第29話 鏡の向こうの新拠点
物件の購入手続きを終えた翌日。
屋敷の正式な所有者となったアステリアは、今日は荷物を運び込むためにこの場所へやって来ていた。
「この鏡はここでいいわね」
アステリアは、一番奥にある個室の一つを選ぶと、他の荷物は一切置かずに、大きな姿見だけを丁寧に設置した。
一見したところ、どこにでもあるような普通の姿見だ。しかしアステリアがそっと手を伸ばすと、鏡面は水面のように柔らかく波紋を揺らし、彼女の手をすうっと飲み込んだ。
「ちゃんと作動するわね。良かった」
満足げに呟くと、アステリアはそのまま鏡の中へと身を滑り込ませた。視界が一瞬ゆらりと歪み、次の瞬間、彼女は別の世界へと足を踏み入れていた。
「これでだいぶ楽になるわ」
アステリアが出た先は、なんと精霊界だった。木漏れ日が柔らかく差し込む、馴染み深い森の空気。慣れ親しんだ魔力の流れが肌を優しく包む。
「アステリアお嬢様、これはいったい……!?」
たまたま近くを歩いていたリサが、目を丸くして凍りついた。突然、鏡の中から主人が現れたのだから、無理もない反応だった。
「あら、リサ。良いところに来たわ。今後、この姿見を使う機会がとても増えると思うから、みんなに説明しておこうと思うの。呼んできてくれる?」
「は、はい。すぐに!」
リサは慌てた様子で頷くと、小走りにその場を離れた。しばらくすると、リサに呼ばれた面々が次々と集まってきた。
「リサに急に呼ばれたんだけど……何が始まるの?」
リーフィが首を傾げながら尋ねてくる。好奇心とわずかな不安が入り混じった表情だ。
「私がこの鏡に入るから、あなたたちは私の後について、ちゃんと入ってきてちょうだい」
「え!?鏡に……?どういうこと?」
リーフィの言葉に、他のメンバーも困惑した顔を見合わせた。誰もが「まさか」という思いを浮かべている。
「まあ、入ってみればすぐに分かるわ。怖がらなくていいのよ」
アステリアは軽く微笑むと、再び鏡の中へと身を沈めた。姿が完全に消えた瞬間、周囲は水を打ったように静まり返った。気配すら残っていない。
「では……アステリアお嬢様のおっしゃる通りに、この姿見に入ってみましょうか」
リサが意を決して先陣を切り、恐る恐る鏡面に手を触れた。次の瞬間、彼女の体はするりと鏡の中に吸い込まれていった。それに続いて、リーフィたちも互いに顔を見合わせながら、戸惑い混じりで鏡の中へ足を踏み入れる。
――そして。
「ここって……昨日買った屋敷だよね。もしかして――」
鏡から出てきた先は、確かに昨日購入したばかりのマイヤーの屋敷の室内だった。何かに気づいたヴェルラが、はっと息を呑む。
「転移ね。この姿見、私たちが貰った指輪と似たような仕組みだわ。トリガーはおそらくアステリアが鏡面に触れて魔力を流した時。普段はただの鏡だけど、魔力を流せば瞬時に固定型の転移装置に変わる……。そして、きっと指輪と同じで、精霊神様の許可がある者だけが使用できるのね」
「さすがよ、ヴェルラ。百点満点の答えだわ」
天才と称される魔道具技師の考察は、的確で無駄がなかった。アステリアは満足そうに頷いた。
「ですが、お嬢様。確かオーロリア様は転移の魔法に関しては、あまり好ましく思っていらっしゃらなかったはず……。どうして許可をいただけたのですか?」
リサの疑問はもっともだった。オーロリアはこの世界の自然な成長を強く願っているため、転移のような便利すぎる魔法には、以前から難色を示していた。魔法があまりにも便利になれば、人々は努力を怠り、新たな発見が生まれなくなり、文明の進化が止まってしまう――そう危惧していたのだ。
「確かにオーロリアは転移に厳しかったわ。でも、現実として、転移が使えなくてもこの星の文明は大して成長していなかった。だから、今までの考え方では限界があるの。そこで鍵となるのが、ヴェルラよ」
「え? 私……?」
急に名前を挙げられ、ヴェルラが目をぱちくりさせる。
「ヴェルラは、精霊神を含む三神にとって、この世界の文明を大きく飛躍させる可能性を秘めた、かけがえのない希望なの。召喚や転生といった外部からの天才ではなく、この世界で自然に生まれた天才が、自らの力で文明を押し上げる――それこそが、彼らが最も望んでいる未来なのよ」
アステリアは優しく、しかし力強く続けた。
「そうなれば、各国を回る機会も増えるわ。でも今の時代の移動手段はまだまだ不便。馬や魔物に頼れば、休息も必要だし、道中には魔物や盗賊の危険も常にある。そんな大切なヴェルラが、安全に移動できる手段を用意した方がいいと、私は三神に伝えたの。確実に文明を進化させるために、ってね。渋い顔をされながらも、なんとか許可はもらったわ。ついでに、私たちの分も」
「それなら、ヴェルラに移動手段を開発してもらった方が良いのでは……?」
リサがふと疑問を口にした。
「それは時間がかかりすぎるの。それに、すべてをヴェルラ一人に背負わせるつもりはないわ。あくまでヴェルラは起爆剤。彼女の影響を受けた世界中の発明家たちが、次々と新しいものを生み出し、文明全体が活気づく――それが三神の本当の望みなの」
「なんか……私の責任が重大すぎて、息が詰まりそうなんだけど」
ヴェルラは苦笑しながら胸を押さえた。スケールの大きすぎる話と、将来の自由が制限されるかもしれない不安が、彼女の心をざわつかせていた。
「ヴェルラは今まで通り、好きに魔道具を開発して大丈夫よ。あなたが自由にやった結果が、世界を変えることになるんだから。変に意識しなくていいわ」
「それなら……まあ、いいんだけど……」
ヴェルラはアステリアの言葉に一応納得したものの、やはり胸の内は完全に落ち着かなかった。
「さて、とりあえずこの姿見の話に戻りましょうか。ヴェルラが言った通り、これは転移の魔道具よ。オーロリアから許可を得ている者が鏡面に魔力を流せば、もう一方の姿見へと通り抜けられるようになるわ。そして今後、この姿見は各地の拠点に置いていくつもりよ」
「各地の拠点にってことは、この屋敷みたいにまた物件を買うってことだよね?」
「そうよ」
ルリの質問に、アステリアはにっこりと肯定した。
「今後、各地に拠点を確保して、この姿見を設置するわ。そして、どの姿見に移動するかは、魔力を流す時に目的地を思い浮かべながら流せば、任意の場所へ行けるようになるわ」
「じゃあ、これから本格的に拠点探しの旅が始まるってことね」
「そうね。近いうちにマイヤーも出発する予定よ」
リーフィはみんなと一緒に旅ができることに、目を輝かせて少しわくわくした表情を浮かべていた。
「簡単に行き来できるようになるから、ここに来る機会もきっと増えるわ。だから、この拠点にはいつでもすぐに帰ってこれるよう、必要最低限の家具や、ヴェルラが作ってくれた防犯の魔道具などをしっかり配置しておきましょう」
その後、五人はマイヤーの屋敷を「いつでも帰れる安心の拠点」にするため、必要なものを丁寧に整えていった。




