第4話「村長は笑顔で嘘をつく」
巌を訪ねたのは翌朝だった。
村長の家は神社の北、集落の中では最も大きな造りの古民家だった。玄関を開けると、巌はすでに縁を待っていたように居間にいた。——あるいは、本当に待っていたのかもしれない。
「どうぞ、お上がりください」
お茶が出た。縁は行方不明者リストを持参していたが、すぐには出さなかった。
「守さんのことを少し聞かせてください。百年祭の準備はどのくらい進んでいたんでしょうか」
「守さんはよく準備していましたよ」
巌は茶碗を両手で持った。
「あの方は几帳面な人でしたから。今年はとくに、熱心に資料を集めていたようで」
「資料というのは」
「神社の由来とか、祭礼の手順とか——まあ、宮司としての仕事ですね」
「守さんが亡くなった前日、何か気になったことはありましたか」
「いいえ、特には」
即答だった。間がなかった。
縁はお茶を一口飲んでから、折りたたんだ和紙をテーブルに置いた。
「公民館の資料の中に、これが挟まっていました。百年前の行方不明者リストのようです」
巌は紙を見た。手は伸ばさなかった。
「ああ」
また笑顔だった。
「古い話ですね。私もこれは知っていますが、詳細はわからないんですよ。当時の記録が少ないもので」
「森田ひな、という名前が気になりました」
「そうですか」
「棟札の塗りつぶしを調べていまして。下に『比奈木大神』という字が透けて見えます。ひな、という音に——」
「宮乃木さん」
巌が、名前を呼んだ。声の温度は変わっていない。ただ、速さが変わった。
「民俗学の方が見ると、何でも繋げて考えたくなるのはわかります。ただ、地方の神社の棟札というのはいい加減なものでして。記録の誤りや、読み違いも多い。本当のことを知りたいのでしたら、由緒書きをご覧になるのが一番ですよ」
縁はその笑顔を見た。
崩れていない。ただ、言葉の選び方が変わった——「棟札は古いものが多くて」と話題を補足し、「由緒書きをご覧に」と別の方向を示し、「私の知っている範囲で」と誠実さを演出する。
どれも正論だった。反論できない正論を積み上げて、縁の言葉の続きを塞いだ。
笑顔は一度も崩れなかった。
村長の家を出ると、軽自動車が一台、道端に停まっていた。初めて見る車だった。
「こんにちは」
助手席の窓が開き、男が顔を出した。四十代半ば、丸眼鏡、ベージュのフィールドジャケット。何冊かのフィールドノートを膝に抱えていた。
「高原浩二といいます。民俗学の研究者です。百年祭の調査に来ました」
縁は会釈した。
「宮乃木縁です。フリーライターで」
「ライターさん」
高原は眼鏡を押し上げた。
「記事にされるんですか」
「まあ、そのつもりで。高原さんはどちらからですか」
「都内の研究所です。ちょっとした調査で」
「どんな調査ですか」
「地方神社の変遷についての研究です。まあ、学術的な話で」
言葉が短く切られた。縁は少し間を置いた。
「比奈木神社が目的ですか」
「ええ、まあ」
高原は眼鏡を押し上げた。
「各地で祭神が書き替えられている事例を調べていまして。比奈木はその……候補の一つです」
祭神が書き替えられた神社。
縁は内心で、その言葉の含みを繰り返した。
「以前にも来たことがありますか」
高原の動きが、わずかに止まった。それから、自然な笑顔で答えた。
「いえ、初めてです。資料で調べていただけで」
縁は「そうですか」と返した。
高原が車を降り、荷物を整えている間、縁は守の崖の方角を見た。昨日よりも風が強く、木々が揺れている。
——「以前にも調査したことがある」という言葉が、あとから来る予感がした。
まだ来ていないだけで。
その日の夜、縁は宿の机でノートを開いた。
わかっていること。棟札の塗りつぶし。行方不明者リスト。「森田ひな」という名前と「比奈木大神」という音の一致。守の死に巌が持つ微妙なズレ。高原という新たな研究者の到着。
わからないこと。守は何を調べていたか。百年前に何が起きたか。巌は何を守っているか。
縁はペンの尻で、「森田ひな」の名前を軽く叩いた。
この名前が、全ての入口になる気がする。
直感だった——また、直感だった。
縁はその予感を打ち消さなかった。ただメモに書いた。今度はすぐに次の行に移った。




