第8話「死人の部屋に、誰かがいた」
社務所に着いたとき、明かりは消えていた。
引き戸の前で立ち止まる。鍵がかかっていない。開けると、人はいない。ただ——文机の引き出しが、一つだけ開いていた。
縁はスマートフォンのライトを当てた。
引き出しの中が、乱れている。本来そこにあったはずの何かが、なくなっていた。他の書類の置かれ方、空いた空間の形から——日記帳が入っていたような隙間。数冊分。
縁はその空白を見た。誰かが今夜、ここに来た。
翌朝、縁は咲を捕まえた。祭りの準備で動き回っている咲を、境内の端に連れていった。
「昨夜、社務所に明かりが点いていました。確認したら消えていて、部屋の中が——引き出しが開いていた。お祖父さんの日記が、なくなっているかもしれません」
咲は動かなかった。
動かない、というのが正確だった。縁の言葉を聞きながら、何かが固まっていくような止まり方だった。声が出るまで、少し時間がかかった。
「……昨夜、誰かがここに入ったということですか」
「鍵はかかっていませんでした」
咲は境内の石畳を見た。「百年祭の最中に」とだけ言った。祭り衣装の袖を、気づかないうちに両手で握っていた。縁は何も言わなかった。
「警察に——」
咲が顔を上げた。その目が揺れていた。
「言うべきですか」
縁は少し間を置いた。
「お祖父さんの死を、転落事故と処理したのも同じ警察です」
咲の目が止まった。縁は続けた。
「もし今動かれたら——日記の中身より先に、日記がなくなったという事実だけが処理されて終わるかもしれない」
咲はしばらく黙っていた。祭り衣装の袖を、まだ握っていた。それから、小さく頷いた。
「まず、高原さんのことを教えてください」
咲はしばらく黙ってから、頷いた。
「今年に入ってから。守が『同じことを調べている研究者がいる』と話していました。資料の貸し借りもしていたようで——」
同じこと——棟札か。行方不明者リストか。
「日記は誰にも見せない人でした」
咲が静かに言った。
「祖父は。それが今——」
続かなかった。続ける必要もなかった。
その日の午後、高原が封筒を持ってきた。
「守さんから借りていた資料がありまして。返す機会がないままになってしまって、本当に申し訳ない。咲さんにお返しするべきなんですが、今はお祭りで手が離せないようで——同じ研究畑の方の方が、内容もわかっていただけるかと思いまして」
「わかりました、お預かりします」
縁は封筒を受け取った。高原が頭を下げ、去っていく。
(なぜ遺族ではなく私に)
縁は封筒を持ったまま、その背中を見た。守の資料を返すなら、受け取るべきは咲のはずだ。「同じ研究畑」という言い訳は一見もっともらしいが——フリーライターと民俗学研究者を「同じ研究畑」と括る感覚も、よく考えれば妙だった。
咲に渡せば、封筒の中身を自分が確認できなくなる。それを避けたかったのか。
あるいは、この封筒を縁に見せることが——最初から目的だったのか。昨夜の守の部屋。消えていた明かり。乱れた引き出し。
封筒の口が、開いている。端が少し折れている——新しい折れ方ではなかった。一度開けて、また閉じた跡だった。
中身を出す。コピーが数枚。古い神社の記録、地形図のようなもの。縁は一枚ずつ確認した。最後の一枚。
手書きの書き込みがある。守のものではない、別の筆跡で書かれた名前だった。
「桐谷隆・民俗学研究者——比奈木の件、要調査」
縁はその名前を見た。
見知らぬ名前だった。しかし守がこの名前を知っていて、高原はこの封筒を「返しに来た」。
——高原は、この書き込みを見ていないのか。
縁はそこで立ち止まった。
封筒の口は開いていた。一度開けた跡がある。守の日記は持ち去った。なのに、この「桐谷」の名前が書かれた資料は残した。
見落としか。それとも——意図的か。
もし高原が桐谷という人物を知っていて、縁もその名前を知っているかどうか試したいなら、この封筒を渡すことは合理的な行動になる。縁の反応を見る。名前に動揺するか、素通りするか。
(高原は私を調べているのかもしれない)
縁は封筒を閉じ、自分の荷物の奥に入れた。高原にはまだ、この封筒を受け取った直後の自分の顔を見せていない。次に会うとき、何も知らない顔をするか、知っている顔をするか——どちらが正解かは、まだわからなかった。




