第33話 森の神、現る
村を出て、領都イセリアに続く道を進むと、左手に食堂で聞いた森が広がっていた。
「この森ね。行きましょう」
昼過ぎの風が木々を揺らし、葉擦れの音だけが低く響く。アステリアたち四人は、木漏れ日の差し込む空間へ足を踏み入れた。
強力な魔物の気配はほとんどなく、村人が日常的に出入りする程度の安全地帯らしい。土の湿った匂いと、遠くで小鳥が鳴く音だけが世界を満たしている。
だが、アステリアの戦術眼は、その「安全」という表層の奥にある違和感を鋭く捉えていた。
「……それにしても、臆病な下位の魔物しか探知に引っ掛からないわね」
まるで、何かもっと強大な上位の捕食者に怯え、息を潜めているかのような不自然な静寂。
アステリアが小さく呟くと、隣を歩くルリが狐耳をぴくりと動かして首を傾げた。
「ってことは、その『森の神』は、探知外の奥にいるってこと?」
「そうね。……少し、やり方を変えてみましょう」
アステリアは足を止めると、体内に秘めた魔力を、一瞬だけ解放した。
無差別に撒き散らせば、周辺の魔物がパニックを起こしてスタンピードを引き起こし、先ほどの村へ殺到する二次被害に繋がりかねない。だが、圧倒的な制御で解放を「一瞬」に絞れば、その心配はない。
「え?いまの、何……?一瞬だけだけど、急に大気が凍りついたみたいに、ぞわっとしたわ……」
アステリアの濃密な魔力の余波に初めて直接当てられたリーフィは、全身に悪寒が走るような感覚に襲われ、魔導ライフルを抱えたまま細い身体を震わせた。
「驚かせてごめんなさい、リーフィ。一瞬だけ、私の魔力を解放したわ。本当にあの『森の神』にそれなりの知性があるのなら、この領域に現れたイレギュラーな存在を確かめるために、必ずこちらへ接触してくるはずよ」
一瞬とはいえ、一般人なら気を失いかねない密度の魔力。知性ある存在であれば、それが「話し合いが通じる相手か、それとも即座に排除すべき外敵か」を見極めるため、必ず発生源へ近づいてくる。それが、縄張りを持つ防衛能力の本質だからだ。
待つこと、五分。
アステリアの全方位探知の網に、猛烈な速度で空間の波長を切り裂いて接近する、一際巨大な魔力の質量が引っかかった。
「──来たわね。何かが凄まじいスピードでこちらに向かっているわ。距離はおよそ三キロ。この速度なら、あと一分三十秒でここに到達するわよ」
「え!?え!?まさか、本当にその『森の神』が来ちゃうの!?」
ルリが慌てた声を上げてナイフを握りしめる。
「そのようね。ルリ、リーフィ、慌てずに警戒態勢に。敵対の意志があるか否かを見極めるまでは、決して攻撃してはダメよ」
アステリアの令嬢としての柔らかな声音の奥に、かつて戦場で若い新兵たちを落ち着かせた、老指揮官の冷徹な芯が混じる。
リーフィはその言葉に弾かれたように深く息を吐くと、遠隔視の仮面の焦点を合わせ、魔導ライフルをしっかりと握りしめて木陰の遮蔽へと滑り込んだ。リサは無言でアステリアの半歩後ろに回り、いつでも動ける体勢を取る。
そして──その「偉容」は、木々の隙間を割って、アステリアたちの目の前に音もなく姿を現した。
真っ白な毛並みを持つ、体高二メートルを超える巨大な狼。
その佇まいは、ただの飢えた獣とは一線を画していた。鋭い金色の瞳には、こちらの戦力を冷徹に推し量るような、深い人間のごとき知性が宿っている。
緊迫した空気が密林に満ちる中、アステリアは両手をぶらりと脱力させ、自然体のまま静かに口を開いた。
「私の魔力に誘われていらっしゃったのね。その警戒する表情……。そこら辺の意思を持たない魔物とは違い、随分と上質な知性を感じるわ」
通常の魔物であれば、異常な魔力を感知した瞬間、パニックを起こして襲いかかるか、あるいは尾を巻いて逃げ出すかの二択だ。このように、あえてリスクの本質を確かめるように間合いを詰めてくる存在は、この世界でも極めて稀である。
「あなた、私たちの言葉が理解できているのでしょう?もし言葉を交わせるのなら、声を聞かせてほしいわ」
アステリアの令嬢としての完璧な一礼。
数秒の重苦しい静寂が続いた後、四人の鼓膜を震わせるのではなく、脳の神経へ直接、低く渋い思念の声が響き渡った。
『……貴様は何者だ。この森の秩序を乱す異物を感じて来てみれば、その発生源が、このような人間の子供とはな。何の目的があって我の領域を乱す』
巨大な狼が、明確な知性をもって人の言葉を発した。アステリア以外の三人は、神話の怪異が目の前で現実の法則を結んだ衝撃に息を呑み、その場で硬直してしまう。
「驚かせてしまってごめんなさい。私はアステリア。そこの村であなたの噂──『森の神』のお話を耳にして、あなたに会いたいと思って来たの」
アステリアは顔色一つ変えず、愛らしい令嬢の言葉で淡々と返した。内心では、前世の戦場で未知の敵と対峙したときと同じ、静かな高揚が湧き上がっていた。
『腑に落ちんな。ただ会いに来るならば、これほど出鱈目な魔力を周囲に誇示する必要はなかろう。我を誘い出したということは、それ相応の目的があってのこと。何が目的だ』
森の神は、さらに体を低く構え、前足の鋭い爪を岩盤へと僅かに食い込ませた。大気が軋むような殺気が膨れ上がる。
「いくらあなたが目立つからといって、この広大な森林を手当たり次第に索敵するのは非効率的でしょう?だから、一番早くあなたと対話ができる方法を選択させてもらったわ。他意はないのよ」
アステリアがはっきりと自身の意図を認めた瞬間、数秒間の張り詰めた沈黙が落ちた。森の神は変わらず不審の目をアステリアに向け、その場にピリピリとした不穏な圧力が流れる。
『やはり、貴様という存在そのものが致命的な異常だ。その幼き肉体とは不釣り合いな異常な魔力。……この森の平穏のためにも、これほどの不安因子をそのまま見過ごすわけにはいかん。不確定要素は、芽のうちに摘んでおくべきだろう』
森の神は、明確な敵意を含んだ視線をアステリアへと固定した。いつ飛び掛かってきてもおかしくないほどの濃密な殺気が、四人を包み込む。
それは、アステリアがこれまで間引いてきた犯罪者どもの下卑た悪意とは異なり、どこか神聖さを帯びた、圧倒的な質量の魔力であった。
(さすがは森の神と言われるだけはあるわ。向けてくる殺意が、あの時の死の感覚を呼び戻してくれる)
アステリアの魂の奥底で、前世の記憶が静かに沸き立つのを感じていた。ヒグマと刺し違えた夜の、濃密で美しい死の気配。それが今、この森の奥で再び息を吹き返している。
アステリア以外の三人は圧倒的な存在に何も言葉を発することができず、ただ茫然とその様子を見守ることしかできなかった。
そして、森の神が先に動いた。
巨躯が爆発的な初速で地を蹴り、アステリアへ向けて肉薄する。岩盤をも容易く引き裂く前足の鋭い爪が、頭上から振り下ろされる。
アステリアは油断なく軸足を固定し、体内の魔術回路を一気に上限へと過充填させ、自身の最大硬度の魔力障壁を前方に展開した。前世で何度も体に叩き込んだ「脱力」と「正中線の意識」が、幼い体の中で自然と働く。
爪と障壁が衝突した瞬間、大気を破裂させる凄まじい衝撃音が森の中に重く響き渡り、二者の質量が拮抗する。
『貴様がどのような化物か知らぬが、この一撃に耐えられるか!』
巨大な狼の身体能力は、アステリアの戦術前演算を遥かに上回っていた。
聖獣としての神聖な魔力を乗せた爪の圧力を前に、彼女が展開した魔力障壁はミシミシと悍ましい破砕音を立て始め、全面に蜘蛛の巣のような無数のひび割れが走る。
そして──とうとう、ガラス細工のように一瞬で粉砕された。
(──!? しまっ……!)
油断することなく全力で展開した魔力障壁を砕かれ、巨大な爪が近づくにつれ、より鮮明に思い出す。あの脳髄を突き刺す冷徹な死の予感。
障壁を突き破った森の神の鋭い爪が、アステリアの右肩の肉組織へと深く、深々と突き刺さる。
「ぐっ……!」
生々しい血しぶきが舞い、十歳の可憐な右腕が、肩の根元から物理的に千切れ飛んで宙を舞った。大きく抉れた凄惨な傷口から、大量の鮮血が溢れ出る。
「アステリアお嬢様──ッ!!」
目の前で主の肉体が無惨に引き裂かれたことに、リサの悲痛な絶叫が森の中に高く響き渡る。
森の神はそのまま、肉の重みを振り払うように、負傷したアステリアの小さな身体を、後方の巨木へと向けて凄まじい勢いで吹き飛ばした。




