第二話 使いやすい私
朝の満員電車は、昨日よりも少しだけ重たく感じた。
吊り革につかまりながら、みるくはぼんやりと窓に映る自分の顔を見る。
疲れている。分かりやすいくらいに。
(……まだ、火曜日なのに)
肩にかかる鞄がやけに重い。
それは荷物のせいじゃなくて――今日一日の予感のせいだった。
会社に着くと、すでに数人が席についていた。
「おはようございます」
いつものように、控えめに声をかける。
「おはよー」
「おはよう」
返ってくる声は、形式的で、どこか距離がある。
自分がそこに、溶け込めていないことくらい、もうとっくに分かっていた。
パソコンを立ち上げ、メールを確認する。
未処理のタスクが、朝から静かに積み上がっていく。
「みるくさん、おはようございます!」
やけに明るい声が、背後から飛んできた。
振り返ると、そこにいたのは――年下の上司、佐倉だった。
まだ三十にもなっていないはずなのに、管理職を任されていた。
「……課長、おはようございます」
みるくが軽く会釈すると、佐倉はにこやかに笑った。
「いや〜昨日の資料、めちゃくちゃ良かったです!さすがですね〜」
「……ありがとうございます」
言葉だけ聞けば、褒められている。
でも、その“軽さ”が、どこか引っかかる。
佐倉はそのまま、周囲にも聞こえる声で続けた。
「やっぱり、みるくさんがいると安心なんですよね〜。ほんと助かってます!」
周囲の何人かが、ちらりとこちらを見る。
(……まただ)
おだてるのが管理職の仕事だと勘違いして、みんなの前で褒めちぎる。
評価しているようでいて、私の負担軽減を考えていない。
“都合よく使える人材”としてのラベルを貼って、みんなに周知しているだけ。
それを、みるくは知っていた。
午前中は、ひたすら作業に追われた。
データの整理、資料作成、他部署との調整。
気づけば、自分の仕事だけじゃなく、他人の分まで抱え込んでいる。
「ごめん、これお願いできる?」
「ちょっと急ぎで……」
「みるくさんなら安心だから」
断れない。
というより――断り方が分からない。
(……大丈夫。まだ、できる)
そうやって積み上げた仕事は、確実に私の実力を証明しているはずなのに、評価には、なかなか結びつかない。
午後。
会議室から戻ってきた佐倉が、軽い足取りで声をかけてきた。
「みるくさん、ちょっといいですか?」
「はい」
「これ、今日中にまとめてもらっていいですか?」
渡された資料は、明らかにボリュームが多い。
「……今日中、ですか?」
「はい!あ、私ちょっとこのあと用事があって……」
少しだけ、嫌な予感がした。
「子どもの迎えがあるんで、先に上がりますね。すみません!」
悪びれる様子もなく、にこっと笑う。
「……分かりました」
そう言うしかなかった。
「助かります〜!やっぱりみるくさん頼りになりますね!」
その言葉を最後に、佐倉は本当に定時ぴったりで帰っていった。
オフィスに、少しずつ人がいなくなる。
「お先に失礼します」
「子ども迎えに行かないとで……」
「明日、参観日なんで休みます」
当たり前のように交わされる会話。
誰も悪くない。
事情があるのも、分かっている。
小さな子どもがいれば、突発的なことも多い。
熱を出した、怪我をした、体調不良、保育園からの呼び出し、保育参観、発表会、入園式、卒園式、入学説明会、入学式、学校行事、学級閉鎖、長期休暇、卒業式……。
“守るものがある人”の優先順位は、当然だ。
(……うん、分かってる)
理解はしている。
でも――
(……じゃあ、その分は誰がやるの?)
答えは、いつも同じだった。
気づけば、フロアにはほとんど人がいない。
パソコンの画面の光だけが、静かに部屋を照らしている。
時計を見ると、すでに二十一時を回っていた。
キーボードを打つ手が、少しだけ止まる。
(……なんで、私なんだろう)
ぽつりと、心の中でこぼれる。
独身だから?
時間があるから?
融通が利くから?
(……便利、なんだろうな)
否定できなかった。
実際、任せられれば責任を持って終わらせる。
文句も言わない。
トラブルも起こさない。
――使いやすい。
それが、今の自分の立ち位置。
それなのに。
(……出世は、しないんだよね)
苦笑が漏れる。
スキルはある。
実績もある。
でも、評価されるのは佐倉課長のような人。
人付き合いが上手くて、場を回せて、自分を能力以上に、上手に見せられる人。
自分とは、真逆の存在。
(……世渡り、下手だなぁ……)
小さく息を吐いた。
会社を出た頃には、夜の空気が少し冷えていた。
街の灯りが、にじんで見える。
(……疲れた……)
心も、体も。
でも、家のドアを開けた瞬間。
「……ただいま、ラテ」
小さな足音が、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
尻尾をぶんぶん振って、全力で迎えてくれる存在。
それだけで、胸の奥の何かが、ふっとほどけた。
しゃがみこんで、ラテを抱き上げる。
「……今日も、いい子だった?」
ぺろぺろと頬を舐められて、思わず笑ってしまう。
さっきまでの重たい気持ちが、少しずつ軽くなる。
「……ねぇ、ラテ」
ぽつりと呟く。
「私さ……ちょっとだけ……疲れちゃった」
ラテは、何も言わない。
でも、ぎゅっと体を寄せてくる。
それだけで、十分だった。
ソファに座り、ラテを膝に乗せる。
テレビをつける気力もなく、ただ天井を見上げた。
(……このままでいいのかな)
仕事も、生活も、全部。
変えたい気持ちはある。
でも、どう変えればいいのか分からない。
ラテが、小さく「きゅん」と鳴いた。
まるで、“ここにいるよ”と言うみたいに。
みるくは、ラテをぎゅっと抱きしめる。
「……ありがと」
目を閉じると、ほんの少しだけ、安心できた。
――このときは、まだ知らない。
この“当たり前の日常”が、すぐに大きく揺れることを。
そして、ラテと一緒に、まったく別の世界へ踏み出すことになるなんて。
ただ一つ、確かなことは。
どんなに外で消耗しても、ラテがいれば、また少しだけ、前を向けるということだった。




