第八話 やさしい家と、ちいさな罪悪感
村に、静けさが戻っていた。
ついさっきまでの恐怖が嘘のように、風はやわらかく、煙はまっすぐ空へとのぼっている。
けれど――
その中心にいたはずの少女は、まだ少しだけ現実から浮いていた。
「……あの……」
みるくは、村長の家の前で立ち止まる。
抱きかかえたラテの体温だけが、現実につなぎ止めてくれていた。
「私……どうしたら……」
居場所。
その言葉が、頭の中で曖昧に揺れる。
助けられて、守られて――
でも、自分がどこに立っているのか、まだ分からない。
そのとき。
「……こっち、来なさい」
やわらかい声がした。
振り返ると、そこにいたのは、あの夫婦だった。
先ほどまで気を失っていたはずの二人。
もう立ち上がり、こちらを見ている。
「……え……?」
みるくの声が、わずかに震える。
女性が、優しく微笑んだ。
「びっくりさせちゃって、ごめんねぇ」
まるで何事もなかったかのような声音。
その隣で、男性が少し困ったように頭をかく。
「いやぁ……なんというか……寝ちゃってたみたいでな」
(……うん、ごめんね)
ラテは、みるくの腕の中でそっと目を逸らした。
しっぽが、ちょっとだけしゅんと下がる。
(ほんとに、ちょっとだけ……やりすぎちゃったかも)
でも、二人の表情には、不信も怒りもなかった。
それどころか――
「あんた、行くところないんだろ?」
男性が、心配そうに言う。
「よかったら、うちに来ないか」
みるくは、一瞬、言葉を失った。
「……でも……私……」
戸惑う。
自分は、この村にとって“そういう存在”だったはずなのに。
「迷惑じゃないですか?」
女性が、そっと言葉を重ねる。
「子どもはそんなの気にしないの!」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
「……私たちね」
女性は、少しだけ笑って。
「子どもが、いないの」
みるくの目が、わずかに揺れる。
「ずっと欲しかったんだけどねぇ。こればっかりは、どうにもならなくて」
明るく言っている。
でも、その奥にある時間の重みは、隠しきれていなかった。
男性が、照れくさそうに続ける。
「だからってわけじゃないが……放っておけなくてな」
「……」
「無理にとは言わない。でも」
少しだけ、言葉を選んで。
「一人でいるよりは、いいだろ?」
みるくの視界が、にじむ。
理由は分からない。
でも、胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……いいんですか……?」
かすれた声。
女性は、すぐに頷いた。
「もちろん」
そして、少しだけ茶目っ気を込めて言う。
「その子も、いっしょにね」
ラテの方を見る。
「きゅん?」
首をかしげるラテ。
女性は、ぱっと顔をほころばせた。
「まぁ……かわいい……!」
次の瞬間、ふわっと抱き上げられていた。
(あっ)
(これ、だめなやつ――)
もふもふ。
ぎゅう。
「やわらかい……!」
「すごいなこの子……こんな小さくて可愛いのにあんなに強いなんて」
男性まで、興味津々で覗き込む。
(……あの)
(ぼく、一応……)
内心で言いかけて、やめる。
うん。
これは、悪くない。
(……まあ、いっか)
ラテは、されるがままに撫でられる。
むしろ、ちょっと気持ちよさそうに目を細めた。
(やさしい人たちだなぁ)
その瞬間、胸の奥の“後ろめたさ”が、少しだけ顔を出す。
(……ほんとに、ごめんね)
でも。
(そのぶん――)
小さく、決める。
(ちゃんと、守るから)
夫婦の家は、村の少し外れにあった。
木でできた、温かみのある家。
扉を開けた瞬間、いい匂いが広がる。
「ちょうどスープができてるのよ」
女性が、手際よく鍋をよそう。
テーブルに並ぶ、素朴だけど丁寧な料理。
みるくは、そっと席についた。
「いただきます……」
一口、運ぶ。
やさしい味。
思わず、息がほどける。
「……おいしい……」
ぽつりと漏れる。
女性が、嬉しそうに笑った。
「よかった」
そのやりとりを見て、男性も満足そうに頷く。
ただ、それだけの時間。
なのに――
(……ああ)
みるくは、思う。
(あったかい……)
心が、ほどけていく。
張り詰めていたものが、静かに緩んでいく。
ラテはというと。
ちゃっかり足元で、肉のかけらをもらっていた。
(……おいしい)
(ここ、好きかも)
しっぽが、ぶんぶん揺れる。
さっきまで“守護者モード”だった面影は、どこにもない。
完全に、ただのチワワだった。
「そういえば、名前を言ってなかったな」
男性が言う。
「俺はグレン。こっちは――」
「エルナよ」
女性が微笑む。
どこか絵になるような、穏やかな二人。
長い時間を一緒に過ごしてきたことが、自然と伝わってくる。
「……みるく、です」
少しだけ照れながら、答える。
その名前を、二人は大事そうに繰り返した。
「みるくちゃん、ね」
「いい名前だ」
その呼び方に、胸がくすぐったくなる。
“ちゃん”と呼ばれることなんて、いつ以来だろう。
(……私、いま……)
ふと、自分の手を見る。
若い手。
やわらかい肌。
(……ほんとに、戻ってるんだ……)
過去に。
いや、“やり直し”に。
顔を上げる。
目の前には、笑ってくれる人たちがいる。
足元には、しっぽを振る小さな家族。
「……よろしく、お願いします」
自然と、頭が下がった。
グレンとエルナは、穏やかに頷く。
「こちらこそ」
「ゆっくりしていきなさいね」
⸻
その夜。
みるくは、久しぶりに深く眠った。
恐怖に追われることもなく。
誰かに怯えることもなく。
ただ、静かに。
そして、ベッドの下では。
小さな守護者が、丸くなりながら目を開けていた。
(……よかった)
静かな寝息を聞きながら、思う。
(みるく、ちゃんと笑ってた)
それだけで、十分だった。
でも。
(ここは、守る場所になった)
やわらかい空気の中に、わずかに混じる“外の気配”。
完全に消えたわけじゃない、歪み。
(……今度は、まちがえない)
小さく、決意する。
しっぽが、静かに揺れた。
(ちゃんと見て、ちゃんと守る)
そして――
(……でも)
ちらっと、キッチンの方を見る。
(あのスープ、また食べたいな)
ほんの少しだけ、警戒心がゆるむ。
それが、ラテだった。
やさしい家に、あたたかい灯りがともる。
それは、みるくにとって。
そしてラテにとっても、初めて手に入れた、“帰る場所”だった。




