第七話 チワワ、世界を黙らせる
地面が揺れ、重たい足音が、村の空気を踏み潰すように近づいてくる。
みるくの視界の先に、明らかに異質な生き物が姿を現した。
それは、人の形をしているようで、どこか歪んでいる。
関節の位置が狂い、筋肉が不自然に膨れ上がり、濁った瞳だけがぎょろりと動いていた。
みるくの知見の範囲を超えている。
元の世界では絶対に存在しないもの……。
理屈じゃない。
本能が叫ぶ。
(……こんなの無理……)
足が、すくむ。
逃げなきゃいけないのに、動けない。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
でも――
「……ラテ……」
目の前に、小さな背中があった。
たった一匹の大切な家族。
いつも膝の上で丸くなっている、小さな可愛い存在。
そのラテが、今。
みるくと魔物の間に立っている。
(……さて)
ラテは、静かに息を吐いた。
外から見れば、ただの小さなチワワ。
震えているようにすら見えるかもしれない。
でも――
(ちょっとだけ、本気出そうか)
その瞬間、ラテの周りの空気が変わった。
魔物が、目の前の邪魔な犬に向かって一歩踏み出す。
それだけで地面が揺れる。
老婆が、悲鳴を上げた。
「わんちゃん、逃げて!!」
恐怖と絶望の叫び声。
その声を掻き消すように、魔物が腕を振り上げた。
標的はラテ。
振り下ろされる、巨大な腕。
当たれば、ひとたまりもない。
潰される。誰もがそう思った、その瞬間。
時が止まったかのようだった。
「……え?」
誰かの声が、間の抜けた音で漏れる。
振り下ろされたはずの腕は、ラテの目の前で止まっていた。
まるで、見えない壁に阻まれたかのように。
(あぶない、あぶない)
(みるくに当たったら困るしね)
ラテは、小さく首をかしげる。
その仕草は、いつもと変わらない。
でも、その周囲の空間だけが、歪んでいた。
ミシッと、空気が軋む。
見えない何かが、魔物の腕を押し返していく。
ゆっくりと。
でも確実に。
「……な、なんだ……?」
村人たちが、ざわめく。
理解が追いつかない。
目の前で起きていることは、異世界の常識すら逸脱していた。
この世界では魔法が存在する。
だが……犬が魔法を使うのは見たことも聞いたこともない。
ラテが、一歩だけ前に出た。
ちょこん、と。
本当に、ただそれだけの動き。
――ズンッ!!
衝撃が走った。
空気が爆ぜ、目に見えない圧力が、一直線に魔物へと叩きつけられる。
巨体の足が地面を離れ、浮いていた。
「……わんちゃん?」
老婆が呆然と呟く。
人の倍はある魔物が軽々と宙に浮かび、空間に固定されたかと思った瞬間、勢いよく後方に吹き飛んだ。
地面を転がり、木をなぎ倒し、土煙を巻き上げる。
轟音が、遅れて響いた。
誰も、声をあげることすら出来なかった。
⸻
(……うん、こんなものかな)
ラテは、くるりと振り返る。
しっぽを、ふわりと揺らす。
まるで、「いい子にできたでしょ?」とでも言いたげに。
「……ラテ……?」
みるくの声は、震えていた。
目の前の光景が、信じられない。
でも、ラテは、いつものラテだった。
小さくて、可愛くて。
大切な家族。
だが、土煙の向こうで、魔物がゆっくりと起き上がった。
まだ、終わっていなかった。
濁った瞳が、再びラテを捉える。
狂ったような咆哮で、怒りと殺意をあらわにする。
(あ、まだやるんだ)
ラテは、少しだけ困ったように目を細めた。
(じゃあ――)
次の瞬間、ラテの瞳が、金色に輝いた。
世界が、静まり返る。
風が止まり、音が消え、時間すら緩やかになる。
ラテが、もう一歩だけ前に出る。
それだけで、魔物の動きが完全に止まった。
見えない“何か”に、押さえつけられている。
(もう、いいよね)
ラテが、小さく息を吐いた。
――パキン。
何かが、砕ける音。
次の瞬間。
魔物の体が、音もなく崩れた。
砂のように、さらさらと跡形もなく……。
完全な、消滅だった。
何事もなかったかのように静寂が戻っていた。
だが、村人たちは、誰一人として動けなかった。
理解が、追いつかない。
恐怖すら、追いつかない。
「……今の……あの犬……」
視線が、一斉にラテへと集まる。
ラテは、きょとんとした顔で首をかしげた。
「きゅん?」
ただの、チワワ。
そう見える。
そうとしか、見えない。
でも。
誰もが、直感していた。
この小さな存在が。
今、確かに魔物をねじ伏せた”のだと。
ラテは、何事もなかったかのように、みるくの元へと戻る。
ぴょん、と軽く跳ねて、足元に座る。
「……ラテ……」
みるくは、ゆっくりとしゃがみ込む。
震える手で、ラテを抱き上げる。
温かい。
いつもと同じ体温。
「……すごい……ね……」
ぽつりと、こぼれる。
恐怖でも、否定でもなく。
ただ、純粋な感情。
ラテは、ぺろりと頬を舐めた。
(えへ)
(ちょっとだけ、がんばった)
その無邪気さに、みるくは小さく笑った。
ほんの少しだけ。
怖さが、和らいだ。
村人たちは、まだ動けないまま。
ただ、その光景を見つめていた。
小さなチワワが村を救った。
そして、その隣にいる少女もまた……。
この世界の“理”を、静かに書き換え始めていることに、まだ、誰も気づいていなかった。
ラテを抱き上げた瞬間。
みるくは、ふと違和感に気づいた。
(……あれ?)
視線を落とす。
自分の手。
細い指。
張りのある肌。
(こんなだったっけ?)
思わず、ぎゅっと握る。
骨ばった感覚がない。
乾燥したひび割れもない。
記憶にある“自分の手”とは、明らかに違っていた。
村人の一人が、恐る恐る近づいてくる。
「……あなた……大丈夫……?」
その目に映っているのは、怯えた30代の独身女ではなかった。
若い娘。
(……え……?)
胸がざわつく。
頭の中の自分と、今の自分が一致しない。
近くにあった水桶に、ふと目がいく。
揺れる水面。
そこに映っていたのは知らない少女だった。
長い髪。
柔らかい輪郭。
そして、自分よりも、ずっと若い顔。
「……うそ……」
思わず、声が漏れる。
見覚えはある。
でもそれは、“過去の自分”。
もう戻らないはずの時間。
(……私……)
(若返ってる……?)
心臓が、どくんと鳴る。
戸惑いと、混乱と、ほんのわずかな、感情。
“可能性”。
これまでの人生では、どこかで諦めていたもの。
もう遅いと、思い込んでいたもの。
それがもう一度、やり直せるとしたら。
「……ラテ……」
小さく名前を呼ぶ。
腕の中のラテは、いつも通りの顔で見上げていた。
「きゅん」
(……うん)
みるくは、静かに息を吐く。
震えは、まだ残っている。
怖さも、消えていない。
でも――
(……やり直せるなら)
(今度は――)
ぎゅっと、ラテを抱きしめる。
「……ちゃんと、自分のために生きてみたい」
その言葉は、小さかった。
でも、確かに、前を向いていた。
ラテの瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
(うん)
(それでいいよ、みるく)
世界は、すでに変わっている。
そして、みるく自身もまた、変わり始めていた。




