第31話 限界の先の圧縮
「はあ……もう……むりぃぃぃ……!」
リーフィはヘトヘトになりながらも、足を止めずに走り続けていた。身体強化をかけているとはいえ、長時間の持続はできないため想像以上に堪える。息は荒く、視界はぼやけ、足は鉛のように重かった。それでも必死に地面を蹴り続けるリーフィと比べ、他の三人はまだ余裕があるように見える。差が開きすぎて、悔しさすら湧いてこないほどだった。
「もう少しよ。頑張りなさい、リーフィ」
アステリアはリーフィのペースにぴったりと合わせ、隣を走りながら優しく声をかける。汗一つかかず、呼吸も整ったままのその姿が、少しだけ憎らしい。
ルリとリサは既に走り終え、ゴール付近で待っていた。
フォームは完全に乱れ、走っているのか歩いているのかわからないようなヨロヨロした足取りで、リーフィは何とかゴールラインにたどり着いた。
「よく頑張ったわ。今日はここまでよ」
「……もう……動けない……」
太陽は西の山に沈み、空が濃い藍色に染まり始めていた。
距離にして約三十キロ。
これがあと二日も続くと思うと、リーフィの目頭にじわりと涙が浮かんだ。
走り終えた瞬間、限界を迎えたリーフィはその場に崩れ落ちた。
地面に頰を押しつけたまま、指一本動かす気力も残っていない。全身が熱を持ち、激しい心臓の鼓動が耳の中で鳴り響いていた。
「たまには外でキャンプもいいけど……今日は精霊界に帰りましょうか」
アステリアがそう提案した直後、元気な声が上がった。
「ねえ、今日は私がご飯作っていい?」
ルリだった。
ルリは永夜の黒蛇に捕まる前、父親と各地を旅しながら屋台を出していたという。
その影響で料理が大好きになり、アステリアたちと過ごすようになってからは作る機会も格段に増えた。最初はリサと二人でやっていたが、今では店に出しても十分通用するほどの腕前になっている。
ただ――問題は別にある。
「いいけど、今日は実験はしないことが条件よ」
アステリアが即座に釘を刺す。
ルリは料理で「実験」をするのが癖だった。新しい調理法を思いついたり、珍しい食材を見つけたりすると、つい試したくなってしまう。普段はとても美味しいのに、実験料理だけは五割の確率で……悲劇的な結果になる。
「今日は新作のたれに漬け込んだオークの肉を焼くつもりだったんだけど……」
案の定だった。
「その新作のたれ、何でできているの?」
「えっと、聖樹の蜜と鉱山しいたけ、星霜にんにくと、あとワイバーンの尾の先端を乾燥させて粉末にしたものと、冥界クラゲの体液、それから――」
「ストップ!ストップ!ルリ!もういいわ。今日はそれはなしで、普通にお願い」
聞いたこともない危険な単語が次々と出てきた瞬間、アステリアは両手で制止した。
特に冥界クラゲの体液は強力な毒を持つ。ルリが毒を抜く調理法をちゃんと研究しているのは知っているが、それでも「食べたい」とは到底思えない。
「えー……わかったよ」
ルリは肩を落としつつも、素直に引き下がった。
翌日。
精霊界から地上に出た四人は、朝の鍛錬を始めた。
ルリとリサは少し離れた場所で組手を行い、アステリアはリーフィの後ろに回り、背中に軽く手を当てながら魔力圧縮の指導をしていた。
「暴発しても、欠損しない限り私がすぐに治せるわ。ある程度大胆にやってみなさい」
「治せるって言っても……痛いのは嫌よ……」
リーフィは座禅を組み、ぶつぶつ文句を言いながらも、アステリアの指示通りに魔力を圧縮し始めた。
「魔力の圧縮自体は、だいぶ上手くなってきたわね」
慎重に、慎重に圧縮を進めるリーフィは、無事アステリアの合格をもらった。しかし、次の課題はすぐにやってきた。
「今、圧縮した魔力が体の中心にあると思うけど……それを左腕に移動させてみなさい」
圧縮した状態を維持するだけでもかなりの難易度なのに、それを体内で移動させるのはさらに難しい。
ちょっとした振動で爆発する爆弾を、両手で抱えて運んでいるような恐怖がリーフィを襲う。
「うううう……」
あまりの繊細さに、文句を言う余裕すらなくなっていた。額に汗が浮かび、唇を強く噛みしめる。
そして、圧縮した魔力が左腕の二の腕付近まで移動した瞬間――
急に魔力が不安定になり、リーフィの左腕の中で暴発した。
肉が裂ける音と共に、鮮血が噴き出した。
しかし、その兆候を瞬時に察知したアステリアが、固有能力【再生】を発動させる。
血は一瞬で止まり、裂けた肉も骨も、跡形もなく元通りになっていた。
「いっ……!ったく……ない……」
暴発の瞬間だけ、強烈な激痛が左腕を貫いた。
だがアステリアの再生が完了した今、痛みはまるで幻だったかのように消え去っている。
「私がいれば、暴発の痛みも耐えられるでしょ?」
「確かにそうだけど……一瞬だけ来るあの激痛が、どうしても怖いわ……」
「それくらいは我慢しなさい。圧縮に慣れてくれば、暴発のリスクもかなり低くなるわ」
一瞬だけの痛みとはいえ、恐怖心は簡単には消えない。それでもリーフィは唇を結び、ゆっくりと頷いた。
「しばらくは、圧縮の速度と、圧縮した魔力を体内で安定して移動させることを課題にしましょう。今のリーフィは圧縮に一分近くかかっているけど、まずは三十秒でできるようになりなさい」
「アステリアはいつも一瞬でやってるよね?何かコツとかあるの?」
リーフィが尋ねると、アステリアは少し嬉しそうに、饒舌に説明を始めた。
「私は体の動きで生じる反動を利用して魔力を圧縮しているの。例えば敵を殴るとき、足で地面を強く踏み込むでしょう?そのときに圧縮した魔力を足元に置いておくの。そして踏み込んだ瞬間の反動を使って、魔力を瞬時に殴る方の腕へ移動させる。さらに拳が敵に当たったときの反動と、地面からの反動を合わせて魔力を挟み込み、一気に圧縮して放出する……という感じね」
アステリアの説明を聞きながら、リーフィはなんとか理解しようと眉を寄せた。
動きによる反動の波を、まるで機械的な挟圧装置のように利用するという、非常に物理的で力学的な魔力操作法。足の踏み込み、地面からの反力、体幹を通じた力の連動――それを魔力圧縮のタイミングに完全に同期させているという話は、聞いているだけで頭が痛くなりそうだった。
「……難しすぎて、理解が全然追い付かないわ」
リーフィは困惑した顔でアステリアを見つめた。
「まずは圧縮の速度と体内の移動を安定させることを優先しましょう。それができてから、また詳しく教えるわ」
「わかったわ……」
そう言って、リーフィは再び目を閉じ、魔力圧縮の訓練を始めた。




