第10話「捨てられた神の、本当の名前」
蒼が持参したのは、コピーされた古い地誌の一部だった。
「昨夜頼んでいた件ですが。郡の図書館に問い合わせたら、比奈木に関する地誌の写しが所蔵されていて、今朝ファックスで送ってもらいました」
縁が電話した翌朝、これほど早く動いてくれるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
縁は受け取り、宿の食堂の隅で広げた。蒼が向かいに座る。
崩れた毛筆の文字、縦書き。年代は判読できなかったが、明治よりは前のようだった。
比奈木村土地神記——土地を守る神、ひな、の由来について——
縁は息を整えて読んだ。
記述の内容は、こうだった。
比奈木の土地神は「ひな」と呼ばれ、山の奥から来た者によって定められたという。ひなは土地の境を守り、よそ者を見定め、害をなす者を山に還す——と書かれている。
「神様の性質として、よその人間に厳しい土地神というのは珍しくない」
縁は言った。
「でも——」
祭礼の部分を指で示した。
「この儀式の記述を見てください。ひなを祀るための儀式が、ここに書かれています。でも、その構成要素が——神を迎えるものではない」
蒼が身を乗り出した。
「……封じる、ですか」
「鎮送りに使われる構成です。怨霊や祟り神を封じる儀式の様式に近い。祀るのではなく、閉じ込める」
沈黙があった。
百年祭の原型が、これだとしたら。村が百年に一度繰り返してきたのは、神を迎える祝いではなく——封印の更新だったことになる。
「ひなという神が、最初から神として存在していたとは限らない」
縁は言った。
「封じられたということは——封じる前に、何かがあった」
蒼が声を出した。静かで、だが揺れていた。
「神として祀られる前に、彼女は捨てられた——ということですよね」
縁は答えなかった。答えの代わりに、地誌の別の箇所を開いた。
別の頁に、短い記述があった。
比奈木の地名の由来——「ひなの木」と呼ばれた大木がかつてあり、そこに「ひな」を封じたという言伝えがある——
縁は行方不明者リストを出した。
リストの中に、名前がある。「森田ひな」。年齢の記載はなく、明治末期に「消えた者」として記録されている。
「人間の名前です」
縁は言った。
「神の名前ではない」
蒼は黙っていた。
長い沈黙だった。縁も何も言わなかった。食堂の窓から、祭りの囃子が遠くに聞こえた。
(神として封じられる前に、彼女は人間だった。名前があった。どこかで生きていた)
縁は地誌の最後の頁をめくった。短い付記があった。
——よそより来たりし者の住みし場所、集落外れの山道沿いに旧宅地の跡あり——
縁はその一行を指した。
「この場所に心当たりはありますか。集落外れの山道沿い」
蒼はしばらく考えた。
「……ある、かもしれません。農作業でその辺りを通ることがあって。古い家の跡のようなものが」
「見せてもらえますか」




