「となると、感染力の高さを偽装するためにも、お前を即座にどこかへ隔離する必要があるな」


「それならあなた、西の境界にある離れの小屋はどうかしら?」

 義母ディアナが、ここぞとばかりに嬉々として、歪んだ親切心を口にした。あそこはただの物置同然の、隙間風が吹き荒れる粗末な廃屋だ。五歳の幼児を閉じ込めれば、病を偽装するまでもなく本当に衰弱死しかねない場所である。


(相変わらず分かりやすい悪意だこと。言うと思ったわ)


 アステリアは内心で冷笑しながら、首を横に振った。

「それはお勧めしませんわ、お義母様。同じ敷地内では、万が一殿下が我が家を訪問された際、隔離区域に近づいて遭遇してしまうリスクがあります。王家に『偽装』が露見すれば、セラフィード家は不敬罪で潰れますわよ?」


「うっ……それは……」

 ディアナが言葉を詰まらせる。


「確か、ヴィステール領の最果てに、久しく使われていない一族の別荘がありましたよね。あそこはどうでしょうか?本邸から距離も離れていますし、殿下の目が届く心配もありません」


「あそこか……。確かにあそこなら、事実上の流刑地だ。周囲の目もない。……よし、手配しよう」


 ロイドが冷淡に決断を下した。

 実の娘を体よく厄介払いできる安堵と、王家との新たなパイプへの野心が、その冷たい瞳に透けて見えていた。


(よし、よし。すべては私の計画通り)


 アステリアは完璧な一礼をしながら、内心で快哉を叫んでいた。

 あの隔離されたヴィステール領の別荘へ行けば、この陰湿な本邸にいるよりも遥かに自由に、そして大胆に動ける。

 夜間の身体強化の鍛錬も、魔力圧縮による新技の実験も、そして精霊界への往復すら、誰の目を気にすることもなくやり放題になるのだから。


 こうして二日後、アステリアは自ら仕掛けた「極秘の作戦」計画通り、自由への第一歩としてヴィステール領の別荘へと旅立つことになった。

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