第四話 リーネ村
川のせせらぎが、やけに鮮明に聞こえていた。
みるくは、草を踏みしめながら、細い獣道をゆっくりと進んでいく。
腕の中ではラテが静かにしている。さっきまでの出来事が夢だったかのように、いつもの小さなチワワの顔だ。
(……落ち着いて。ちゃんと考えよう)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥はざわついたままだった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
――圏外。
いや、違う。
“圏外”と表示されることすらない。
電波という概念そのものが、ここには存在していないようだった。
(……そんなこと、ある……?)
空を見上げる。
青く、澄んでいる。
ビルも電線も、飛行機雲すらない。
聞こえるのは、風と水と、鳥の声だけ。
現実感が、ない。
「……これって」
口に出してみる。
「……異世界、ってやつ……?」
言った瞬間、少しだけ笑ってしまった。
(何言ってるの、私)
でも、否定する材料が、どこにもなかった。
⸻
しばらく歩くと、視界が開けた。
そこにあったのは、小さな村だった。
木と土でできた家々。
煙突から立ちのぼる煙。
畑を耕す人の姿。
まるで、歴史の教科書で見たような中世の風景。
「……すごい……」
思わず、息を呑む。
恐怖より先に、安堵が込み上げてきた。
(人がいる……)
それだけで、こんなにも安心するなんて思わなかった。
みるくは、勇気を振り絞って、一人の女性に声をかけた。
「あ、あの……すみません」
女性は振り返り、みるくを見るなり、目を丸くした。
「まぁ……ずいぶんひどい格好ねぇ。大丈夫?」
服装の違和感よりも、“疲れていること”を心配してくれた。
その優しさに、胸がきゅっとなる。
「あの……ここは、どこですか?」
問いかけると、女性は少し首をかしげてから答えた。
「ここはリーネ村よ。あなた、外国の人?」
聞き慣れない地名。
(……やっぱり……)
確信が、じわじわと現実に変わっていく。
女性は、みるくを村の中へ案内してくれた。
「よかったら休んでいきなさいな。そんな顔してたら倒れちゃうわよ」
その言葉に、思わず目頭が熱くなる。
(……優しい……)
会社では、“できて当たり前”。
やっても、口先だけの感謝しかされない。
でもここでは、ただ“疲れている”だけで、こんなにも優しくされる。
胸の奥の警戒心が、ほどけていく。
家の中で出されたのは、素朴なパンとスープだった。
ひと口食べた瞬間――
「……おいしい……」
思わず声が漏れた。
温かい。
優しい味。
身体だけじゃなく、心にまで染み込んでくる。
「こんなところに一人で……迷子にでもなったの?」
女性の問いに、みるくは少しだけ言葉に詰まる。
「……はい。気づいたらここにいました」
女性は、ふっと微笑んだ。
「辛かったねぇ。でも大丈夫。この村はね、みんなで助け合って生きてるのよ」
その言葉に、救われた気がした。
(……いい場所かもしれない)
そう思ってしまった。
足元で、ラテが小さく低く唸っていることに、みるくは気づかなかった。
⸻
夕方。
村長の家に通される。
木の机を囲み、何人かの村人と向き合う形になった。
穏やかな空気。
笑顔。
だけど、どこか、違和感があった。
「みるくさん、と言いましたね」
女性の村長が、ゆっくりと口を開く。
「あなた、記憶がないんですって?」
異世界から来たとは言えなくて、咄嗟に嘘をついた。
「行くあてもないのね?」
「……はい」
「なら、この村で働いてみませんか?」
その言葉に、少しだけ希望が灯る。
居場所ができるかもしれない。
「病人の世話をお願いしたいんだけど」
続いた言葉が、引っかかった。
「寝たきりの老人でね。簡単な仕事よ」
「……それは大変ですね」
親の介護の経験で、大変さは身に染みて理解しているつもりだ。
たが、村長は笑った。
「ふふ、長くお世話する必要はないのよ。半年もすれば……ね」
ぞくり、とした。
(……今、なんて……)
軽く言っていい言葉じゃない。
でも、周囲の村人は誰も違和感を持っていないように見えた。
それどころか、どこか納得したように頷いている。
(……これ……おかしい……)
頭では分かる。
でも――
「私……やります」
口が、勝手に動いていた。
(……なんで……)
断れなかった。
優しくされたから。
居場所が欲しかったから。
それだけで、警戒心が鈍る。
優しい人ほど、利用される。
それを、みるくは知らなかったわけじゃないのに。
その瞬間だった。
――バンッ!!
外で、何かが弾けるような音がした。
「なにごと!?」
村長が立ち上がる。
村人たちもざわめく。
誰も状況を理解できていない。
ただ一つ。
確かなことがあった。
家の裏手。
最初に出会った女性と、その夫が意識を失って倒れていた。
二人は、みるくを捕まえようと隙をうかがっていた。
その顔には、恐怖が張り付いていた。
まるで、“見てはいけないもの”を見たかのように。
そして。
みるくの足元で、ラテが小さくあくびをしていた。
「……ラテ、ねむいの?」
何も知らないみるくは、優しく撫でる。
ラテは、いつものように目を細めた。
⸻
みるくはまだ知らない。
この世界が、ただの“異世界”ではないことを。
かつて人類が滅びかけた未来から、逃げるようにして辿り着いた“過去の地球”であることを。
争い、奪い合い、支配。
その果てに、人類は一度、終焉を迎えた。
遠い未来の人類は生きる道を探った。
地球が滅亡を迎える前に、世界中の国々が、宇宙への移住を模索した。
だが、人類の科学力では他の惑星への移住は不可能だった……。
だから選ばれたのが、“過去への移住”。
だがその代償として、人々の記憶は消された。
そして、本来交わるはずのなかった“もう一つの世界”。
魔法と魔物が存在する領域が、同一の世界線に重なってしまった。
歪み。
混ざり合った現実。
それが、この世界の正体だった。
⸻
優しいだけでは、生きていけない世界。
でも、その優しさを、守ろうとする存在が、すぐそばにいる。
ラテの瞳が、ほんの一瞬だけ金色に輝いた。
(みるくは、僕が守る)
誰にも気づかれないまま、小さな守護者は、静かに牙を研いでいた。




