第21話「百年分の嘘が、一つの名前で崩れた」
扉が開いた。
三倉巌は、縁の顔を見た。驚いた様子はなかった。待っていたのかもしれない、と縁は思った。あるいは、疲れ果てて驚く力も残っていなかっただけかもしれない。
「入りますか」
笑顔はなかった。
居間に通された。正子の姿はなかった。
茶を出す動作もなかった。巌は縁の向かいに座り、両手をテーブルの上に置いた。指が一度だけ動いて、止まった。
縁は鞄を膝の上に置いたまま言った。
「守さんから聞いたのではありません。桐谷先生が残した記録に書いてあった」
巌の目が、わずかに細くなった。
「先生は守さんから直接聞いていた。守さんが先生に話した内容が、先生の手書きのメモに残っていました。——去年の冬に、あなたと守さんが神社の裏手で交わした約束のことが」
巌は何も言わなかった。
「守さんは真実を公表しようとした。あなたはそれを止めようとした。二人は合意した——守さんは百年祭が終わるまで黙る。その代わり、あなたは自分の後継者にひなの本当のことを伝える。それが約束の内容だった」
長い沈黙があった。
巌はテーブルの木目を見ていた。縁を見ていなかった。
「……その通りです」
声は低く、穏やかだった。感情がなかった。ただ、事実を確認するような声だった。
そこから、巌は話し始めた。
止める必要がなかった。巌はもう止める気がなかった。
孝之は今年の百年祭、父が知らせる前に自分で村に戻ってきていた。守が祭りの場で真実を話すつもりだという噂を、どこかで聞いたのだと巌は思っていた。ルートはわからない。——高原から、あるいは高原に近い誰かから流れたのかもしれない。
守が百年祭前夜に誰かと言い争っていたという話があった。縁は覚えていた。蒼の最初の証言だ。
「孝之は、私に何も言わなかった」
巌の声が、ここだけわずかに変わった。
「祭りの前夜——守さんと孝之が、崖の手前で口論になったと、後から孝之に聞きました。守さんはその場で真実を話すと言い張った。もう止められない、と」
縁は動かなかった。
「二人は揉み合いになった。孝之は止めようとしただけだ、と言っていた。守さんが足を滑らせた。孝之は動けなかった——声を出せなかった、と」
「見殺しにした」
「そう呼ぶことになります」
巌は目を閉じた。しばらく動かなかった。
縁は何も言わなかった。
(孝之は、引き止める手が届いた。それを言わなかった)
(巌は、それを知っていながら孝之をかばっていた)
「あなたが神社で言っていたことを聞きました」
と縁は言った。
「孝之は関係ない、と」
「あの子は間違った。しかし間違った理由は——私です。私がこの村に百年分の嘘を積み重ねてきた。孝之はそれを守ろうとしただけだ」
高原のことを縁が尋ねると、巌は疲れたように答えた。
高原は桐谷の調査資料の一部を持っていた。それを使って、自分の研究へのアクセスと村の協力を求めてきた。金銭ではない。「公表を保留する代わりに研究を続けさせろ」という取引だった。
「断れましたか」
「断れなかった。断れる状況ではなかった」
桐谷本人については、巌は知らなかった。桐谷がこの村にいたことは知っていたが、どこへ消えたかは知らない。ただ、桐谷が自分の意思でいなくなったのだろうという感触は持っていた。
「あの人は、自分が危険な場所にいることを知っていたと思う。逃げる判断ができる人間だった」
縁は桐谷のメモを思った。『あとは頼む』——判断して、動いて、託して消えた。
それだけは、確かだった。
「正子さんは」
と縁は聞いた。
巌は少し間を置いた。
「……知っていたと思います。何も言わなかったが」
「地下の供物は、正子さんが」
「妻の祖母の代から、と聞いています。妻は引き継いだのだと思う。何も言わずに」
罪を隠す側にいながら、秘かに悼み続けた人間がいた——縁が地下で感じていたことが、ここで確かめられた。正子は何十年も、誰にも言わずに続けていた。
縁は立ち上がった。
「県警本部に連絡します。村の駐在ではなく」
「はい」
巌は動かなかった。
「息子は悪くない」
と巌は言った。
縁が扉に向かいかけた時だった。
「私が間違えた。百年分の間違いを、私が終わらせるべきだった。守さんが動き始めた時に——あの時、私が一緒に動いていれば」
縁は振り返らなかった。
扉を閉めた。
夜の比奈木村に出た。空が低かった。




