第34話 死闘!森の神
「ルリ! リーフィ! 私が隙を作りますので、アステリアお嬢様を!」
「はい!」
眼前に君臨する白銀の巨獣。圧倒的な力の差を肌で理解してはいたが、三人は悲壮な覚悟を決めて武器を構え、同時に動き出そうとしていた。
しかし、その決死の陣形を一瞥した森の神の金色の双眸には、一欠片の興味も宿っていない。
『貴様たちは後から始末する。まずはあの危険な娘からだ』
森の神は三人の存在を完全に無視し、右腕を失って後方へ吹き飛んだアステリアに止めを刺そうと、容赦なく一歩を踏み出した。
「そうはさせません!」
リサは己の身を盾にするべく、森の神の突進軌道の前へ決死の覚悟で立ちはだかる。
『邪魔だ!』
巨大な狼が、目の前のリサを羽虫のごとく払いのけようと前足を無造作に振るった。
――その、瞬間だった。
森の神の右頬に、空間を爆裂させるほどの強烈な痛みとともに、凄まじい轟音と衝撃が襲いかかった。
体高二メートルを超える巨体が、真横から大砲で撃ち抜かれたかのように浮き上がり、周囲の木々を激しくなぎ倒しながら数十メートルも後方へと吹き飛ばされた。
「アステリアお嬢様!」
衝撃波が巻き上げた砂塵の向こう、リサの目の前に音もなく立ちはだかっていたのは、衣服を血で汚した十歳の少女だった。リサはその背中を見つめ、張り詰めていた肺の空気を吐き出すようにほっと胸を撫でおろす。
「さっきの一撃……全力で張った魔力障壁を、いとも容易く割ってくるとはな」
アステリアは自身の小さな拳を軽く開き、昏い高揚感を孕んだ笑みを唇の端に浮かべていた。リサはその姿を見て、どこかいつもと違う、底知れない覇気を含んだ雰囲気を感じ取った。
欠損した右腕の断面からは、膨大な魔力が固有能力【再生】の術式へと過充填されていた。苦痛の素振りは微塵もない。骨、肉、皮の繊維が一瞬のうちに編み上げられ、みるみるうちに指先まで元通りに再生していく。
「今世で唯一感じた死。久しぶりの感覚だ。……前世の、あの時を思い出すよ」
アステリアは血に濡れた森の天を仰ぎ、かつて純粋に武の極みを追い求め、死線を潜り抜けていた懐かしい感覚に深く浸っていた。
『やはり我の勘は正しかったようだな。貴様は危険だ。確実に始末する』
なぎ倒された巨木の山から、轟然と地を蹴って森の神が一跳びでアステリアの元まで戻ってくる。あれほどの衝撃で殴られた箇所には傷一つなく、巨大な狼の頑強な肉体は完全な無傷だった。
「さすがは森の神と言われるだけはあるな。全力で叩き込んだ破拳も無傷で凌ぐほどの防御力。そして何より、俺が出せる最大硬度の魔力障壁を簡単に砕く攻撃力。……素晴らしい。俺を殺せるかもしれない存在だ。やはり俺の直感は正しかった。お前に会いに来て、正解だったよ」
強者との純粋な一手一手の削り合いに、アステリアの精神は完全に興奮状態へ突入していた。
もはや周囲の環境や仲間たちの視線など一切視界に入っていない。十年間注意深く演じてきたお嬢様口調は完全に止まり、自然と前世の秋風廉次郎としての口調に戻っていた。
「お、おじょう……さま……?」
前世の魂のことについては少しだけ聞いたことがあったリサだったが、目の前で展開される主人の凄絶な変貌ぶりに頭がまったく追いつかず、ただ茫然と立ち尽くしている。背後にいるルリとリーフィも、手にした武器を構えたまま同じように硬直していた。
「いくぞ。野良犬」
アステリアは地面を強く蹴り、一気に森の神との距離を詰める。その足捌きは今まで見せていたものとは比較にならないほど鋭烈で、蹴り抜かれた地面も土埃を爆発的に巻き上げながら大きく抉れていた。
「破拳!」
最短軌道の拳を真っ直ぐに突き出す。だが、狼はその巨体に似つかわしくないほどの軽やかさで身をひらりと躱し、流れるように反転して頭上から爪を立てて奇襲を仕返してきた。
アステリアは瞬時に空間から精霊神樹製のトンファーを取り出し、頭を狙ってくる巨大な爪の軌道を完璧に受け止めきった。鈍く重厚な衝突音が、森の中に重く響き渡る。
『何!?』
放った必殺の爪が人間の子供の手によって完全に静止させられたことに、森の神は目を見開き、驚愕した。
「このトンファーは魔力を流せば流すほど硬度が増す。野良犬風情のお手では、防ぐのも容易い」
アステリアはそのまま腕の構造線を通じて森の神を正面から力強く押し返し、反動の推進力を利用して地面を蹴り宙に舞い上がった。
「破脚!」
空中で完全に逆さの状態になったアステリアは、落下の勢いをすべて脚の勁力へと変換し、そのまま森の神を正確に蹴り込む。一点に圧縮された魔力が轟音とともに炸裂し、巨大な狼を後方へと大きく吹き飛ばした。
狼の体は何本もの頑強な木をなぎ倒して、ようやくその場に止まる。
次の瞬間、無数の氷の槍が砲弾のごとき速度で一斉に飛来する。アステリアはトンファーを滑らかに旋回させ、最小限の動作ですべて正確に砕き割った。
だが、その迎撃の直後、死角である背後に巨大な影が音もなく迫っていた。右の前足には高密度の風の魔力が鋭利に纏っており、触れたすべての物質を抉り取るほどの破壊力が内包されている。
長年の鍛錬で培った気配を感じ取る直感と、常時駆動の魔力探知のおかげで、背後を取られても即座に反応できた。迫りくる爪を振り返りざま、トンファーの打撃面を真っ直ぐに叩きつける。
「破拳・風竜!」
二者の高密度な風の魔術波長が正面から衝突し、周囲にとんでもない強風が吹き荒れた。刃のような風が木々の樹皮を切り裂き、深く傷つけていく。
「あはははは!最高だ!森の神!ここまで魔力を操れるとはな!」
アステリアは押し合いの中、純粋な武を競う喜びから興奮した笑みを浮かべる。
拮抗する二つの魔力が限界点に達し、二者を丸ごと飲み込むほどの大爆発が起こった。すさまじい爆風によって土埃が吹き飛んだ後、互いに無傷のまま再び姿を現す。
『人の身でありながら、聖獣である我とここまで戦えるとはな』
「なるほど、聖獣か。なら言葉を話すのも理解できる。そしてこの強さも。各地を守護する神獣の次世代候補……かの獣人の国の王も聖獣と聞いたことがある。だが、まさかこんな所にいるとはな」
『我はただこの森を気に入っているだけだ。故に危険因子である貴様は、排除させてもらう』
そう言って冷徹に思念を放った瞬間、森の神の身体が揺らぎ、五体に分裂した。
「分身?なるほど、固有能力か」
死角を完全に埋める連携陣形で五体が突進してくる。一撃でもまともに受ければ肉体が瓦解しかねない攻撃に対し、アステリアは的確な防御姿勢を取りながら、冷徹に分析を続けていた。
(力が本体並みなのに動きが単調なのが二体。逆に力は劣るが動きに知性があるのが二体。残る一体は力も動きの鋭さも、先ほどまで一対一で戦っていた相手と寸分違わない。……これが本体だ。分身の数が増えるほど個々の性能が落ちる仕組みなのだろう。なら、これ以上増える心配はない)
牙と爪の嵐が身体をかすめる危うい場面は何度かありながらも、アステリアの分析は止まらなかった。
(分身の弱点を補い合う連携が厄介だ。……ここはあれを試してみるか)
トンファーを構え直し、両手を前に出しながら静かに、かつ深く腰を落とした。
「四天桜花の構え」
動きががらりと変わった。無駄にステップを踏むことはなくなり、正中線を中心に据えた必要最低限の体捌きだけで、的確に波状攻撃を捌き、受け流していく。
『貴様!何をした!』
自慢の波状攻撃を完全に無効化され、焦りを見せ始めた森の神が吼える。
「探知魔法を改良したオリジナルだ。範囲を半径五十センチに狭めて、入ってきた攻撃を自動で判別し、最適な反射の動きで防ぐ」
『だが、どんなに守りを固めようとも、防いでいるだけでは我には勝てんぞ!』
術式によって身体が半ば勝手に動き、猛攻を防いでいるため、アステリアは呼吸を乱すことなく平然と話し続ける。
「利点はそこじゃない。人間の脳は同時にいくつもの思考を回すのに限界がある。俺の場合、成長を遅くする魔法、身体強化、魔力圧縮、魔力障壁、体の制御……五つを同時に回している。正直、これ以上は厳しい。だからこそこの構えが活きる」
『どういうことだ?』
「自動で攻撃を防げるようにした。その分、脳のリソースが空く。空いた分で、こういうことができるようになる」
骨盤の回転を乗せて右拳を深く構えた。
「――破拳!」
本体である森の神の胸元へ、全神経を集中させた渾身の拳を叩きつけた。
その瞬間、周囲を包み込むような大爆発が起こり、激しい地響きと爆風と轟音が森の中を狂暴に駆け巡る。
凄まじい土埃がようやく収まると、爆心地には大きなクレーターが穿たれており、その中心に二つの影が並んでいた。
「自爆覚悟の、最大魔力の高圧縮破拳。森の神と言えど、さすがに無傷とはいかないな」
殴りつけた右腕は、持っていたトンファーごと原型をとどめておらず、右腕だったのか分からないほどにボロボロだった。損傷は顔の右半分まで及んでいる。
だが、その凄惨な状態にあっても表情に苦痛の色は一切ない。既に【再生】を発動させているため、潰れた顔の右半分と右腕は、淡々と、そしてみるみるうちに白い肌へと治っていっている。
アステリアの足元には森の神が倒れていた。あれほど頑強で傷つかなかった体はボロボロになり、全身から血が流れている。
『ぐっ……』
「どうする?続けるなら、このまま止めを刺すが」
冷徹な武術家としての静かな視線を投げかける。
『……いや、やめておこう。我の負けだ』
【再生】によって瞬時に全快し、再び戦える状態へ戻るアステリアを前に、これ以上抗うのは分が悪いと判断した森の神は、素直に負けを認めた。
「悪かったな。森に来たのも、魔力を放ってお前の警戒心を高めさせたのも、森の神と言われるお前と戦いたかったからだ。久しぶりに手に汗握る戦いで、本当に楽しかったよ」
アステリアはいつもの可憐な笑顔を浮かべ、倒れている森の神に武術家としての真意を伝える。
「用は済んだからすぐに出ていく。だから安心しろ」
そう言ってアステリアは後ろに振り向き、呆然と立ち尽くしているリサたちの元へと静かに戻っていった。




