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二、乙姫②

竜宮城にいるとそこかしこに母であるソフィア王妃の思い出の品が残されており、その一つ一つにお母様の面影を探すことが、私の心を随分慰めていた。特に花が好きだったお母様は、城内の至る所に花瓶を置いていた。しかし、あまり光の射し込まない海底城の竜宮城の中では花はあっという間に枯れてしまう。お母様がいた頃には頻繁に花を入れ替えていたが、私はすぐにしおれる花たちが何だか可哀そうで、私の入城後はそれらの花瓶に花を挿すことを禁じた。

お母様は私を産んでから体調を崩し、床に臥せることが多かった。しかし、本来は活発で明るい人柄であったように思う。


お母様はもともと他の国の王室の出であったが庶民派で、王国の国民から絶大な人気があった。ふらりと町中に出かけるのが好きで、お忍びで私を連れて買い物やお茶をすることがしばしばあった。花屋の店先で店主に気さくに話しかけながら花を選んでいると、人気者のお母様の周りにはあっという間に巨大な人だかりができた。侍女が追い払うのを制して市民を受け入れるさまは、まさに私のあこがれであった。自分もあんな風に国民から愛される王妃になりたいと、羨望のまなざしをお母様に向けていた。ソフィア王妃は私にとって、まさしく自慢の母であった。


まだ私が幼かった頃、いつものようにお母様と街中を歩いていると、民家の軒先からバターの焼けるいい匂いがしてきた。私が興味をもってそっと覗き込んでみるとその家の母親らしき女性がかまどで何やら作っている。


「あれは何をしているの?」と、お母様に尋ねると


「あれはクッキーを焼いているのよ」と返事が返ってきた。


世の市民は母親がお菓子を作ってくれるのかと驚いたが、同時にそれがとても羨ましく感じられた。ああ、母親とは子供にそんなことまでしてくれるのかという発見は、ならば私もという強い願望を生んだ。そこで幼い私はお母様にクッキーを焼いてくれとせがんだ。コックが作ったものではなく、母親の作ったものが食べたかった。あんな風に、笑いながらかまどの横で、できたての熱々のクッキーを食べたい。お喋りしながら、椅子の上で足をブラブラさせながら、お行儀など気にせず食べたい。わがままだとは思いながらも意を決して言ってみた。


「ねえ、私もお母様が焼いて下さったクッキーを食べてみたいわ」


私の申し出に対して「あら、いいわよ」とにこやかに笑うと案外あっさりと願いは聞き入れられた。お母様はそのまま王宮へと引き返し、まっすぐ城内の厨房へと向かった。王妃が厨房に来るなどありえないことなので、私達がいきなり厨房に入った瞬間のコックたちの慌てた様子を、私はなんだかワクワクする気持ちで眺めていた。

お母様は周囲の混乱を全く気にとめず、料理長のアルベルトを見つけると、


「私にクッキーを焼いて欲しいらしいのよ」と私の頭をなでながらクスクスと笑った。


「おお、そうでしたか。すぐにご準備いたします」と言うと、察しのいいアルベルトは私ににこやかに笑いかけると、特に理由など聞かずにすぐに準備するように周りにいたコックたちに命じた。


王妃が厨房でクッキーを作り始めたという噂はあっという間に城内に広まり、厨房の入り口にはちょっとした人だかりができていた。

作ると言っても王女自身クッキーを作ったことなどあるはずもなく、アルベルトから手ほどきを受けながらの作業であった。ドレスを粉だらけにし、腕をまくってこねるさまを見ているうちに私もやりたくなってきた。


「私も手伝っていいかしら?」


王妃だけでも怪我でもしたら大変だとひやひやしながら見ていたコックや侍女達は、姫まで参加してのお菓子教室に緊張したが、いつしかだんだん楽しさのほうが勝ち始め、あちこちで笑い声が響く大騒ぎとなった。

クッキーの型を抜き、かまどに入れるとすぐにいい匂いが厨房を囲み、さらにその香りは廊下を渡り、辺り一帯に立ち込めた。なるべく自分の手で最初から最後まで作ってあげたいとお母様が望んだのでクッキーも多くは焼けず、枚数にしてわずか80枚ほどが焼けた。さっそく一口かじってみると、バターの香りと小麦の焦げたいい匂いがして涙が出るほどおいしかった。


「どうかしら?」


とお母様に尋ねられて、


「とってもおいしいわ」


と私は満面の笑みで答えたのを覚えている。


「それはよかったわ。アルベルトたちも食べてみる?」


「いいんですか!?」


人気者の王女が焼いたクッキーはその場にいた全員が欲しがり、料理長のアルベルトが最初に一つ手にとると、ソフィア王女が「さあ、皆も遠慮せず」とにこやかに微笑むと、あとは奪い合いの大騒動となった。


「静かにせんか!」とアルベルトが叱りつけても、若いコックたちは、


「料理長だけずるいですよ~」と文句を言い、しばらく収まらない。


若い者は二つに割って分け合い、さあ食べようかという段になって、アルベルトが


「王様に持って行かれてはいかがですか?せっかくソフィア様がお作りになったのですから。きっとお喜びになりますよ」と言ってきた。


重苦しい雰囲気の執務室に行くのは気が進まなかったが、そうまで言うならと私は自分用に渡されたクッキーのうちの数枚を器に載せて侍女と二人で持っていくことにした。


執務室への廊下を一緒に歩いていったのはいつも私のそばについていた侍女のミリーだった。優しくてよく気が付く侍女だ。小柄で幼い雰囲気に私も親近感を持ち、一緒にいると私の心をいつも和ませた。私は彼女になら何でも話せた。


廊下を歩く道すがら、ミリーが妙なことを訪ねてきた。


「西の国はどうなるんでしょうね…」


「西の国?何かあったの?」


ここまで話して私がこれまでの経緯を知らないことにミリーも気が付いたが遅かった。


「詳しく話してくれない?」


ミリーは少し困惑していた様子を見せたが、自分から水を向けておいて知らんぷりも出来ない。


「西の国との関係がうまくいっていないようです。今日も西の国の貴族院の方が執務室にお見えになっていますよ。もう朝からずっとですが、ご昼食もはさむ雰囲気ではないようで、先ほどすっかり冷えたお食事が出した時のままの姿で戻ってきたそうです」


「何か大きな問題が起きているのかな?」


「私も詳しくはわからないのですけれど…」


そこまで話したところでお父様たちが話し合いをしているという執務室の大きなドアの前まで来た。

ドアの前にいた大臣のオスカーにミリーが来意を告げようと近づく。大臣の横には官僚のトップもいる。なぜ大臣が部屋の中にいないでこんなところにいるのかと不思議に思ったが、それ以上に気になったのはその時の大臣の顔つきだった。明らかに何か重要な問題が起こっていて、考え込んでいるさまであった。


「恐れ入ります、オスカー様」と、ミリーが声をかける。


目の前に私達が来たところでやっとオスカーはこちらに気が付いたようで、気難しい顔を和ませて、


「おや、こんなところにどうしたんだい?」


と、ミリーに微笑む。そして私にうやうやしく頭を下げる。


「これはこれは姫様」


オスカーは切れ者の大臣との評判だが、優しい人柄でミリーなどの侍女はもちろん、下の者にきつく当たる事はまずない。今日のような姫の急な来訪にも慌てない余裕がある。そろそろ引退してもよさそうな年齢だが、彼に代わる能力の者が見つからず、未だ王宮の政治で王の右腕となって働いている。


ミリーが来意を告げる。


「王妃様と姫様がクッキーをお焼きになりました。先ほど厨房でお作りになったばかりの焼きたてで、とてもおいしく出来上がりました。せっかくですので王様にも是非召し上がっていただきたいということになり、お持ちしました。王様はまだお話をなさっていらっしゃいますか?」


「そうだな…。今この中にクッキーを持って入っていくのは難しいかもしれないね」


そう言うと私に向きなおり、


「王様はただいま大切な会談に臨んでいらっしゃいます。姫様のクッキーはわたくしがお預かりします。必ずお渡ししますので、ご安心ください」


そう言うと両手を出してクッキーを受け取るしぐさを示した。お父様の感想を聞きたかったが、大切な会談に自分のような子供が割って入るわけにもいかない。


「そう…。じゃあお願いね」


そう言うと私はオスカーにクッキーの器を渡してくるりと背を向けてさっさと今来た道を戻っていった。なんだか自分のような子供がそこにいてはいけないような気がしたのだ。ミリーは私に置いていかれそうになって慌てた。


「失礼いたします!」


ミリーはオスカーにそれだけ言ってぺこりと頭を下げると私を追った。ミリーが追い付くと私はぽつりとつぶやいた。


「何て言おうか」


「何がですか?」


「お母様は初めてクッキーを焼いたのよ。お父様の反応がどうだったのか、きっと楽しみに待っているわ。会えなかったとは言いにくいわ…」

ミリーは返す言葉もない。

私達は黙って廊下を歩いていく。

お父様はいつもこうだ。会いたいときに会えず、話したい時に話せず、いつも24時間王として生きている。それが当たり前なのは分かっている。分かってはいるが、王室の人間というのはどの国でもかくも余裕の無い生活を送っているのだろうか。廊下を進むと厨房の喧騒が聞こえてきた。思案しているうちにすぐそこまで戻ってきてしまった。厨房から聞こえる楽しそうな笑い声。この城は家臣に恵まれている。でも、お母様はきっと寂しいだろうなと私は思った。


「あ、姫様!」


家臣の一人が目ざとく私を見つけて駆け寄る。


「王様は、なんとおっしゃっていましたか?」


さっと一斉に室内の視線が私に集中する。


「王様は…」エリーが何か言おうとしたのにかぶせて、私が明るく答える。


「こんなおいしいクッキーはなかなかないとお褒めの言葉をいただきました、お母様」


おーっという歓声が上がり、人々の輪の中心に母の笑顔が見える。

これでいいのだ。私はそう思った。


ずいぶん昔のことを思い出したものだと、私は竜宮城に帰る道すがら、一人苦笑いを浮かべた。あの頃、私にはまだ父に対する愛情もあったし尊敬の念もあったように思う。だが、それは私がまだ何もわからぬ子供だったからだ。しかし、物事のわかる年齢になった今、お父様のしていることは全ての生き物に対して思いやりを欠く行為で、時代遅れだと感じる。


生き物に対する思いやりを欠く事と、人が憎しみ合い傷つけ合う事は無縁ではないように思うが、そんな事を感じるのは自分だけなのだろうか。そして、地上に広がる人間、お互いを殺し合う人間という存在に国としてどう向き合えばいいのかと思う。もちろん全ての人間が悪いわけでは無いし、悪いやつだといって刑罰で思い知らせればいいというものでもない。それでは結局彼らと同じだ。何か、良い方法はないか。一部の人間が、まるで罪の意識を感じないでふるまい続ける事をやめさせる方法を見つけなければならない。悪い人間が自らしぼむことは決してないのだ。放置すれば、人類はいずれゆっくりと衰退するだろう。私は竜宮城に入りながら、遠くに見える西の国との国境に目をやった。


私一人では無理だ。早く西の国のノア王子と会わなければ…。

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