第32話 森の神の噂
マイヤーを出発してから二日目の昼。
雲一つない快晴の空の下、心地よい風が乾いた草原を吹き抜けていた。草の穂が擦れ合う音が遠くで波のように続く中、アステリアたちは相変わらず、道なき道を走り続けている。
「ひとまず、向こうに見える村まで行ったら休憩よ」
アステリアの声に、少し遅れて返事が返ってくる。
「あと……すこ……し……」
既にルリとリサは村に到着して休んでおり、アステリアはリーフィに声をかけながら、彼女のペースに合わせて走っていた。
リーフィは今日も息を荒げ、乱れた足取りで何とか目標の村を目指している。それでも昨日よりは確実に踏み込みが深くなり、前へ進めるようになっているのを、アステリアは見逃さなかった。身体強化をかけたまま長時間動けば、筋肉の深部に熱がじわりと溜まっていく。リーフィの肩が上下するたびに、薄い汗の匂いが風に乗って届いた。
そうして、時間をかけてようやく村の入り口に辿り着いた瞬間、リーフィの膝が折れた。昨日と同じように、地面に座り込む音が乾いて響く。
アステリアは彼女の肩に手を置き、速いが安定している脈を確認した。
「リーフィ、今日もよく頑張ったわ。呼吸が整ったら、お昼ご飯にしましょう」
「……」
体力の限界に達しているリーフィは、呼吸を整えるのに精一杯で、声を発することができなかった。代わりに、潤んだ虹色の瞳でアステリアを見上げ、小さく頷いて合図を送る。
村の中からは、子供たちのはしゃぐ賑やかな声が聞こえてくる。人通りもそれなりにあり、活気に満ちた、小さいながらも生きている気配の濃い村のようだった。
リーフィの呼吸が落ち着くのを待って、四人は村にある唯一の食堂へ向かった。お昼時ということもあって、店内は地元の人たちで埋まっている。使い込まれて艶のない木のテーブルには、煮込みの匂いが天井近くまで立ち込めていた。
アステリアたちは席に着くとすぐに注文を済ませ、出来立ての温かい料理を四人で囲んだ。
ちなみにリーフィは、目を隠すための仮面を受け取って以来、ずっと着用している。冒険者の中には鎧を着たまま村や街を歩く者も珍しくないため、仮面だけの彼女が特別に目立つことはなかった。
「ヴェルラはいないけど、たまにはみんなで外食するのもいいわね」
「そうですね。家では皆で食卓を囲みますが、外でこうして空気を感じながら食事をする機会は意外と少ないですから」
リサが穏やかに微笑む。一方、ルリは余程お腹が空いていたのか、黙々と運ばれてきた料理を口に運んでいる。リーフィも疲れ切った表情のままではあるが、食欲はしっかり残っているようで、集中して食べ進めていた。アステリアは温かいスープの熱を掌に感じながら、そんな二人の様子を眺めていた。
そんな穏やかな時間の中、隣のテーブルから少し大きな会話が聞こえてきた。
「本当なんだって!俺も見たんだ!森の神を!」
「森の神って、あれだろ?ここ最近この村で広まってる噂の話だろ? 見間違いじゃないのか?」
「見間違いなんかじゃない!絶対に見たんだ!白くて、とんでもなく大きい狼を!」
話しているのは、若い男性の二人組だった。「森の神」と口にした方は、明らかに興奮した様子で身を乗り出している。
「ねえ、お兄さん。その噂の『森の神』って、何のこと?」
「森の神」「白くて大きい狼」という気になる言葉が耳に入った瞬間、アステリアは十歳の少女らしい、少し高めの声を作って隣のテーブルに話しかけた。
「ん?お嬢ちゃんたちはよその人間か?」
「そうよ。領都イセリアに向かう途中なの」
「なら、何も知らなくて当然だな」
男性は一呼吸置いてから、少し声を潜め、周囲を見回しながら話し始めた。
「一ヶ月ほど前の話だ。最初は村の薬師のばあさんが、この村の隣にある森に薬草を採りに行ったのが始まりだった。いつも魔物除けの香を焚いていたから、この森は安全だと思って油断していたらしい。そうしたら森の奥で急に奴が目の前に現れたんだ」
男性はそこで小さく肩をすくめた。
「いきなりだったから、腰を抜かして逃げることすらできなかったんだ。でもおかしいことに、そのでかい狼は襲ってこなかった。ばあさんにまるで興味がないみたいに、その場を去っていったらしい」
ここで、先程「森の神を見た」と主張していたもう一人の男性が身を乗り出して続きを話し始める。
「それで、後から考えてみたら、真っ白い毛並みが妙に神々しく見えてきてな。『あれは森の神だったんじゃないか』って話になったんだ。それから俺を含めた数人が、森でその森の神を目撃したってわけさ」
話を聞いた瞬間、アステリアの胸の奥で、古いものが目を覚ます感触があった。
前世の森でヒグマの視線を捉えたときと同じ、濃い死の予感。直感的に「強敵」の予感がして、思わず口元に楽しげな笑みが浮かぶ。
「その森は、どこにあるのかしら?」
嬉々とした様子で場所を尋ねるアステリアに、男は肩をすくめた。
「もしかして、見に行くのか?」
「そうね。少しだけ探してみようと思っているの。拝めることができたらラッキーだわ」
「そうか……。まあ今のところ誰も被害に遭っていないみたいだから大丈夫だとは思うが、気をつけろよ。場所はな、この村の北側だ。領都イセリアに向かう道が続く村の出口に行けば、すぐに森が見えてくるはずだ。そこが森の神が目撃された場所だな」
「わかったわ。ありがとう」
領都イセリアに向かう途中である以上、場所的にはちょうどよかった。食事を済ませて食堂を出ると、外の風が店内の煮込みの匂いを一気に流していった。
「お嬢様。本当に森の神に会うつもりですか?」
リサが静かに確認する。
「そうよ。今回は強敵の予感がするの。血が騒ぐわ」
アステリアは、今からお祭りにでも行くかのようなワクワクした表情を浮かべながらも、その声の底には金属のような冷たさを微かに含んでいた。
「白い毛並みの大きな狼。遭遇しても実際に被害が出ていないってことは、もしかしたらある程度の知能があるのかもしれないわ」
異世界である以上、言葉を交わす魔物がいてもおかしくはない。むしろ、その可能性の方が高い気さえした。
「でも、森の神って言われているんでしょう?それに襲ってこないって言ってたし……まさか、こっちから襲うつもりじゃないよね?」
リーフィが不安げに口を挟む。
「さすがにそんなことはしないわ。向こうに戦う意思がなければ、こちらから引くつもりよ」
アステリアははっきりと答えた。
村で『森の神』と呼ばれている存在に無闇に喧嘩を売るのは、村の人たちに喧嘩を売るのと同じことだ。いくらアステリアでも、そこまでの非常識なことはしない……たぶん。
「とりあえず行ってみましょう。どうなるかは、会ってみてからよ」
そうして四人は村の北側へ足を向けた。道の先に、すでに森の暗い緑が、空を切り取って見えていた。




