二十二、箱舟とネズミ①
二十二、箱舟とネズミ
乙姫がノアの事を心から愛していたと分かった時には、既に乙姫がそのすべてを忘れてしまった事を知って、ノアは打ちひしがれた。
ノアは箱舟が爆発する直前の、あの中での出来事を思い出していた。
『全部お前たちのせいだ!こうなったら全部ぶっ壊してやる。箱舟も、お前達も!』
半ば半狂乱になったマックスは、まず目の前にいたイーサンに向かって発砲した。しかし、半ば床に横になったような不安定な体制で撃ったために弾はイーサンには当たらず、彼の目の前のパネルに当たった。
体勢が悪いと判断したマックスは今度はきちんと床に座りなおし、今度は乙姫に銃口を向けた。
私は無我夢中で乙姫に飛びつき、盾となった。マックスは二発発射したが、そのうちの一発が私に当たった。既に海の中で一発撃たれていたが、あの時とは違う痛みだった。
薄れていく意識の中で、男たちが一斉にマックスに飛び掛かっていくのが見えた。体に力が入らず、乙姫が無事か確認することは出来なかったが、乙姫の叫び声だけは、はっきりと聞こえていた。
「やだ!死なないで!ノア!ねえ、答えてよ!ノア!」
私の意識はそこでなくなり、目覚めたのは西の王国の病院だった。箱舟が治療してくれたという。あれは兵器ではなく、病院なんだと後に父上から聞かされた。あの時は自分の事より乙姫を助けたかった。彼女を助ける事しか考えていなかった。自分のことなどみじんも心配していなかった。
その後の箱舟爆発までの顛末を聞いて、私は自分の愚かさに呆れかえった。守られたのは、私の方だったのだ。
乙姫が無事であると聞いた時は、心底ほっとした。
しかし…。
何処で間違えたのだろうか?どうすればよかったのだろうか?かつての私は、乙姫の事を愛していると思っていた。しかし以前自分は乙姫にこう言っていたのだ。
『私はあなたという人を諦めたのです』
結婚を先に諦めたのは実は私の方だったのだ。結婚を諦めてから私は、彼女を自分の政治的な立場を確立するための友人と捉えていたのだ。しかし彼女は違っていた。特別な秘密を私一人に打ち明けて、一番の信頼を私に寄せていたのだ。そう、彼女はずっと私にサインを送っていたのだ。
『私はあなたという人を諦めたのです』
愚かだった。あの時私の言葉を聞いて乙姫は何と思っただろうか?それでも乙姫は私という人間を諦めなかった。私の愛などより、彼女から私に対する愛の方がはるかに大きく尊かった。乙姫は自分の命よりも、この私の事が大切だと身をもって示したのだ。
私はあんなに大好きだった女性の心すら踏みにじった。その事実が悔やまれてならない。
私はあの女性をいつから好きになったのだろうか。たぶんずっと前からなのだろうなと思う。あの人はいつも真っすぐだった。それが眩しくて、羨ましかった。私も真っ直ぐに進めばよかったのだ。最初からそうすればよかったのだ。思った通りに、結果など気にせず、自分の中に感じた気持ちを信じて。
それが、生きるという事じゃないのか。
ノアは一人自室で考え続けた。これからどうすれば彼女が報われるのか。ノアはひたすら部屋で思いを巡らせていた。乙姫と結婚などとんでもない。そんな資格はもうない。だが最後に何か、せめて最後に何か彼女にしてあげたい。そうでなければ自分はもう生きる価値すらない人間だ。
その日もノアはほとんど自室から出ずにいて、野良猫のように部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。そうこうするうちに日が暮れていく。もうずっとこんな感じだった。深夜になっても全く眠気がやってこないノアは、窓から外を見ながら箱舟の事を思い出していた。
思えばあれの排除を最初に言いだしたのは乙姫だった。計画を聞いた時は愕然としたが、その時の気分は高揚していたように思う。それまで大した事を成し遂げられなかった人間が、ある時ふと大きな計画に参加することで、まるで自分が大きな人間になったような気がする、そんなつまらない高揚感だった。そこには確かに乙姫に対する思慮などはなかった。あの時の私は世界の中心に自分を置いていた。それはそうだろう。自分は大したことのない人間なのだから。
これまでの様々な出来事の中で、思いがけず父の腹の据わった男気を見た。私の父はこんなにすごい人だったのかと思った。かっこよかった。それに引き換え自分はと言うと、情けないにも程がある。
(頼りない王子と皆に思われているのだろうな…)
そんな事を考えてフッと笑う。
だらだらと部屋で自分をけなしていても仕方がない。久しぶりに箱舟を見に行ってみよう。ふとそう思ってノアはふらりと部屋を出た。
廊下を歩いていると城内を見回りしていた警備員がぎょっとして駆け寄ってくる。
「こんばんは、ノア王子。こんな時間にお出かけですか?」
警備員の問いかけに青白い顔のノアが、か細い声で答える。
「ああ、ちょっと出てくるけどすぐに戻ります…」
「分かりました。すぐにお付きの者をお呼びしますのでしばらくお待ちください」
そう言って警備員がその場を急ぎ離れたが、ノアは彼が戻るのを待たずに城を出た。もとより一人で行くつもりだったのだ。
その辺りに繋がれていた馬に乗ると、なるべく足音を立てないようそっと城の門へと向かう。守衛に目配せすると、彼は黙って門を開けてくれた。昔から知っている男だ。口数は少ないが、彼はノアの気持ちをいつも汲んでくれる。自分の気持ちを理解してくれる人間というのは、時として思ってもみないような所にいるものだ。門を出て馬から見上げる星空はどこまでも美しい。こんな風に苦しんでいても美しいものは美しいと感じることが出来る自分に、少しは救いを感じた。壊れてしまったような自分にも、まだ少しは人の心が残っている証拠だ。今のうちに何とかしないとな。そんな事を考えながら馬を箱舟に向けた。
パカパカと鳴る馬の蹄の音だけが夜の森に響く。あの時の喧騒がまるで何年も前の事のように感じられた。暫く馬に揺られていると王国との国境が見えてきた。特に壁というほどの物もない。そうなのだ、もともと壁などないのだ。『壁がある』と、そう思い込んでいただけだったのだ。
国境を越えて細い道を馬で進むと、遠くの方に箱舟のシルエットが浮かび上がってきた。今箱舟は王国の軌道に再び乗せられて、解体作業のはずなのだが、扉が開かないばかりかドライバー一本入る隙間も見つからず、作業は一向に進んでいないと誰かが話していた。今は深夜で作業はしておらず、安全のための明かりがうっすらと点いているだけで誰もいないはずだ。
近くまで来ると手近な木に馬を繋いで、そこから箱舟を見上げる。こうして改めて見るとやはり大きい。よく見るとサイドにあるステップの下のランプが小さく点灯している。箱舟がいまだ生きていると言われる所以だ。何か具体的な目的があってここに来たわけではなかった。ただ、何かせずにはいられなかった。これからすべきことのヒントを求めてゆっくりと箱舟の周りを歩いてみようかと思った時、突然ノアは人の気配を感じた。
(誰だ?)
咄嗟に身を低くして、周囲をうかがう。目を凝らして慎重に前方を見た。大きな体格。男だな。そう思いながら様子をうかがった。しかも向こうは一人ではない。何か会話する声も聞こえた。
(複数か…分が悪いな)
そう思いながら様子を見る。箱舟の件はもうすっかり収まったと思っていたが、まだこうして何かを企んでいる者がいるのだと知って、ノアは苛立ちを感じた。
以前のノアならこういう場面では慌てふためいていたが、ここ数日の経験で危険に身を置くことには多少なりとも耐性が付いていた。
(こんな時間に何をしている?)
そう思いながらじりじりと近寄っていくと、そこに見覚えのある顔が浮かんだ。
「グランデレ王…」
そう呼ばれて影の男が驚いて顔を上げる。ノアが近付いて顔を見せると、ふっとグランデレ王の顔から緊張が解ける。
「ノアか」
「こんなところで何をなさっているんですか?」
グランデレが力なく笑う。
「それはお互い様だろう」
「そうですね…」
そこまで言ってノアがグランデレ王の近くまで行くと、彼の足元に動物たちが集まっている事に気が付いた。グランデレが動物たちを見ながらノアに説明する。
「私より先にここに来ていたんだ」
ウミガメのヒシがいた。
「こんばんは」
「なんだ、ヒシじゃないか。どうしたんだい?」
「私、お城に戻ってからみなに箱舟の中での事を話したんです。そうしたらそこにいた渡り鳥のミゲルが、自分たちに出来る事がまだ何かあるんじゃないかって言いだしたんです。何が出来るかはまだ分からないんですけど、行けば何か気が付くことがあるかもしれないって話して、ここに来ることにしたんです」
ノアが見渡すと、今まで薄暗がりで気が付かなかったが、すぐそばの倒木の上から渡り鳥が二羽、こちらを向いている。更にヒシの背中にはネズミまで乗っている。ネズミはノアと目が合うと頭をぴょこんと下げた。
「ありがたい事だ」
そうグランデレが呟く。ノアも同感だった。そうだ、まだ何か出来る事があるはずだ。一人で考えて思い浮かばないのなら、皆で考えればいい。当たり前のことだ。
「で、どうだい?何か気が付いたことがあったかい?」
ノアが期待を込めて尋ねる。
「ミゲルが空を飛んで上から見てくれたのですが、上にある主砲の台座の横に少し隙間があるそうなんです。そこに…」
そう言ってネズミを見る。ネズミが答える。
「私が潜り込めないかっていう話になったのです。あ、ご挨拶が遅くなってすみません。お城に住んでいるネズミのロッテです。ソフィア様には一度だけお城でお会いしたことがあります」
そう言ってぱちぱちとまばたきをする。
「よろしくね、ロッテ。中に入るって、危なくはないのかい?」
「それを今話し合っていました。王様は危険かもしれないから無理はしないほうがいいとと仰ってくださいましたが、今のままでは何も進展しませんし、まずはちょっとだけ中に入って様子を見てこようかと思うんです」
グランデレを見ると、彼が黙って頷いた。
「確かに危ないが、中の様子を見てきて欲しいというのが率直な気持ちだよ。動物なら箱舟もむやみに危害を加えることもないだろう」
「私もそう思います」とヒシが言う。
ノアがロッテに頭を下げる。
「危険かもしれないが、中の様子を見てきてくれないか?」
ロッテが鼻をひくひくさせながら答える。
「はい、もちろんです!」
そう言ったかと思うと、身軽に箱舟の周囲の溝を器用に伝ってロッテが上まで登っていった。ヒシが渡り鳥のミゲルに声をかける。
「ミゲル、ちょっと上まで飛んで見に行ってくれる?」
「オーケイ!」
そう言うとミゲルが羽を広げて屋根に向かって舞い上がる。ミゲルが箱舟の屋根に乗ったころ、ロッテは既に中に入り込んでいた。ミゲルがロッテに声をかける。
「どうだ?何か見えるか?」
「えーっと、ちょっと待ってください…。あれ…?」
「どうした?」
「ひゃっ…うぐぐ…」
かすかにロッテのうめき声がする。
「どうした!」
かすかなうめき声のような音は中からするのだが、返事がない。
「おい!ロッテ!返事をしろ!」
しばらく待ったがミゲルの呼びかけには相変わらず返事がない。とっさにミゲルが下にいるグランデレ達に声をかける。
「何かまずい事になったようですっ!」
下にいたグランデレ達はすぐさま立ち上がってミゲルを見上げる。グランデレとノアがドアに駆け寄り、ドアに耳を当てて中の様子を伺おうとするが、もとよりそんな薄っぺらな扉ではない。中の音は聞こえず、皆息を殺して事の成り行きを見守るしかなかった。
どれほどの時間そうしていただろうか。突然するするとドアが開いた。中を覗き込むと真っ暗であった。
「ロッテ?無事か?」
そうグランデレが箱舟の中に声をかけた時だった。
ヒュイーン!
低い機械音と共に、突然真っ暗だった室内に様々なランプが付き、眩しいほど明るくなった。それまでぼそぼそと小さな声で話していたような静かな世界が一変し、まるで昼間のような明るさが箱舟の室内から周囲を照らし出した。
「うわっ!なんだ!」
皆慌てて箱舟から目をそらし、グランデレは一旦箱舟から降りてしまった。その時、一瞬目がくらんだ皆の足元から小さな影が飛び出して、城に向かって走り去っていったが誰も気が付かなかった。
箱舟の室内では人工知能が再起動を開始した。やはり箱舟は死んでいなかったのだ。
「ロッテ!ロッテ!」
ノアは名前を呼び続けたが、既にロッテの姿はどこにもなかった。
「いないんですか?」
そう問いかけるヒシに誰も答える者がいなかった。
その時、ガタンと大きな音がして、箱舟の動力にエネルギーが伝わるのが分かった。車体が軽く揺れる。
「動くぞ!ノアはそのまま乗っていろ!」
グランデレが叫びながら箱舟に飛び乗ると、箱舟はそのままゆっくりと王城の方向へと進み始めた。徐々にスピードを上げていく箱舟に重いヒシを乗せる暇はなかった。
ノアが振り返って、
「ヒシ!すまない!」
と叫んだが、ヒシの姿はすぐに暗闇の中に飲み込まれてしまった。
乗り遅れたヒシはポツンと暗闇に取り残されて、走り去る箱舟を見送るしかなかった。




