第23話「咲は、残ることを選んだ」
三日後、巌と孝之は任意同行のために県の警察署に向かった。
村は静かだった。騒がしくなかった。祭りが終わった後のような、それよりもさらに一段深い静けさが、比奈木村の朝に横たわっていた。
縁が宿で荷物をまとめていると、蒼が来た。
「少し話せますか」
縁は荷物から手を離した。蒼は部屋に入らず、廊下に立ったままだった。
「ここに残ることにしました」
縁は驚かなかった。驚かなかった自分に、少し驚いた。
「農業は続ける。それとは別に——ひなのことを、ここで覚えていたい。誰かが覚えていないと」
「証人として」
と縁は言った。
「そういうことです」
蒼は続けた。
「桐谷さんの資料を引き継いで整理しようと思っています。いずれ、きちんとした形で残せれば」
縁は考えた。蒼がここで調査を続けた日々を。古文書の写しを持ってきた朝を。崖で縁の腕をつかんだ時の力を。ひなという名前を初めて文書で確認した時、声が震えていたことを。
「わかりました」
と縁は言った。
「蒼さんに任せます」
その午後、咲が神社の掃除をしていた。焼けた物置の残材を片付け、境内の落ち葉を掃いていた。
縁が手伝おうとすると、咲は「いいです」と言ってから「でも、少し話しませんか」と言い直した。
二人で石段に座った。
咲はしばらく何も言わなかった。手の中の落ち葉を見ていた。
「三倉さんたちのことは——」
声が、そこで途切れた。
続かなかった。咲は顔を上げなかった。手が、膝の上でかすかに握られた。
縁は口を開かなかった。
しばらくして、咲が息を吸った。
「今はまだ許せません」
と咲は言った。
「でも——」
また止まった。「でも」の先を言わなかった。言えなかったのか、言う必要がないと思ったのか、縁には分からなかった。
「神主を続けます」と咲は言った。声は落ち着いていた。さっきまでと同じ声だった。
「百年祭はもう終わりましたが、この神社はなくなるわけではない。お祖父さんが途中だったことを、私が引き継ぎます」
「祝詞を完成させる」
「はい。お祖父さんが調べていたことの続きも含めて」
守は何かを探していた。ひなの真実だけではなく、本来の信仰の形を。その調査を咲が引き継ぐということだった。
「縁さんは」
と咲が聞いた。
「出ます。明日の朝には」
「そうですか」
咲は石段の下を見ていた。
「縁さんがいなければ、私は今もお祖父さんの死が事故だと思っていた。ここで何が起きたのか、知らないままだった」
「守さんが調べていたことが、もともとそこに全部ありました。私はそれを見つけただけです」
「そういう話をしているんじゃないです」
と咲は言った。
縁は何も言わなかった。
宿への帰り道、高原が駐車場に荷物を積んでいた。
縁が近づくと、高原は振り返らずに言った。
「見ていましたよ。なかなかの仕事でした」
「感想は要りません」
「そうですか」
高原はトランクを閉めた。
「村長が自首した以上、私の研究対象としての価値は変わりました。今のところ、発表できる形の資料が揃いません」
「揃えられなかったんです」
高原は縁を見た。少し目を細めて、それから小さく笑った。笑い方が、縁の知っている高原ではなかった。
「桐谷先輩は、あなたにこれを頼んだかったんでしょうね」
縁は何も言わなかった。
「私にはできなかった。先輩の資料を使って、自分の研究を続けることを選んだ。それだけです」
高原は運転席に乗り込んだ。窓を開けなかった。エンジンがかかった。車が出た。
縁はしばらく駐車場に立っていた。
夕方、宿への帰り道に正子を見かけた。
神社の境内ではなく、その手前の坂の上に立っていた。巌が警察署に向かってから、正子はこの村のどこかに一人でいる。縁が目で確認した限り、誰も正子の傍に近寄っていなかった。
縁が近づくと、正子はすぐに縁に気づいた。
「帰るんですか」
「明日の朝に」
正子は少し黙った。それから袂から小さなものを出した。木の塊だった。丸みを帯びた、おもちゃのような形。地下の供物の中にあったものと、同じ形だった。
「これは」
「私が作ったわけじゃないです。ただ、ずっと持っていました」
正子は縁の手に置いた。
「持っていってください。あちらには、もう一つあるから」
縁は木の塊を見た。軽かった。長い時間、誰かの手に握られていたように、角が丸くなっていた。
「ありがとうございます」
正子はうなずいた。それだけだった。
宿に戻り、縁は荷物の中に木の塊をしまった。
ノートを取り出した。最後のページを開いた。
書くことは何もなかった。書かなかった。
ただ閉じた。




