第三話 ラテと一緒に……
それは、なんでもない休日の昼下がりになるはずだった。
本来なら、今日はゆっくり休める日だった。
平日の疲れを引きずったまま、それでも朝から洗濯をして、簡単に部屋を片付けて、ラテのごはんを用意して。
“普通の休日”。
でも、その“普通”にたどり着くまでの一週間が、少しだけ……いや、かなり重かった。
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今週の職場は、インフルエンザが猛威を振るっていた。
「すみません、子どもが熱出してしまって……」
「学級閉鎖で……今週は休ませてください」
朝から、そんな連絡が次々に入る。
誰も悪くない。
それは分かっている。
むしろ当然だと思う。
子どもがいれば、優先順位は決まっている。
それに、制度としても、休む事を後押しされている。
2025年4月に施行された改正育児介護休業法。
子の看護等休暇の対象は、小学3年生修了までに引き上げられた。
取得理由も広がり、病気やけがだけでなく、学級閉鎖や入園式、卒園式などにも対応できるようになった。
制度としては、とてもいいことだと思う。
(……うん、すごく大事な制度)
実際、会社もそれを尊重していた。
うちの会社は、その休暇を有給として扱っている。
社員に優しい会社だ。
――ただ。
(……その分の仕事は、消えないんだよね)
ぽつりと、心の中で呟く。
人が減った分の業務。
納期は変わらない。
案件は待ってくれない。
そして――
(……私、だよね)
自然と、視線が自分のデスクに落ちる。
誰かが指示したわけじゃない。
でも、気づけば集まってくる。
「みるくさんなら大丈夫ですよね」
「お願いしてもいいですか?」
断れない。
断らない。
結果――
「……え、これ……今日中……?」
気づけば、明らかに一人分を超えた仕事量が積み上がっていた。
周囲を見渡す。
空席が目立つフロア。
(……人、いなさすぎない……?)
時計を見る。
もう夕方。
でも、やるしかない。
キーボードを叩く音だけが、やけに大きく響く。
――結局、その日も終電近くまで残ることになった。
⸻
帰り道。
コンビニの明かりが、やけに眩しく感じた。
(……なんかもう……空っぽ……)
疲れすぎると、逆に感情が薄くなる。
家に帰ると、ラテが全力で迎えてくれた。
その瞬間だけ、ちゃんと“自分”に戻れた気がした。
⸻
そして――休日。
ようやく訪れた、静かな時間。
みるくはエコバッグを両手に持ちながら、ゆっくりと歩いていた。
ラテはスリングの中で、すやすやと眠っている。
小さな寝息。
伝わる体温。
(……この時間があるから、なんとかやれてるのかも)
横断歩道の信号が青に変わる。
歩き出す。
あと少しで向こう側。
――そのときだった。
視界の端で、何かが“異常な速さ”で迫ってくる。
光。
音。
クラクション。
全部が一気に押し寄せた。
「ラテッ!!」
考えるより先に、体が動いた。
スリングを抱きしめる。
守る。
それだけだった。
⸻
――次の瞬間。
世界が、止まった。
音が消えた。
風も止まった。
すべてが白く、静かに凍りつく。
「……みるく」
聞こえた。
確かに、聞こえた。
腕の中のラテが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳が淡く、金色に光っていた。
「泣かないで。怖くないよ」
やさしい声。
いつもそばにあった温もり、そのままの声。
「……ラテ……?」
言葉が震える。
現実が追いつかない。
でも、怖くなかった。
「僕がいるから、大丈夫」
ラテが、そっと頬に触れる。
涙が、勝手にこぼれた。
張りつめていた何かが、一気にほどけていく。
「……うん……」
小さく、頷く。
「ラテがいるなら……どこでもいい」
それは、無意識の本音だった。
ずっと一人で頑張ってきた。
誰にも頼れなかった。
でも、この子だけは、ずっとそばにいてくれた。
だから。
本当に、どこでもよかった。
⸻
光が、弾ける。
落ちる感覚。
そして、気がつくと、草の上に倒れていた。
柔らかい感触。
土の匂い。
見上げると、広がる青空。
「……え……?」
体を起こす。
見渡す。
そこには、ビルも、道路も、信号もなかった。
代わりにあるのは、小川と、木々と、風の音。
「ここ……どこ……?」
現実感がない。
夢みたいな風景。
腕の中を見る。
ラテは、いつも通りの小さなチワワだった。
きょとんとした顔で、こちらを見ている。
「……さっきの……」
思い出そうとすると、ぼやける。
確かに、ラテが喋っていた。
でも今は――
「……夢……?」
自分に言い聞かせるように呟く。
ラテは、小さく「きゅん」と鳴いた。
それだけで、少し落ち着く。
みるくは、ラテをそっと抱きしめた。
「……帰ろうね」
震えそうな声で、それでも笑ってみせる。
「一緒なら……大丈夫だから」
ラテは、静かに目を細めた。
その小さな瞳の奥で、金色の光が、静かに灯る。
(みるくは、やさしすぎる)
この世界は、歪んでいる。
優しい人ほど、奪われるようにできている。
だから――
(僕が、守る)
世界ごと、塗り替えてでも。
(みるくを、幸せにする)
小さな体に宿る、規格外の力。
それはまだ、静かに眠ったまま。
ただひとつ確かなのは。
この瞬間から。
みるくの運命は、大きく動き出したということだった。




