第10話 婚約白紙そして新たな婚約
ヴィステール領の最果てにある別荘に身を移してから、二十日が過ぎた。
中央の喧騒から隔絶された高台のテラスで、アステリアはリサが淹れてくれたハーブティーをゆっくりと口に含んだ。冬の風が五歳の薄い皮膚を容赦なく引き締めてくる。硝煙に焼かれ、関節の軋む音ばかりがしていた前世の老躯とは違う。この軽い身体が感じる冷気は、奇妙なほどに澄んでいて、心地よかった。
「お嬢様。本邸のロイド様より、親書が届いております」
リサが静かに封書を差し出す。その立ち振る舞いには、無駄が一切なかった。服の下に隠された筋肉の質感、足音を完全に殺した足運び。ただの侍女ではないことを、アステリアは改めて肌で感じ取っていた。
「お父様からの手紙ねえ。……わざわざこの流刑地まで寄越すのだから、中身は一つしか考えられないわ」
爪で蝋印を弾き、羊皮紙を広げる。視線を走らせた瞬間、アステリアの唇の端が、ごくわずかに引きつった。
第一に、第二王子レオハルト殿下との婚約が正式に白紙撤回されたこと。ウドーム症の偽装は、王家に対して完璧に機能した。
第二に――実家が用意した、新たなる「売却先」の通知。
新たな婚約者は、四十歳年上のペドリック・ロンコリ伯爵。若い未成年の女性を異常なほどに好み、既に何人もの幼い妻を囲っていることで裏社会でも悪名高い男だ。実家には、莫大な額の支度金が納められるという。
(王家とのパイプが切れた瞬間、これほど手早く最高値の市場へ横流しするとは。ロイド侯爵、貴族の政治劇としては実に抜け目がない)
秋風廉次郎の魂は、微塵も揺らがなかった。ただ、胸の奥で古い戦場の匂いがした。売られる側の人間が、どれほど簡単に「商品」にされていくかを、彼は嫌というほど知っていた。
「法律上、成人と未成年の正式な婚約は、未成年側が十歳に達していなければ無効。……つまり、あちらがどれほど急かそうと、こちらにはまだ五年の猶予があるということね」
喉の奥で低く呟くと、リサの双眸に隠しきれない不快感が灯った。
「え……!?あの、ペドリック・ロンコリ伯爵ですか?あの変態ロリコ……こほん。失礼いたしました。あまりにも悍ましい本邸の仕打ちに、つい」
「いいのよ、リサ。本音を隠す必要はないわ。実の娘を最高値で競りにかけるなんて、奴隷商人でももう少しマシな取引をするでしょうね」
「お嬢様、落ち着いていらっしゃるのですね。ロンコリ伯爵は金払いの良さだけが取り柄の、中身の腐りきった男です。本邸は完全に、支度金目当てでお嬢様を売り飛ばす気です」
「大丈夫よ。こうなる盤面も、すべて私の想定内。五年もあれば、実家の追跡を完全に撒き、奴らの喉元を圧殺するだけの安全な拠点と軍資金を構築するには十分すぎるわ」
アステリアは指先に、微不可視の魔力を収束させた。
パチ、と小さな火花が爆ぜた瞬間、手の中の親書が内側から紅蓮の炎に包まれ、テラスの風に乗って灰の粒子へと霧散していく。
幼児の姿でありながら、凄惨な未来の通知を前に一片の動揺すら見せない主の器。それを見たリサは、手練れとしての冷徹な落ち着きを取り戻し、深く頭を垂れた。
「そんなことより、リサ。私の大切な侍女であるあなたに、渡しておきたい特別な物があるの」
アステリアは衣服の奥から、虹色に怪しく輝く精霊石が埋め込まれた簡素な銀の指輪を取り出した。自身がはめているものと、全く同じ対の魔道具だ。
「これを、あなたに」
「このような……見たこともないほど美しい石の指輪を、私に……ですか?」
リサの手のひらに指輪が落ちると、彼女はその精緻な魔術文字と、内包された異常な魔力濃度に息を呑んだ。
「とりあえず指にはめなさい。それから、体内の魔術回路を細く通してみて」
リサが言われるがまま指輪をはめ、魔力を微量に過充填させた、その刹那――。
テラスの空間が、内側からピシッとガラスにヒビが入るような音を立てて再収縮した。現実世界の風景が陽炎のようにねじ切れ、燐光を放ちながら静かに渦巻く空間の裂け目が姿を現す。
「これはいったい……空間に、直接裂け目ができているのですか……?」
「この先は『精霊界』へと繋がっているの。中に入りましょう。出迎えの演出としては上等でしょう?」
驚愕するリサをよそに、アステリアは躊躇なくその淡い光の深淵へと一歩を踏み出した。リサもまた、プロの本能で即座に主人の背後を追うようにゲートへ飛び込んだ。
視界が白一色のまばゆい燐光に包まれた後、リサの眼前に広がったのは、地平線の彼方まで完璧に平坦に続く、生き物の気配が一切しない静謐な平原だった。宙には豆電球のような下級精霊たちが不規則に浮遊している。
「ここは……。お嬢様、この異常な魔力飽和空間が、精霊界なのですか」
「そうよ。周りを漂っている発光体が、世界の構成部品である精霊たちね。時計の針と数字が私たちの住んでいる現実世界だとすれば、この精霊界はその裏側で針を動かしている『内部構造・歯車』そのものよ。もし火の精霊がすべて消えれば、現実世界では魔法どころか、雷による火災すら発生しなくなるわ」
「世界の裏側の歯車……。概念としては理解いたしました。ですがお嬢様、私をこの神聖な領域へ連れてこられた真意はどこに?」
「理由は、あの目の前にあるわ」
アステリアが小さな指先で指し示したのは、平原にぽつんと佇む、セラフィードの本邸を精密に半分サイズに複製した二階建ての邸宅だった。建材の質感から窓ガラスの厚みまで、完璧に物質固定された建造物。
「私たちの、精霊界における拠点よ」
リサはその建物の構造を瞬時に見抜き、小さく嘆息した。
「……本邸に似ていますね。今私たちが住んでいる別荘と同等の規模……。ですがお嬢様、この広さを一人で管理するのはさすがに無理がありませんか?」
「だからこそ、あなたに指輪を渡したのよ。今後、現実世界で動きづらくなった際、私とあなたが奴らの追跡から隠れて生きるための、絶対安全な避難所。あなたにもこの指輪で自由に出入りしてもらい、ここの管理や維持を任せたいの」
「なるほど、私の忠誠への信頼、確かに受け取りました。お嬢様の影として、この拠点の守護、謹んでお引き受けいたします」
「助かるわ。ちなみに、帰る時も指輪に魔力を流せば戻れるけれど、ゲートを入ってきた現実世界の座標にしか開けない制約があるわ。三神は人間が努力を怠るのを嫌って、便利すぎる移動の力にはかなり厳しい制限をかけているらしいからね」
アステリアは、拠点の右後方に冷たくそびえ立つ大理石の神殿を見つめた。
「あと、その指輪はあそこの神殿にいる、この世界の責任者――精霊神オーロリアから直接貰ってきた物だから、後で挨拶に行っておきなさい」
「精霊神……おとぎ話の神話が、現実に。お嬢様は、本当に底が知れませんね」
リサは処理しきれない情報の濁流に苦笑しつつも、主人の底知れぬ知略に、改めて武者震いのような高揚を覚えていた。
「さて、現実世界の行動に戻りましょうか。リサ、私はこれからマイヤーの街へ行ってくるわ。今夜は少し遅くなるから、晩御飯はいらないわよ」
「……これほどの環境を手に入れながら、まだ冒険者ギルドの活動をなさるのですか?」
アステリアは精霊界のゲートを現実世界へと開きながら、フードを深く被り、その可憐な唇の端をドロリとした達人の笑みへと歪めた。かつて戦場で新たな作戦空域を見出した時のように、冷徹な悦楽がその瞳に宿る。
「いいえ、今夜の行動はギルドの依頼じゃないわ。……ちょっと、質の悪い魚を『釣り』に行ってくるのよ」
そう言い残し、アステリアはゲートを潜り、夜闇に包まれた別荘のテラスへと姿を消した。そのまま彼女は、マイヤーの街道へと滑るように消えていった。




