第12話 新たな出会い
それから、二週間が過ぎた。
あの日、大衆酒場で悪徒を「釣り」上げて以来、アステリアはマイヤーの夜陰に紛れて犯罪者狩りを続けていた。
初日こそ命までは奪わず、四肢の関節を理合に沿って粉砕するに留めていたが、翌日にはその方針を冷徹に変えた。生かしておけば組織に情報が渡り、網を警戒される。前世の紛争地帯で学んだ兵術の基本だ。確実な無力化――すなわち死による口封じこそが、この街での安全を担保する。
(死体の処理が少々雑なのは否めないけれど、この最果ての治安の空白には都合が良いわね) 法も秩序も泥水に溶けたようなこの街では、裏路地に無名の死体が転がっていることなど日常茶飯事らしい。アステリアが仕留めて放置した骸も、翌朝には跡形もなく消え失せていた。誰が片付けているのかは知らないが、死因を詮索するような殊勝な役人はここにはいない。
とはいえ、毎夜のように死体を積み上げれば、いずれ「異常な捕食者」の存在に気づく者が現れる。戦術の切り替え時を模索していた矢先、ギルド長室でローナンから渋い顔で声をかけられた。
「アステリア、ここ最近、裏社会の犯罪者集団が大規模な抗争を起こしているらしい。巻き込まれないよう、夜は出歩くんじゃないぞ」
フードの奥で、アステリアは思わず可憐な唇の端が歪むのを隠せなかった。自身の単独行が、組織同士の血みどろの縄張り争いと誤認されているのだ。
これ以上ない好都合である。煙幕としては完璧だ。このまま彼らの「抗争」を外側から加速させてやればいい。……いや、そろそろ小魚を釣るだけでなく、情報網を広げて彼らの大元である「拠点」そのものを戦術目標に定めるべきか。
完璧な令嬢の微笑みの裏で、アステリアの魂はかつての戦鬼の眼差しで昏い空を見上げていた。
――夜の十一時。
マイヤーの街道からは完全に人の気配が途絶え、冷徹な静寂が石畳を支配していた。いつもの酒場で黄金色の炒飯を胃の腑に収めたアステリアは、夜風に金髪をなびかせながら、あえて光の届かない裏街道を選んで歩く。
「今夜は尾行が付かないわね。餌が少々露骨すぎたかしら……」
ならば、こちらから出向くまで。アステリアは衣服に擦れる音すら消す隠密歩行のまま、体内の魔力を下半身の経絡へ滑らかに収束させた。
――身体強化。
音もなく地を蹴り、鳥のように建物の屋根へと跳躍する。夜闇に紛れ、瓦の上を滑るように移動しながら、いかにも悪徒が毒を吐き散らしていそうな薄暗い路地裏を手当たり次第に索敵し始めた。どの程度走っただろうか。突然、アステリアの敏鋭な鼓膜が、大気を切り裂くようなドスの利いた男の怒声を捉えた。
「おらっ、待ちやがれッ!」
反射的に視線を落とす。入り組んだ路地の奥、二人の大男が、一人の少女を執拗に追い詰めていた。
少女の頭部には、湾曲した二本の角が夜闇に黒く佇んでいる。魔力波長から察するに『魔族』。見た目は十五歳前後といったところだが、彼らは長命種だ。その容姿に見合った実年齢かどうかは五感だけでは測れない。
かつて世界を巻き込んだ人類と魔族の戦争――神々が人類の生存競争を煽るために生み出したという「魔王」のシステムは疾うに崩壊したと聞くが、それでも最果ての地に生きる人間の根底には、魔族への根深い忌避感が澱のように残っている。目の前の男たちの瞳にあるのは、単なる差別ではなく、獲物を値踏みするような下卑た粘着質――人身売買組織の悪意そのものだった。
「もうっ……しつこいっ……!」
魔族の少女は激しく息を乱し、路地に置かれた木箱を必死に蹴り倒しながら走るが、男たちとの距離はジリジリと縮まっていく。その足取りには戦闘の訓練を受けた形跡がなく、護身用の魔道具すら所持していないようだった。逃げ道の途絶えた行き止まりに向かって走るその姿は、客観的に見ても詰んでいる。
アステリアは屋根から音もなく滑り降り、少女の進行方向の角から平然と姿を現した。「え……?女の子……っ?」
必死の形相で角を曲がってきた少女が、アステリアの姿を見て弾かれたように目を見開く。夜の十一時、治安の死角である裏路地に、最高級のシルクを纏った五歳の幼児が一人で佇んでいる異常。少女は驚愕に足を止め、叫んだ。
「何やってるの!早く逃げて、後ろに凶悪な奴らが――」
しかし、遅かった。追いついた二人の大男が、狭い路地を塞ぐように立ちはだかったアステリアと少女を遮り、不気味な笑みを浮かべる。
「おいおい、なんだこの上等なガキは。邪魔だ、どけッ!」
「邪魔だとおっしゃるなら、力づくで退かしてみせたらよろしいじゃない」
鈴を転がすような愛らしい声に、冷徹な芯を混ぜてアステリアは言い放つ。大人の無頼漢を前にして一歩も引かない幼児の異様さに、魔族の少女は息を呑んだ。
「待て、好都合だ。そのガキを捕らえて人質にしろ!この魔族の女、どうやら自分よりそのガキの心配をしてやがる」
「なるほど、そいつはいい」
男の一人が下卑た笑みを浮かべ、アステリアの細い肩を掴もうと大きな汚い手を伸ばした――その刹那。世界が静止する。
アステリアの肉体から『脱力』の理合が爆発的に解放された。地面からの反動を完璧に伝達した右腕が、弾丸のごとき速度で男の懐へと滑り込む。
肉を引き裂く、湿った鈍い音が響いた。
「え……?」
魔族の少女の口から、掠れた声が漏れる。
アステリアの小さく白い腕は、男の分厚い胸壁を抵抗なく貫通していた。男自身、何が起きたのか理解できぬまま、口からドス黒い血の泡を噴き出している。
アステリアは肉の繊維を断ち切る感触を指先で味わいながら、男の胸腔から腕を引き抜いた。その小さな手のひらに握られていたのは、未だドクドクと不気味に脈動を続ける赤黒い肉塊――男の『心臓』だった。
もう一人の男の眼前にそれを見せつけるように掲げた後、アステリアは一切の躊躇なく、小さな指先に力を込めてそれを肉片へと握り潰した。
心臓を消失した男の巨体が、糸の切れた人形のように泥へ伏し、二度と動かなくなる。
「ひ、ひいいいっ!た、助け――」
眼前の怪異にようやく脳の演算が追いついたもう一人の男が、狂ったように背を向けて逃げ出そうとした。だが、戦場の武人が敵に背中を見せた標的を見逃すはずもない。
アステリアは衣擦れの音すらさせずに地を滑り、男の背後へと一瞬で肉薄した。
わざわざ拳を振りかぶる必要すらない。アステリアは男の背中へ、そっと愛らしい小さな掌を添えた。ただ、触れるだけ。
その接触点から、あらかじめ極限まで小さく針のように絞り込んでおいた圧縮魔力を、男の体内へと滑らかに流し込む。
次の瞬間、男の体内で堰を切ったように魔力が大爆発を起こした。内側から急激な指向性圧力に晒された男の上半身は、煉瓦の壁もろとも一瞬で肉片へと吹き飛び、夜の闇に赤い霧となって霧散した。
真っ赤に染め上げられた凄惨な裏路地。その中心で、アステリアは静かに衣服の埃を払う。男の肉体を破壊し、心臓を潰したはずの白いワンピースと滑らかな肌には、極薄の魔力障壁の膜によって、不浄な血の汚れが一滴すら付着していなかった。
魔族の少女は、血溜まりの中で穢れなく佇むアステリアの姿を、恐怖と、どこか神聖なものを見るような圧倒的な畏怖の瞳で見つめていた。
「ねえ、大丈夫かしら?」
令嬢の仮面を貼り直し、優しく声をかける。少女は狂ったように喉を鳴らし、辛うじて言葉を絞り出した。
「あ……大丈夫、だけど……。あなた、何者なの……?」
「私はアステリア。見ての通り、ただの冒険者よ」
「冒険者……? その年齢で……?」
彼女の困惑はもっともだ。この世界の近代的なギルド規約において、登録は十歳以上と定められている。五歳にしか見えないアステリアがその肩書を名乗るなど、本来なら有り得ない。少女の目に「人間の姿をした高ランクの魔物ではないか」という強い警戒が宿るのを見て取り、アステリアは懐から鉄灰色の金属板を取り出して提示した。
「本当よ。秘匿冒険者制度というものがあってね。これが証拠よ」
手渡された金属板を受け取り、少女の細い指先が刻印に触れる。ギルドカードは固有の魔力波長によるセキュリティが施されているため、他人のものを偽造して持つメリットはない。彼女は「秘匿冒険者なのね……」と呟き、ようやく肩の力を抜いた。
「私はヴェルラ。魔道具技師よ」
「ところで、あなたはどうしてあのような男たちに追われていたのかしら?」
「おそらくだけど……私の、魔道具技師としての『腕』が狙われたんだと思う。自分で言うのもなんだけど、私、それなりに有名な魔道具技師だから」
「なるほど。捕らえて奴隷のように部屋に閉じ込め、売買用の魔道具を量産させる腹蔓だったわけね」
「いつもなら、いくつかの自作の護身用魔道具を持ち歩いているんだけど、今日に限って宿に忘れてきちゃって……。だから、本当にありがとう。助かったよ」
裏社会の組織が強引に拉致を試みるほどの技術者。その価値は計り知れない。アステリアは心の中で、戦術的な利害の天秤を静かに動かし始めた。
「どういたしまして。ところで、ヴェルラ。あなたは『武器』の鋳造や付与も行えるかしら?」
「もちろん。というか、ジャンルを問わず、物作り全般なら誰にも負けないよ」
「それは素晴らしいわ。なら、私からあなたに作っていただきたい特注の得物があるの。命の恩人の頼みとして、聞いていただけるかしら?」
「いいよ、何でも作ってあげる。私の命を救ってくれたんだもん」
二人は凄惨な路地裏を後にし、夜の街道へと歩みを進めた。歩きながら、アステリアは彼女の素性をさらにプロファイリングしていく。
「ヴェルラは、このマイヤーの街に居を構えているの?」
「ううん、違うよ。ここには『オーククイーンの魔石』の極上品がギルドの解体所に持ち込まれたって聞いて、素材の買い取りに来ただけ。……私ね、特定の場所には住まないようにしているの」
ヴェルラはわずかに虹彩を曇らせ、自嘲気味に微笑んだ。
「『千年に一人の天才魔道具技師』なんて大層な名前で呼ばれるようになってから、どこに住んでも権力者や商人たちが押し寄せてきてね。『これを作れ』『あれを寄越せ』って命令ばかり。それが嫌で住んでた家を飛び出してきたの。それからは定住するのをやめて、各地の宿を転々とする生活。……私はね、誰かの利益のために道具を作るんじゃない。自分が『作りたい』と思ったものだけを、私の意志で形にしていたいの」
その横顔から滲むのは、天才ゆえの深い孤独と、職人としての揺るぎない矜持だった。強制される日々に背を向け、宿暮らしを余儀なくされている不自由さ。
「ねえ、ヴェルラ。もし、この世界の誰一人としてあなたを見つけ出すことができない、絶対安全で静かな場所があるとしたら――そこに、あなたの工房を構えたいかしら?」
アステリアの問いに、彼女は歩みを止め、真っ直ぐにアステリアの目を射抜いた。
「そんな場所があるなら、今すぐにでも住みたいよ」
「そう。なら、少しだけそこで待っていらして」
アステリアは自身の小さな指にはめられた、虹色に輝く精霊石が埋め込まれた簡素な銀の指輪に魔力を過充填させた。
空間が内側からピシッとガラスにヒビが入るような音を立てて再収縮し、現実の風景が陽炎のようにねじ曲がる。燐光を放ちながら静かに渦巻く『精霊界』への裂け目が現れ、アステリアは驚愕するヴェルラを残して、その未知の光の深淵へと姿を消した。
数分後。精霊神オーロリアに事前の打診と許可を済ませたアステリアは、再び現実世界の路地へとゲートを開いて帰還した。
「待たせたわね。ヴェルラ、あなたの新たな――」
「ねえ!今の何!?どこに行って、どうやって戻ってきたの!?」
姿を現した瞬間、ヴェルラが狂ったようにアステリアの肩を掴んで揺さぶってきた。その瞳には恐怖ではなく、未知の魔術構造に対する狂信的なまでの好奇心がギラギラと燃え盛っている。
「その指輪がトリガーでしょ?空間を物理的にねじ切って別の座標と繋げたの?こんな理論の魔道具、歴史のどこを探しても存在しないよ!仕組みはどうなってるの!?」
「落ち着きなさい、暴走気味の技師さん。言葉で説明するより、体験した方が早いわ。――はい、これがあなたの分よ」
アステリアは精霊界から持ち出してきた、それらと全く同じ構造の虹色の精霊石の指輪を彼女の手のひらに落とした。ヴェルラはそれを受け取り、狂おしいほどの熱量で様々な角度から観察を始める。「未知の物質……魔力伝導率が測定不能なレベルで安定している……。ありがとう、アステリア!でも、近くで見ても全く構造が理解できないなぁ」
「その指輪をはめ、体内の魔術回路を細く通してみなさい」
言われるがままにヴェルラが指輪をはめ、魔力を流した刹那、再び空間が音もなく裂けた。
「この光の裂け目の向こうへ入るわよ。来なさい」
彼女を伴い、二人は境界の深淵を跨いだ。
視界を埋め尽くす白一色のまばゆい燐光。その目が慣れてきた頃、ヴェルラの眼前に広がったのは、生き物の気配が一切しない、地平線の彼方まで完璧に平坦に続く静謐な平原だった。宙には淡い光を放つ下級精霊たちが、時計の歯車のように不規則に浮遊している。
「ここは……現実世界の裏側、世界の歯車そのものが蠢く『精霊界』よ。神々の許可がある者しか立ち入ることができない領域。ここなら、地上のいかなる権力者もあなたを見つけ出すことはできないわ。あなたの新たな生活の拠点として、使いなさい」
「精霊界……おとぎ話の神話が、本当に……。あそこにある建物は?」
ヴェルラが指し示したのは、平原に鎮座する、セラフィードの本邸を精密に半分サイズで物質固定した複製邸宅だった。
「私の現在の隠れ家よ。部屋は十分に余っているわ、好きに使いなさい」
二人が建物へ向かって歩き出したその時、邸宅の玄関前に、ひとひらの絶対零度の気配が静かに立ち上った。感情のフィルターをすべて削ぎ落とした白磁の女王――精霊神オーロリアがそこに佇んでいた。
「ヴェルラ・ルナシュラウド。千年に一人の天才魔道具技師。君の脳内に宿る独自の創造性は、この世界のアンバランスな停滞を打破する、神々にとっても大いなる希望の光だ。君がこの境界に身を置き、誰にも汚されず道具を作り続けるというなら、私たちはそれを全面的に歓迎しよう」
世界の手探りの歩みを監視する三神にとって、自発的に生まれた稀代の天才の保護は、世界の利に叶う。オーロリアの絶対的な宣言に、さしもの天才技師も「あ、ありがとう……」と戸惑いを隠せない様子だった。
「ヴェルラ、この方はこの世界の責任者の一人、精霊神オーロリア様よ。せっかくだから、あなたの理想とする『最高の作業部屋』を彼女に具現化してもらいなさい」
「えっ?神様に部屋を作らせるの……?」
畏れ多さに身をすくめるヴェルラに対し、オーロリアは淡々と事実を告げた。
「この境界は現実世界の物質を複製・固定できる。君が過去に使用した中で、最も効率的だった工房の構造を脳内に描きなさい。一瞬で再現してやろう」
「あまり気に病む必要はないわ、ヴェルラ。彼女にとっては手品以下の労力よ」
神々の構造複製は、既存の建物を「増築」することはできない規約であるため、アステリアの邸宅の右隣の空き地に、完全に独立した一軒家風の特注工房が瞬時に具現化されることとなった。大気が爆発的に鳴動し、光の粒子が結晶化して完璧な質感の木材と石壁が組み上がっていく様を、ヴェルラはただ呆然と眺めていた。
こうして、誰にも邪魔されない至高の聖域を手に入れた天才魔道具技師ヴェルラと、彼女の技術を独占的に、しかし彼女の自由意志を尊重する形で契約した秘匿冒険者アステリアの、奇妙な共犯関係が精霊界の裏側で静かに結ばれた。




