十八、ソフィア①
乙姫がまだ4,5歳の頃から、母親のソフィアは徐々に不調を訴えるようになった。症状としては主にめまい程度だが、時には数日寝込むこともあった。城の医者が診ても今一つ原因が分からなかったので、国内の大きな病院での精密検査を勧めたが、しばらく横になると治るのでソフィアは頑なに検査に行こうとしなかった。
そんなソフィアの体に異常が出たのは、発病してから10年ほどが経った頃であった。ある朝メイドがソフィアを起こしに行くと、早起きのソフィアが珍しくよく眠っていた。城の侍従たちと相談の上、お疲れのようだから目が覚めるまでそのままにしておこうとなった。ところが、昼を過ぎても夕方になってもソフィアが目を覚まさない。さすがにこれはおかしいとなり、ソフィアの寝室に急遽医者が呼ばれた。
診察の結果は、やはり異状なし。目が覚めたソフィアはいつものソフィアで、お腹がすいたと言って食堂に移動すると夕食をモリモリと食べた。ソフィアのこの不調はごく一部の側近たちと大臣、そしてグランデレのみが知る所であったが、ここからソフィアの病状は一気に悪化していった。
一日寝ていたものが二日になり三日になりと睡眠時間が延びて行くのである。ついにグランデレの指示でソフィアが寝ている状態のままで王立病院に搬送された。そこで様々な検査がなされたが、その診断結果にグランデレ達は蒼白となった。
余命三年。
ソフィアの脳は加速的に睡眠状態に入っており、このままでは三年後には脳がその活動を完全に停止するという。その際心臓などの器官への干渉も脳が放棄するために、全身の機能が停止して死亡すると医師から告げられた。王立病院の医師達は症例を求めて各国の病院や研究機関に情報を求めたが、似た例は僅かに二件。いずれも死亡という結果であった。
目が覚めたソフィアは城に戻ってから、自分が寝ている間に様々な検査をされたことに少々機嫌を損ねたが、当然自身の診断結果を聞きたがった。本人に伝えるかどうかを散々話し合った挙句、グランデレがソフィアに話したのだった。
話を聞いたソフィアは案外と落ち着いていたという。ただ、乙姫に何と言うかという所で二人の意見が分かれた。グランデレはまだ若い乙姫に話すことをためらったが、ソフィアは話すべきだと主張した。
例え短くとも、王族としての自覚を育てる時間に母が付き添うべきだという考えであった。王妃になる者には王妃からその心構えを学ぶべきだが、時間が無い中で真剣に学ばせたいという気持ちをグランデレに訴えたが、結局グランデレの主張が通った。
ソフィア王妃の命があと三年という情報には強いかん口令がひかれた。乙姫に知らせない為である。
乙姫にこの事を気取られないように配慮する必要があったが、その一方でソフィアの寝室には頻繁に医師や看護師が出入りするようになり、その瞬間を乙姫に見られないようにするために側近は神経を擦り減らせていた。
そんなある日、いつものように様子を見に訪れた医師がソフィアの前でこんな話をした。
「西の国は現在、人工知能の研究を進めています。私は王国の人間ですが、興味深い研究なので特別に西の研究に参加させていただいています。実はこれがちょっと変わった研究をしているんです。西の国の人工知能はいわゆるコンピューターのような機械ではなく、移植された人間の脳を使っているんです。驚いたことにそれはまるで生きた人間のように話したり考えたりするんですよ。一つ目の実験は一応の成功を見て、その人工知能は今も生きているらしいですよ。これが上手くいけば二例目として王国の協力を本格的に求めるようなんです…」
血圧を測ったりのどの様子を見たりしながら、医師は熱心にこの話をした。
その時は軽く受け流していたソフィアであったが、ある時ふとソフィアの中にその話が別な意味合いを持ってその心を支配した。
“人工知能のシステムに私の脳を移植して、脳だけでも生き永らえる事は出来ないだろうか”。
実は私は自分の人生にさほどの執着はなかった。ただ、気がかりな事があった。
乙姫の存在である。娘を、せめて結婚するまでは見守っていたい。大人になるまでのこの大切な時間を共に歩いてあげたい。その為には、乙姫を長生きさせなければならない。あの子のそばにずっといて、私とあの子に共通するこの病気を治してあげたい。あの子と私は似ている。きっとこの病気はあの子に遺伝している…。そう考えていた。
後日私はそれとなくその願望を医師に打ち明けた。医師のイーサンは驚いて、とんでもないと掌を左右に振った。
「これはいわば人体実験です。王妃様の脳を移植するなどとんでもございません。それに、これはあくまで極秘の話ですし、そもそも上手くいくとは限りません。余計なお喋りをしてしまいました。どうかこの事はお忘れください」
そう言われた。しかし、私はどうしても人工知能の件が頭から離れず、遂にその考えを夫のグランデレに打ち明けた。余命いくばくもない妻が折り入って話があるというので最初こそ静かに聞いていたが、みるみるその表情は困惑し、更にその後から怒りを表した。
「そんな話を信じているのか?」
「はい、私はこの実験に賭けたいと思うのです」
ふーと長い溜息をついて、グランデレがまじまじと私の顔を見る。
「出来ない相談だ」
「なぜですか?」
「自分の妻を人体実験に差し出す夫がどこにいる?そもそも、その実験がうまくいかなければどうする?それこそ人生を二度終わらせることになる。そんなお前の姿を私に見せないでくれ。乙姫を心配する気持ちはわかる。だが、その役目を私が負うという事では駄目なのか?」
私から見てグランデレと乙姫はよく似ていた。ぶつかる時はきっと徹底的にぶつかるのだろう。それが分かっていて、グランデレに娘を託すことは出来ない。この夫は、年頃に成長したあの娘が一度へそを曲げるとどれほど大変か、まだ分かっていないのだ。そして、それが分かった時には既に私はこの世にいないのだ。
「あなたでは無理ですとは申しませんが、母親にしか出来ない事もあります」
日頃殆ど夫に意見しない私が、このように真っ向から反抗したのはこれが初めてであった。
「少し時間をくれ」
そう言うとグランデレは私の寝室を後にした。
部屋を出るとグランデレはそのまま侍従長のもとに行った。
「ソフィアの病室を移す」
「どちらにですか?」
「南の塔だ」
「あそこにでございますか…」
王城には三つの塔が建っていて、中央に最も高い塔。北と南にそれより少し低い塔がある。塔の中の部屋は通常は使われていないので空き部屋だが、王妃が病気を静養するような部屋ではない。侍従長はグランデレの意図を酌みかねて狼狽えた。
グランデレはさらにもう一つ指示を出した。
「ソフィアのそばにいるイーサンという医師がよからぬ話をしたそうだ。即刻医師を変えよ。すぐにだ」
そう言われて、侍従長はすぐに医師を交代させた。
翌日私の部屋が南の塔に新しく作られ、担当医も変更となった。グランデレは日頃はとても優しい夫なのだが、こういう時には何を言っても聞く耳を持たない。塔の一室といっても牢獄のような所ではないし、考えようによっては見晴らしのいい部屋だ。私は新しくしつらえたベッドの上で身を起こして、窓から外の様子を眺めていた。窓から吹き込む風にカーテンがそよそよと揺れて、それがかえって私に孤独を感じさせたのだった。
その日の夜、グランデレは部屋にやってこなかった。廊下の向こうにメイドは控えているが室内には誰もいない。夫も悩んでいるのだろう。突然余命宣告を受けた上に妻から脳を移植したいなどと言われ、平常心でいられるわけがない。
自分はおかしくなってしまったのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら何となく床を見ていると、何かが動くのが見えた。何だろうかと見ているとその小さなものが少しづつ近くに寄ってきて、やがて明かりの中に入ってきた。
それは一匹のネズミであった。
「あら珍しいお客さんね。それとも、元々ここがあなたのお部屋で、私がお客さんなのかしら?」
そう言って私はネズミに向かって微笑んだ。私は動物と話をすることが出来た。
ネズミは暫く私を眺めていたが、不意に口を開いた。
「あなたはこの城の王妃様ではありませんか。なぜそのような方がこんなむさくるしい所にいらっしゃるのですか?」
「何から話せばいいのかしら…」
そう言いながら、私はこれまでの事をネズミに語った。ネズミは時折耳をぴくぴくと動かしながら静かに話を聞いていた。
一通りの事情を聞くとネズミは「ふむ…」とひとこと言って数歩私の近くに来た。
ネズミは問うた。
「あなたの望みは何ですか?」
「娘を見守りたいの。おかしいかしら?」
「なぜあなたが?」
「母だからよ」
「母は娘を見守る責任を負っているのですか?」
「私はそう思っているわ」
「では若くして死ぬ母親は皆自分の責任を全うしないで死ぬのですね?」
「そういう訳ではないと思うけど…」
「けど何ですか?」
「若くして死ぬ母親は皆、仕事を半ばで取り上げられたような絶望を味わうでしょうね」
「そうですか…。もし母親の責任が自分が関与出来ない事情でも変わらないのなら、人間の母とはきっと大変な生き物なのでしょうね。ところで、あなたは自分の為には生きてきましたか?」
「自分の為ってどういうこと?」
「自分の魂が喜ぶことを進んで行ったかという事です」
「それならそう生きてきたと思うわよ。なぜそんな事を聞くの?」
ネズミはぴくぴくと髭を動かしてじっとソフィアを見ている。
「そうして魂が喜べば、人の心というのはいつか満たされるものなのではないですか?もう十分だという日が来るのではないですか?」
「そうなる人もいればそうならない人もいるわね」
「王妃様はどうなのですか?」
「私にはそういう日は来ないと思うわ」
「なぜですか?」
「私の幸せは、私の事だけでは構成されていないからよ。王妃だもの」
ネズミは再びじっと髭を動かして、そのまま何も答えずにソフィアを見ていた。あまりにネズミが黙っているので、ソフィアが窓の向こうの星空を見ていると、その間にネズミはどこかに消えていた。
次の日の夜、再びネズミが現れた。
「あら、いらっしゃい。ここにいると話し相手がいないからまた来てくれて嬉しいわ」
「また人間の事を聞いてもいいですか?」
「いいわよ」
「死ぬ、とはどういうことですか?」
「生きている状態ではなくなる事よ。ネズミも死ぬでしょ?珍しい事ではないわ」
「でも人間が死ぬと、周りの人は悲しみます」
「ネズミは悲しくないの?」
「全く悲しくない、というわけではありませんが、もっと違った感情です」
「どんな感情なの?」
「またすぐに会えるね、今は少し寂しいけど、また後でね、という感情です」
「また会えるかどうかわからないじゃない」
ここでネズミが驚いた顔をした。
「え?会えますよ?ご存じないのですか?」
「え?会えるの?そうなの?」
今度はソフィアが驚いた顔をした。
「だって、そんなの分からないじゃない。誰から聞いたのよ」
「…人間です」
ソフィアは少し俯いて考え込む。
「本音を言っていいかしら?」
「どうぞ」
「私は、死は人を分かつものだと思っているの。死んだら二度と会えないと思うの。天国という所はあるかもしれない。でも、今まで何人の人間が死んで天国に行ったと思う?そんなに死者が沢山いる所にポンと放り込まれた者同士が、簡単に会えるわけないわよ。とても可能性が低いという事は、私に言わせれば可能性はゼロなの。なら、私は今を精一杯生き続ける事に賭けたい。そう思うの」
「なるほど…」
そう言ってまたネズミは考え込んだ。そしてまた昨日と同じように姿を消した。
また次の日、夜の早い時間にネズミがやってきた。
「あら、今日は早い時間なのね。まだ向こうの方に人がいたでしょ?見つかるわよ?」
「大丈夫です」
そう言いながらネズミが近くに来ると、銀色に光る鍵を首から下げていた。
「鍵を持ってきました。この部屋のドアのカギです。これがあればこの部屋から出られます」
「ありがとう。正直嬉しいわ。でも、なぜ私にそれを渡そうと思ったの?」
「ああ、昨日まで来ていたネズミは私の母です。私はその娘です。母は数日前から体調が悪く、もうここには来られないでしょう…。この鍵は母から言われて持ってきたのです。母は言っていました。
『あの方をあの部屋から逃がしてあげて』って」
「そうなの…」
娘のネズミはぺこりと頭を下げると鍵を置いて部屋を出ていった。




