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十一、ヒシ②

レオは歩きながら昔父から聞いた話を思い出していた。


あれは10年ほど前だったか、風が強く、海が荒れた日だった。これからさらにひどい風が吹くという事で、村の全ての舟が漁に出るのをやめていた。皆が家に帰り、風が収まるのを待つことにしたのだった。エルたちの父親も家で待機していたが、まだ幼かったリリーがお腹がすいたとぐずった。その頃、悪天候が続いてあまり漁が出来ず、船を出してもさっぱり魚が網にかからない日が多かった。おかげでどこの家も食べ物がなかった。町の人間は悪天候でも食べ物はあるだろうが、貧しい漁村ではそういう些細な事が食生活を直撃する。


リリーの泣き声に音を上げた父親は網を持って表に出た。この風では舟を出すのはさすがに無理だが、磯から網を投げたら何かかかるかもしれない。そう思ったのだろう。ちょうど海の様子を見に浜に出ていたレオの父親に『リリーが泣くからあの子の分だけ獲れたらすぐに戻る』と言っていたらしい。何となく嫌な予感がしたレオの父は風が吹く中、タバコをふかしながら岩場から網を投げるリリーの父親を見ていた。10分ほどした頃であったか、さすがに風が強くなってきたので、危ないからそろそろ帰って来いと言おうと足元でたばこを消した次の瞬間、


…ドンッ!


という強い波の音がして、見上げるほどの大波が波打ち際一帯を飲み込んでいた。慌てて岩場を見たが、さっきまでいたはずの男がいない。村に向かってありったけの大声を上げるといくつかの家から顔を出す者がいた、


「波にもっていかれた!助けてくれ!」


そう叫びながら岩場に走った。ひときわ大きな岩に、さっきまで彼が持っていた網が引っ掛かっていたが持ち主の姿はなかった。懸命に名前を呼んだが、波の音がするばかりで返答はない。すぐに村の男たちが集まったが、あまりの波の大きさに探しようのない有様だった。舟も出せず、茫然としている村の男たちが振り返ると、家の前に立って、泣きもせずただ呆然と海を見ているエルがいたという。


葬式の日、レオはただひたすらに泣くエルとリリーを見て、こいつらとずっと一緒に居ようと心に誓った。

それからエルのお袋さんは二人の為に懸命に働いた。体の丈夫なお母さんだとエルは自慢していたが、その母親も流行り病であっけなく死んでしまった。残された子供二人は憔悴しきって、葬式の時にはもはや涙も出なかった。

ほんの2年ほどの間に両親を失った二人を、村のみんなで懸命に支えた。もともと子供の少ないこの村で、女の子のリリーはそれはそれは大事にされた。


そのリリーが…死にかかっている。

エルは既に両親を亡くしている。その上妹を亡くせば…。そこまで考えてレオは頭をブルブルッと振る。

余計なことは考えず、今は姫様を探そう。リリーは助かる。俺が助けるんだ。


夜とはいえ真っ暗闇ではない。暫くして遠くに教会らしき建物が見えた。ただ、何かおかしい。教会の建物が破壊されていて、周囲に焦げ臭いような埃っぽい臭いが立ち込めている。


(何だこりゃ?)


そう思いながら背を低くして近くまで来て、教会がずいぶん酷い有様である事が分かった。周りをぐるりと歩くと地面のあちこちに黒い染みがある。雨も降っていないのにおかしいと思って足でつついて手に取ってみた。


(血だ…)


その場にしゃがんでよく見てみるとずいぶん時間が経っているように思った。あまりの事にあっけにとられてその場にしゃがんでいると、少し離れたところに人影らしきものが動くのが見えた。さっきの追手の男達かと身構えたが、相手は一人だった。それに服装もさっきの男達とは違う感じがする。

レオは足音を忍ばせて、その影にそっと近付いて行った。


一方、おばさんは懸命に自転車をこいでいた。この日二回目の全力での自転車こぎであったが、二回目は自分達の命の危機が迫っていたので、嫌がおうにも全力でこぐ必要があった。

村の近くまで来るとおばさんは自転車ごと浜に向かって行く。砂に車輪がとられて動かなくなると、後ろを振り向いて叫ぶ。


「ヒシ!行って!」


私は荷車から降りると猛然と海に向かって行った。ざぶざぶと勢いよく水に入ると、なんだか久しぶりに海に帰ってきたような気がした。私は一瞬振り返って


「おばさん、ありがとう!」


そう叫ぶと海の中に突っ込んだ。

既に真っ暗な海を全力で泳いでいくと竜宮城の入り口が見えてきた。いつもならこの時間は門の明かりもうっすらとしか点いていなかったが、今夜はほぼすべての明かりが点いている。いつもなら一人しかいない守衛も二人立っており、乙姫様に緊急事態が起こっていることが既に城内に周知されているのだと私にも分かった。

泳いでくる私を見つけた守衛が、海に落ちそうなほどギリギリのところに立ってこちらを見つめている。

私が海から裏門に上がると守衛の一人が城の中に向かって叫ぶ。


「ヒシが戻りました!」


中から大勢が階段を上がってくる音がして、そこそこ広いはずの通用口は人だかりでごった返した。

みなに囲まれた私にまずルークが声をかける。


「ヒシ、姫様は?」


私はルークにこれまでの顛末を話した。話の行きがかり上リリー達の事も話した。


「わかった。王城に知らせてくる」


それだけ言うと中に入って階段を駆け下りていく。

ルークは医務室のドアを開けると真っすぐ電話に向かった。

大臣のオスカーの部屋に電話をすると1コールもしないうちにオスカーが電話に出た。


「ルークです。ヒシが返ってきました」


「何と言っていた?」


「姫様は漁村の脇の目立たないところまでボートで向かい、そこから少し離れたところで車に乗り込みました。従者の二人も一緒です。そこから西に向かって行き、国境近くの森で車を乗り捨て、国境を超えた模様です。ヒシは国境を越えたところまでは見ていませんが間違いないでしょう。それから、姫様自身が何者かに追われています」


「追われているのか…。どんな奴らだ?」


「軍服は来ていませんが、銃を所持しています」


「車を乗り捨てた場所がどの辺りかわかるか?」


「ヒシの説明ではあまりよく分かりませんでした。今からヒシを連れて直接現場に向かいます。すみませんが、兵を何人か出してもらえませんか?」


「分かった。そちらからは誰が出る?」


「私とヒシです。ここで狙われることはありませんから、警護はつけません。カメを運ぶので、何か荷車のようなものもお願いします。漁村で合流できますか?」


「わかった。30分で行く。急いで来てくれ」


そこで電話は切れた。

ルークは受話器を置くと、自分のデスクに向かった。

引き出しの奥から銃を出す。実弾の数を確認してズボンにねじ込む。


(撃ち合いは避けたいな…)


そう思いながら部屋から大急ぎで上に向かった。

上の門に行く途中、一つ上の階に乙姫の居室がある。何となくその部屋の前を通ると中から話し声がした。ドアの前に立って、聞き耳を立てる。

部屋の中では、乙姫の侍女のアンが猫のベルと話をしていた。


「姫様はどこに行ったのかしら?何か言ってらっしゃらなかった?」


「分からないわ。でも、ねえ、秘密守れる?」


「秘密の種類にもよるけど、他の人に話しちゃダメな事なら言わないわ」


「姫様はよく電話していたの」


「電話?誰と話していたの?」


「うーん。たぶんいつも同じ人」


「誰かわかる?」


「王子さまだと思うわ。ノアって人」


「どんな話をしていたの?」


「箱舟の事。あとは、戦争の事とか。なんか…横にいるのが嫌だった」


「嫌だった?なんで?」


「だって姫様の機嫌が悪くなるから。いつもは優しいけど、電話の後の姫様はいつも怖いの」


「怖い?叱られた?」


「そんなんじゃなくて、ずっと黙ってるの。私が話しかけても返事もしないの」


「そうなんだ…」


「ずっと黙ってるの。自分の殻に閉じこもって。姫様のそういうとこ知ってた?」


「うーん、知らなかった。前向きで明るい人かと思ってた」


「それはもちろんそういう面もあるだろうけど、姫様だから明るくしてなくちゃいけなかったんだと思う」


自分は乙姫のそばにいて、実は何もわかっていなかったのだと思うと、アンは何とも言えない寂しさがこみあげてきた。


(私は姫様の力になっていなかった)


そんなアンの気持ちを察してかベルが慰めるようにぽつりと言う。


「みんな分かっていなかったと思うよ。アンだけじゃないよ」


「猫に慰められた」


「猫だってこれくらい言うわよ」


そう言って二人でくすりと笑う。


「何か悩んでいる事とか仰っていた?」


「猫に言うわけないでしょ」


「そりゃまあ…ね」


「姫様は、もしかしたら帰ってこないかも」


「ええ?なんで?」


「部屋を出る前にネックレスをしていったの。あれって、亡くなった王妃様の形見のネックレスなの。あれを部屋から持ち出すところを初めて見たわ…それに」


「それに…何?」


「部屋を出るときに、言ってたの」


「なんて仰ったの?」


ベルがうつむく。


「とても小さな声で…『お別れね』って…」


アンは目を大きく見開いた。


廊下で話を聞いていたルークは血の気が引いた。


(姫様は死ぬ気だ…)


ルークは部屋の前から上の階に向かって駆けだした。

おかしいとは思っていた。だが、何か起こるとすればもっと先だと思っていた。日々が充実していたのは自分たちだけだった。その輪の中心に乙姫様がいるものだと思っていた。だが実際はそこだけぽっかりと空いていたのだ。あの方は孤独だったのだ。王宮で孤独だったからここにいらしたのだ。だからそれからは幸せに過ごされていると勝手に結論付けていた。


(ところがここでも、孤独だった…)


医者だ、頭がいい男だともてはやされた。ところがどうだ。私は何もわかっていなかった。姫様の抱えた苦悩を。私が彼女の苦しみに気が付いて声をかけていれば、あるいは事態はもっと違った方向へ進んでいたのではないだろうか。


(私は…愚かだ…)


一気に地上に出るとすでに船のエンジンはかかっていた。乙姫様の為にこの竜宮城にある船だ。本来乙姫様なしにこの船は動かさないが、今ここにはこの船しかない。

ルークが叫ぶ。


「ヒシ!行くぞ!」


「はい!」


城の男たちが船にヒシを乗せる。ひときわエンジン音を響かせて出発準備を整えた船にルークが桟橋から飛び乗る。


轟音を響かせて竜宮城から離れていく船を、皆が無言で見送っていた。

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