第30話 マイヤーとの別れと、海への疾走
マイヤーの拠点に転移用の姿見を設置した三日後。
アステリアたちは、ついにこの街を旅立つため、冒険者ギルドのギルドマスターであるローナンに挨拶をしていた。
「マイヤーを発つのか……。何だかんだで寂しくなるな」
ローナンは少し寂しげに笑いながら言った。
「そうね。ローナンには、本当にだいぶ世話になったわ。私のせいで、色々と苦労をかけたんじゃない?」
アステリアが柔らかく微笑むと、ローナンは肩をすくめた。
ギルド内での魔力解放事件、永夜の黒蛇によるマイヤー支部壊滅事件──この五年間で起きた数々の騒動を思い返し、ローナンは苦々しく眉を寄せた。
「お前……自覚はあったんだな……」
呆れたような、薄い非難を込めた視線をアステリアに向ける。眉間のしわが深くなり、ため息を堪えるように唇を固く結んだ。
「で、いつ発つんだ?」
「明日よ」
アステリアがあっさりと答えると、ローナンは目を丸くした。
「ん!? 急すぎるだろ!」
「決めたのは三日前よ」
ローナンは額に手を当て、呆れを隠しきれずに小さく首を振った。
「お前はいつもその場の思いつきで動くよな……。お前に振り回される仲間が、本当にかわいそうだよ」
「失礼ね。今まで文句を言われたことなんてないわよ?」
「そりゃあ、言えねえだろうな」
実質的にアステリアがリーダー的な立ち位置にあり、彼女の決定で行動を共にする機会が圧倒的に多い。怖がっているわけではないが、アステリアの判断に正面から異を唱える者など、このメンバーの中には一人もいなかった。
「まあいいわ。そういうことだから、そろそろ行くわね。まだ挨拶していないところがたくさんあるの」
そう言ってアステリアは軽やかに踵を返し、冒険者ギルドを後にした。
その後は、マイヤーで世話になった各所を回り、丁寧に挨拶を済ませてから拠点へと戻った。
翌日。
アステリアたちは、マイヤーの北側にある巨大な城門の前に集まっていた。門の向こうには石畳が続き、その先には広大な森と草原が広がっている。朝の陽光が木々の葉をきらめかせ、心地よい風が頰を撫でた。
メンバーはアステリア、ルリ、リーフィ、リサの四名。ヴェルラは魔道具の研究に没頭するため、しばらく精霊界に籠るという。次の拠点に姿見を設置すれば、いつでも転移できるため、皆特に反対はしなかった。
「それでアステリア、目的地はどこなの?」
リーフィが少し興奮した様子で尋ねた。
「海に隣接していて、漁業が盛んな街──イセリア領の領都、イセリアよ」
アステリアの答えに、リーフィの虹色の瞳が大きく見開かれた。
イセリア領はマイヤー領のすぐ隣に位置し、領都イセリアはその中央西側にあった。海に面した港町で、新鮮な魚介類が並ぶ市場や美しいビーチが観光客を惹きつける、活気ある街だ。
「海!?私、人生でまだ一度も海を見たことないの!楽しみだわ!」
リーフィが目を輝かせて喜ぶ。アステリアも初めて訪れる土地であるため、同じく心が躍っていた。
「あ!忘れるところだったわ。ヴェルラから、リーフィに渡すように頼まれていた物があるの」
アステリアはそう言うと、仮面を取り出しリーフィに手渡した。
「これは……?」
「あなたの瞳を隠すための仮面よ」
それは顔の上半分を覆う、金属質で無骨なデザインの仮面だった。表面には精巧な魔術回路が刻まれ、ヴェルラの技術が注ぎ込まれているのが一目で分かる。
「これ、前見えるの?目の部分、塞がってるじゃない……」
「安心しなさい。ヴェルラが作った物よ。実際に付けてみれば分かるわ」
リーフィは内心少し不安を抱きつつも、いつもの眼鏡を外し、仮面を顔に当てた。
「!?すごい……!見えるわ!何も付けてないみたいに、視界がすごく広い!」
眼鏡のフレームが視界を狭く感じさせていたのとは比べ物にならないほど、自然でクリアな視界が広がっていた。
「ヴェルラが言うには、色々機能を付けたって言っていたわよ。遠くのものを見ようと思いながら魔力を流してみなさい」
リーフィは言われた通り、遠方の木々を意識しながら魔力を仮面に注いだ。
「わあ……!魔道ライフルのスコープと同じくらい、遠くのものが近くに見える!」
リーフィは新しいおもちゃを手にした子供のように、声を弾ませて喜んだ。
「これ、いいわね!スコープは遠くを見たい時にいちいち銃を構えなきゃいけなかったけど、これはいつでも使えるし、視界も広いから本当に便利!」
「その仮面とスコープを組み合わせれば、さらに遠方の敵を正確に捕捉できるらしいわ。これで戦いの幅がかなり広がるはずよ」
アステリアは満足げに頷いた。魔道ライフルは今後、主にリーフィが担うことになるため、ヴェルラはこの仮面をその前提で作成したのだという。
「他にも便利な機能がいくつかあるみたいだから、詳しくは後でヴェルラに直接聞いてみなさい」
そう言い終えると、アステリアは前方に広がる道を見つめ、静かに微笑んだ。
「じゃあ、出発しましょうか」
アステリア一行はマイヤーの門をくぐり、徒歩でイセリアを目指して歩き始めた。
一時間ほど経った頃、リーフィがふと口を開いた。
「ところで、このまま徒歩でイセリアに行くつもりなの?このペースだと何日もかかるわよ」
領都イセリアまでは、普通に歩けば約一週間はかかる距離だ。
「安心していいわ。もう少ししたら走る予定だから」
「え?は、走る……?」
リーフィは思わず聞き返した。
「走る予定だから、何日もかからないわ。三日くらいで着くんじゃないかしら」
アステリアはさも当然のように言い切った。ルリとリサも特に驚いた様子はない。リーフィは自分がおかしいのではないかと、一瞬不安になった。
「あの……馬車とかは……?」
「使わないわ。基礎体力の向上と、身体強化を長時間維持する魔力操作の特訓に持ってこいの機会よ。特にリーフィはこの中で一番弱いんだから、しっかり鍛えてもらわないと」
ヴェルラを除けば、確かにリーフィが現時点で最も戦闘力が低い。ルリはアステリアの徹底した指導を受け、十歳とは思えない強さを既に身につけている。リサも暇が合う時だけだが、アステリアの指導を受けており、アステリアと戦った時と比べて遥かに成長している。
「走り込みだけじゃなくて、魔力圧縮の訓練や組手もみっちりする予定よ。イセリアに着くまでの三日間は、きっちりスケジュールが組んであるわ」
リーフィは、イセリア到着までの約三日間が地獄の特訓期間になることを悟り、背筋に冷たい戦慄が走った。
しかし、自分が今一番の足手まといであることを理解しているため、何も言い返すことができなかった。ただ、静かに拳を握りしめ、覚悟を決めるしかなかった。




