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星崩しのアステリア  作者: 狐坂蒼
第一章 準備と決意

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第3話 鍛錬

 王子との退屈なお茶会が終わり、夜の帳が完全に下りた。


 夕食はいつものように自室で済ませる。メイドが恭しく食器を下げて退出していく。肉厚な木製の扉が静かに、だが確実に閉まる重苦しい音が響いた後、部屋は再び深い静けさに包まれた。この時刻を過ぎれば、基本的に誰もアステリアの部屋の扉を叩くことはない。人形としての「貴族の幼女」を演じる義務から解放されるこの時間こそが、今の私にとって最も深く息を吸える、安心の時間だった。


「さて……。錆びつく前に、身体を馴染ませに行きましょうか」


 アステリア――その小さな喉から溢れたのは、低く落ち着いた声音だった。

 二階の窓をそっと押し開ける。途端、夜の森が放つ濃い青葉の匂いと、冷徹な夜風が金色の長い髪を激しく揺らした。見上げる空は闇に塗り潰され、ただ淡い星明かりだけが、微かに地面の輪郭を浮き上がらせている。


 自室は二階。前世の八十四歳の肉体であれば、階段を降りるだけで膝が悲鳴をあげたものだが、今の肉体は違う。

 アステリアは躊躇なく窓枠に小さな足をかけ、体内の魔力を「身体強化」の術式へと滑らかに変換・発動させた。

 夜闇へ向かって音もなく地を蹴る。着地の瞬間、猫のようにしなやかに膝を深く曲げ、衝撃を骨から筋肉へと分散させて完全に殺す。着地音は、踏みしめた芝生が微かに擦れ合う程度。前世の学んだ隠密降下技術が、この軽い肉体と魔法によって完璧に再現されていた。


 目的地は屋敷の敷地を外れた、深い森の奥。

 身体強化を維持したまま全力で跳躍を繰り返せば、わずか十分足らずで到達できる距離だ。


 この世界には魔法が存在する。貴族子女としての基礎教育のおかげで、魔力の初期操作と知識は揃った。


(ここだけは、貴族の家に生まれた数少ない恩恵ね)


 冷たい夜気を小さな肺腑に吸い込みながら、アステリアは内心でほくそ笑む。


 前世で骨の髄まで叩き込んだ近代の戦闘技術、各種格闘術。それにこの世界の未知のエネルギーである魔法を掛け合わせる。独自の戦闘スタイルをこの手で構築し、いつかその技術を継ぐ弟子を育てる。想像するだけで、前世の戦場で肉体が衰え、ただ死を待つだけだった男の魂が、歓喜で激しく震えた。


(ヒグマと刺し違えて死んだ時は、私の武もここまでかと思ったけど……。まさかこれほど充実した第二の人生が待っていようとはね)


 ざわざわと、夜風に騒ぐ巨大な木々の葉音が、アステリアを歓迎するように響く。森の奥の「秘密の練兵場」へと足を踏み入れた。


 まずは、全ての起点となる魔力操作の精密鍛錬。


 草生した地面に真っ直ぐに立ち、静かに瞼を閉じる。意識の焦点を向けたのは、胸の奥で燻る魔力の奔流。それをミリ単位の精度で「圧縮」していく。限界まで圧をかけた魔力を、体内で爆発させぬよう制御しながら、右足、左足、右腕、左腕へと、神経の管を通すように自在に移動させてしていく。


(……相変わらず、針の穴に糸を通すような作業ね。圧力を二倍にすれば、制御の難易度は十倍に跳ね上がる。だが、だからこそ――これを叩き込んだ一撃は、対物ライフルをも凌ぐ破壊力になるわ)


 一般の魔術師の間で、魔力の体内圧縮は「禁忌」に近い。コントロールをほんの僅か、コンマ一秒でも誤れば、魔力が内側から肉体を粉砕し、肉片となって爆散する自殺行為だからだ。

 実際、アステリアもこの鍛錬を始めた初期、制御を失敗して右腕を肩から先、完全に消し飛ばしたことがある。生々しい骨の破砕音と、噴き出す血の熱さ。普通の人間なら絶望とショックで発狂する光景だが、アステリアにとっては「有益な実験データ」の一つに過ぎなかった。


 なぜなら、アステリアには固有能力【再生】がある。


 この世界の魔法の他に、固有能力という力がある。アステリアの持つ【再生】は通常、魔力を消費しない常時発動状態であれば、腹を刺されても数分で塞がる程度の「超治癒力」に留まる。欠損した部位までは元に戻らない。


 だが、固有能力は魔力による能力の底上げが可能。この【再生】に「大量の魔力を強引に過充填」させたらどうなるか。

 アステリアは実証済みだった。治癒速度は一瞬の領域へと跳ね上がり、消し飛ばされた右腕の骨、血管、筋肉が、まるで時間を巻き戻すかのようにニョキニョキと生えて、数秒で元通りになるのだ。


(痛覚さえ我慢すれば、どれほど肉体が壊れようが『リトライ』が効く。これほど無茶な実験に向いた肉体も他にはないわね)


 理屈を超えたその力を、アステリアは自らの血肉として完全に手懐けていた。


 基礎操作による身体の「暖気運転」を十分に終えた後、実戦形式の「肉体のすり合わせ」に移る。


 鍛錬の相手は、この原生林に息を潜める魔物たちだ。手当たり次第に屠れば生態系のバランスを崩し、結果的に屋敷への魔物大氾濫を引き起こしかねない。そのため、私は殺生を最小限の「間引き」に抑え、残りは魔力を制限した打撃によって、肉体構造上の急所だけを的確に叩く『隠密制圧』を主眼に置いていた。骨を折らず、しかし「これ以上踏み込めば確実に死ぬ」という原初的な恐怖のスイッチだけを押してやる。野生の獣や魔物は合理的だ。圧倒的な格差を肉体に刻み込まれれば、尾を巻いて闇へと逃げ去っていく。


 そんな鍛錬を、毎夜約三時間。一年近く、一日も欠かさず繰り返してきた。


 日常生活の僅かな隙間でも鍛え上げられる魔力操作。そこに、前世の戦場で肉体に染み込ませた格闘技術を掛け合わせる。実践的な鍛錬時間が限られていようとも、自身の武が確実に「次の領域」へ歩みを進めている確かな手応えがあった。


「ふぅ……そろそろ撤収の時間ね。朝の鐘が鳴るまで外を徘徊していれば、勘付かれて面倒なことになるわ」


 少女の身体に合わせて、乱れた金髪を無造作に手櫛で整える。体内の魔力を再び「身体強化」の術式へと流し込み、いざ帰路に就こうと、夜闇の木々へ視線を向けた、その刹那――。


(……待って。何?この違和感は)


 アステリアの全身の肌が、泡立つような奇妙な悪寒に粟立った。

 敵意はない。殺気もない。生物としての熱量も、血の匂いすらもしない。だが、戦場で幾度となく死線を潜り抜けた廉次郎の直感が、そこに正体不明の「観測者」が潜んでいると告げていた。五感が、脳裏が、言い知れぬ不気味な圧力に震える。


 ふと視線の先――闇の密度がそこだけ薄れ、陽炎のように揺らめく、淡く濁った光の玉が不規則に浮遊を始めた。


「……火の玉? あるいは、死者の残留思念の類かしら」


 アステリアは低く、警戒を孕んだ声で呟く。

 応えは音として鼓膜を震わせるのではなく、脳の神経に直接、冷たい電子のパルスのように打ち込まれる思念だった。

 ――違う。精霊だ、と。


「精霊……? そういう存在がいることは聞いたことがあるわ。わざわざ何の用かしら?」


『転生者。観察』


「転生者……なるほどね。私の腹の内を覗き見にきたのかしら?だけど、何のために?」


『世界。壊す。可能性。精霊神様に頼まれた。でも……たぶん、大丈夫』


「大丈夫、ね。随分と大雑把な査定ね。だけど、世界を壊す可能性とは聞き捨てならないわね。……精霊神ね。この世界の構造や、私のようなイレギュラーの存在理由について、随分と情報を持っていそうね」


 アステリアは小さく顎を引き、前世で難解な作戦計画を練る時のように、冷徹な思考の海へ沈んだ。


「ねえ、精霊さん。その精霊神に、直接面会を求めることは可能かしら?」


 淡い光の玉が、一瞬だけ世界から輪郭を消した。数秒の後、空間がピシッと、ガラスにヒビが入るような音を立てて再収縮する。どうやら了承を得たらしい 。


 精霊が軌跡を描くと、目の前の虚空が音もなくねじ切れた。大気が軋み、現実の風景が内側から裂ける。現れたのは、淡い燐光を放ちながら静かに渦巻く、精霊界へと繋がる空間の裂け目だった。


 アステリアは小さく息を吐き出し、胸の奥の魔力を静かに、だが確実に高めた。得体の知れない神の領域。普通の幼女なら怯えて泣き出す怪異の渦を前にして、秋風廉次郎の魂は、かつて敵陣の最深部へ単身降下した時と同じ、極上の高揚感に包まれていた。


「……いいでしょう。出迎えにしては、なかなか上等な演出ですわね」


 アステリアは不敵に口元を歪めると、精霊の導きに従い、その未知の光の深淵へと躊躇なく一歩を踏み出した。

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