第14話「誰かが部屋に入った——そして、縁は半分だけ思い出す」
宿に戻ると、部屋のものが動いていた。
引き出しが数センチ開いている。
荷物の位置が変わっている。
調査ノートを確認すると、一冊が欠けていた——崖の足跡の記録と、行方不明者リストの写しを挟んでいたものだ。デジタルカメラのメモリカードも、ポーチの中にあったはずがない。
縁は部屋を見回した。乱暴に荒らした跡ではない。丁寧に、確認するように、必要なものだけを取っていった。
(わかっている。私が何を持っているか)
廊下に出た。宿の主人に「昼の間に誰か来ましたか」と聞いた。「私は農作業で出ていて……」という返事だった。
階段を上がったところで、高原と鉢合わせた。
高原は立ち止まった。縁も立ち止まった。
「少し聞いていいですか」
高原が言った。
「どうぞ」
高原は廊下の端に目を向けた。誰もいない。
「あなたは——桐谷の研究室に、いたことがありますか」
縁の体が止まった。
一秒か、二秒か。廊下の窓から夕陽が差していた。縁は高原の目を見た。高原は縁の目を見ていた。
「……昔の話です」
それだけ言った。四文字。それ以上は出てこなかった。
高原はしばらく縁を見ていた。それから言った。
「彼は今もどこかで生きているかもしれない。私はそう思っています」
それだけだった。高原は頭を下げ、自室のドアを開け、閉めた。
縁は自分の部屋に戻った。鍵をかけた。
窓の外、百年祭の後片付けが続いている。提灯が一つずつ外されている。
(昔の話、と言った)
三年前のことを、縁はあまり考えないようにしていた。
研究室のことは覚えている。桐谷隆の研究室は、地方の大学の古い建物の三階にあった。窓から山が見えた。資料が山積みで、縁が整理を手伝っていた。
桐谷の声は覚えている。低く、早口で、論文の話をする時だけ早くなった。
「この研究は、誰かに知られるとまずい」と言った日のことも、覚えている。
それから——
こめかみが痛んだ。
縁は目を開けた。いつも、ここで体が止まる。思い出そうとすると、決まってこめかみの奥に鈍い痛みが走り、目の前が薄く白くなる。それ以上はいけない、という体の信号を、縁は三年間、黙って受け取り続けてきた。
荷物の欠けた部分を確認した。足跡の記録がない。行方不明者リストの写しがない。
(誰かが、私がここで何を調べているか知っている。そして、桐谷の研究室に私がいたことも、知っている)
荒らされた部屋の意味が変わった。
情報収集ではない——確認だ。縁が何者かを、確かめに来た。
縁はドアの鍵を確認した。施錠されている。もう一度確認した。
(崖の足跡の記録が、消えた)
守が死んだ崖に第三者がいたという物証を、縁が持っていることが知られた。今日、それが消えた。守はその崖で死んだ。縁はその崖で落ちかけた。
(次は——)
思考を止めようとした。止められなかった。
証拠を持っていた守が死んだなら、証拠を持っている自分が狙われないという保証はない。
縁はスマートフォンを確認した。崖の写真はメモリカードに保存していた。バックアップは——取っていない。物証は全て消えた。
(それでも、続ける)
資料が消えたなら、もう一度集めればいい。足跡は記録から消えたが、崖の土はまだそこにある——
そこで考えが止まった。
(崖に戻る、か)
犯人は縁が崖を調べていることを知って証拠を盗んだ。ならば、縁が崖に戻ることも想定している。一度落ちかけた場所に、一人で、しかも今度は「監視されているとわかった状態で」戻るのは悪手だ。
一人では駄目だ。蒼に同行を頼む。あるいは人目のない時間に動く——夜か、早朝か。動くタイミングを読まれないように。
縁はカーテンを引いた。




