安乾伝 2回
昌帝国西部の国境地帯にある適州、この適州を中心とした五の州を束ねるのは適州節度使の范児晴。この范児晴、この度の皇太子による政変を機に、独立の野望を隠そうともしなくなっていた。
手始めにと軍を適州から東方にある商業都市、橘州に派遣し、使者をして従属か蹂躙か選べ、と高圧的に迫った。橘州知事は気骨の士であり、なんの大義あってそのようなことを抜かすのかと使者を大喝した。しかし使者は、もはや大義などこの国にはありますまい。子が自ら父皇帝を討つような国になりさがったのですから、と切り返す。
「力を失った皇帝につくも、義の無い皇太子につくも最早意味を成しません。忠義を向ける先が無いのでございます。力あるものが、力によって治める世がやってきたのです、知事。橘州知事におかれましては、ぜひ范節度使の元でこの橘州を治めていただきたい。悪いようにはいたしません」
忠義の向ける先が無い。その言葉に、前皇帝への忠義を全うするべきか、皇帝となった皇太子を新たな主として忠義を尽くすべきか、どちらが忠の道に順ずるのかと迷いを持っていた橘州知事にとって、核心を突かれた。さらに。
「降伏すれば、地位を安堵すると?」
「はい、お約束いたします」
僅かながら心に灯っていた保身という火が、この使者の言葉によって大きく育っていくのを感じる。使者は内心ほくそ笑み、言葉巧みに橘州知事の心を切り崩していくのであった。
適州節度使范児晴の次子、范礼は父に橘州攻略を命じられて一軍を率い橘州へと向かっていた。当然、降伏を勧告する使者が出ているのは知っている。しかし橘州知事は気骨があることで知られた人物、おそらく勧告には従わないであろう。そこで范礼は軍を引き連れ橘州に進撃し、橘州城を攻略せしめんと息巻いていた。ので、あるが。
橘州を前にして陣を張り、使者の帰りを待つと称して宴会を開いていた范礼の元に、予想だにしない報告が入ってきた。
がしゃん、と手の中の杯が滑り落ちる。裾が飛び散った酒に濡れるのも構わず、その報告を持ってきた伝令に詰め寄った。
「今、なんといった! もう一度申してみよ!」
「はっ。橘州知事が、使者となった安乾様の言葉に従い、范節度使の軍門に下る、とのことで……」
そう、橘州知事を説得に向かった使者とは、范節度使の仮子、安乾であったのだ。
怒りに身を任せて伝令を蹴り飛ばしてしまう范礼。
「ええい! もうそれ以上は聞きたくないわ、下がれ!」
「は、ははっ!」
伝令を追い払っても怒りが覚めやらぬ范礼は、側近に酒を注がせると一気に呷る。
「せっかくこの私が軍功を上げて父上に橘州を献上しようというときに! なぜあの若造めはいつもいつも私の邪魔をしおる!」
「まったくでございますな。范節度使の覚えが少し目出度いからといって、あのものの増長振りは目に余るものがございます」
酒を注いでいた側近も范礼に追従する。
「ろくに軍も率いたことが無い輩が、口先と目端だけで父に取り入りおってからに!」
「そうですとも。兄たる范礼様が軍を率いているのであられるのですから、范礼様と橘州軍が戦うように仕向けるのが弟の道でございます」
「そうであろう! ふーっ、まったく許せん小僧よ!」
側近達のおべっかに気をよくして飲み始める范礼は、気付かなかった。この場に列席していた武官の一人の目がまったく笑っていないことに。この武官も范児晴の仮子であり、伊高という。范礼の元で出陣することが多いために周囲からは范礼派と見られていたが、実際は安乾がすでに取り込んでいる埋服の毒であった。
「義兄上、お待ち申し上げておりました」
橘州城の政庁、広間の上座に范礼を迎えて慇懃に頭を下げるのは安乾。隣に橘州知事も侍っていた。
「ふん、さすがに金のある州だな。政庁の造りにも金がかかっているようでなによりだ」
じろり、と橘州知事を睨む范礼。知事は無言で頭を下げる。
「義兄上。無抵抗であれば知事の身柄と地位を保証する件、お忘れなきよう」
「分かっている。父上の意向であるからな。だが、保証したのは知事だけ、であるからな?」
にやりと口元をゆがめる范礼。
「何を考えておられる、義兄上」
「なに、せっかくここまで足を伸ばして収穫なしでは兵がかわいそうと思ってな。多少のことは目をつぶる、と通達しただけよ」
「なんですと!?」
これには知事が大きな声を上げた。当然、といった風情でにやにやとその焦り様を見下ろす范礼。安乾が知事の腕をつかみ、落ち着くようにとなだめるが、知事の怒りはおさまらない。
「安乾殿、これはどういうことだ!」
「どうもこうも。私としてもこのようなことを許したくは無いのですが」
「ならば…!」
「残念ながら、私の権限で手を打てるのは、ここまでです知事」
「権限……だと」
悔しそうな安乾を見て、その言葉の裏にある意に気付いた知事の視線は范礼を向く。
「知事の権限において、略奪などがあれば厳しく取り締まらせていただく!」
「我等に歯向かう気かな?」
にやにやと笑みを口元に浮かべる范礼。しかしその内心では舌打ちをしていた。
「私は既に范節度使に下った。だが領内の権限は私にある!」
「ふん、やれるものならやってみろ」
上座でふんぞり返る范礼を尻目に、知事は警備に指示を出すため広間を辞する。
それを見送って、安乾があきれたように口を開く。
「あてつけはやめて頂きたいのですがね、義兄上」
「貴様こそ、こそこそと人に取り入ることばかりうまくなりおって。だが思い知れ、所詮貴様は仮子であることをな」
「忘れたことはありませんよ。仮子にしてくださった范節度使のことは」
二人は視線をぶつけあう。そして、安乾が「では、私は義父上に報告がありますので」と広間を去るのであった。




