第3話 鍛錬
王子とのお茶会が終わり、夜の帳が完全に下りた。
夕食はいつものように自室で済ませ、メイドが食器を下げて退出していく。扉が静かに閉まる音が響いた後、部屋は再び深い静けさに包まれた。この後は、基本的に誰もアステリアの部屋に来ることはない。それが、アステリアにとって最も安心できる時間だった。
「さて、鍛錬に行きましょうか」
アステリアは小さく微笑みながら、二階の窓をそっと開けた。冷たい夜風が金色の長い髪を優しく揺らす。外は真っ暗で、星明かりだけが淡く地面を照らしていた。
自室は二階にあるが、そんなことは気にも留めず、アステリアは窓枠に足をかけ、身体強化魔法を軽く発動させて外へ飛び出した。着地の瞬間、ほとんど音を立てることなく膝を柔らかく曲げて衝撃を吸収する。
目的地は屋敷から少し離れた、深い森の中だ。身体強化魔法を使って全力で駆け抜ければ、十分程度で着く距離である。
この世界には魔法が存在する……。貴族の子女として基礎的な教育を受けていたおかげで、魔力の操作を始め、基礎的な魔法の知識はある。本当に助かっている。ここだけは貴族で生まれて良かったと思える数少ない点だ。
前世で学んだ様々な戦闘技術に、この世界の魔法を掛け合わせる。それでオリジナルの戦闘スタイルを完成させ、いつか弟子を取って自身の技術を世に広める。そんな未来を想像するだけで、自然と胸が高鳴った。
(楽しみができた……。ヒグマとの死闘の末に転生したとは思えないほどの、充実した第二の人生だ)
鍛錬場所である森の奥深くに到着すると、周囲の木々が夜風にざわめく音だけが静かに響いていた。
まずは魔力操作の鍛錬から始める。
立ったまま目を閉じ、体内の魔力に意識を集中させた。魔力をゆっくりと圧縮し、その圧縮した状態のまま右足、左足、右腕、左腕へと、体の中を自在に移動させる。
(かなり難しい……。さらに圧力を上げれば上げるほど難易度は飛躍的に跳ね上がる。その分、圧縮魔力を使った攻撃は圧倒的な火力を発揮するが……)
一般的に魔力の圧縮は推奨されていない。なぜならリスクが大きすぎるからだ。コントロールをわずかでも誤れば、体が内側から爆散する危険性がある。
過去にそんな悲惨な事例も実際にあったらしい。かく言うアステリアも、鍛錬を始めた当初に一度コントロールを完全に失敗し、右腕を吹き飛ばしたことがある。しかし、それでも問題はなかった。
固有能力【再生】のおかげで、瞬時に腕を再生させたからだ。
魔法は大きく二つに分類される。基本魔法と例外魔法だ。
身体強化や属性魔法などは基本魔法に属する。一方、固有能力は例外魔法の一つに分類されている。
なぜ例外と言われているのか、それは固有能力が基本的に魔力を消費せず、体力が続く限り長時間行使が可能だからだ。能力を発動するために魔力という対価が必要ない。例外魔法とは理屈が不明な異質な力の総称。
そんな例外魔法だが、固有能力はその中でも特に異質だ。それは固有能力の中には、魔力消費させることで能力を強化させることができるからだ。
アステリアの【再生】は、通常運用であれば傷の治りが目に見えて早く、お腹を深く刺されても数分で治ってしまう。しかし、欠損した部位を完全に再生させることはできない。
だが、大量の魔力を注ぎ込んで強化すれば、治癒速度がさらに跳ね上がり、失われた部位さえも再生させることが可能になる。
そんな性質から、固有能力はかつて「固有魔法」と呼ばれる時代もあったという。
魔力操作の基礎鍛錬を十分に終えた後、次は実戦形式に移る。
相手は森に生息する魔物たちだ。殺しすぎると生態系を乱す恐れがあるため、殺生は最小限に抑え、残りは魔力を制限して「追い払う」ことを主眼に置いている。ある程度のダメージを与えれば、ほとんどの魔物は勝てないと悟って逃げていく。
そんな鍛錬を、毎日約三時間。一年近く前からほぼ毎日繰り返している。
魔力操作だけは場所を選ばないため、日常生活の隙間時間にもこまめにこなしていた。前世で培った格闘技術と、この世界の魔法を組み合わせたおかげで、実践的な鍛錬時間が少なくても着実に強くなれている手応えがあった。
「そろそろ帰らないと……。朝まで外にいたら、さすがにバレて面倒なことになるわね」
身体強化魔法を再びかけ、いざ帰路につこうと顔を上げたその瞬間——
(ん?……)
何かの気配を感じた。敵意はない。生物でもない。しかし、確かにそこに「何か」が存在している。不思議な、言い知れぬ気配。
ふと視線の先に、ぼやけた淡い光の玉のようなものが現れていた。
「……火の玉?それとも幽霊?」
違う。精霊だと言っている。言葉というより、思念のようなものが直接頭の中に響いてくる。
「あなたたちは精霊なのね。私に何か用があるのかしら?」
『転生者。観察』
「転生者……なるほど、私を観察しに来たってことね。でも、なんのために?」
『世界。壊す。可能性。精霊神様に頼まれた。でも……たぶん、大丈夫』
「大丈夫ならいいわ。それにしても精霊神ね……この世界のことや、私のような転生者についても詳しそう」
アステリアは少し考え込んだ。
「ねえ、その精霊神に会うことはできるかしら?」
精霊は一瞬ふっと姿を消し、数秒後に再び現れた。どうやら了承を得たらしい。
精霊は空間を歪め、淡い光の渦のような精霊界への入り口を作り出す。
アステリアは深く息を吸い、精霊に導かれるまま、その不思議な光の中へと一歩を踏み入れた。




