17
目の前にあったコップを掴み、中身を彼に向かってぶちまける。亜麻色の水から氷が弾け飛び、ストローは椅子の背もたれに当たってどこかへと消えた。
ぼくが好きな黒髪から苦いカフェラテを滴らせながら、大輔は何が起こったのかという顔できょとんとしている。周りの客も彼と同じような顔をしていた。大輔の肩に乗った氷が落ちた。
手にしていたコップを机に叩きつけ、ぼくは椅子から立ち上がる。脚を引きずった床が、やめてくれと訴えるように高く呻く。息をするのでさえやっとだったが、ぼくは大きく息を吸い込み、それから吐き出した。
「ふざけるな、自分のしたことに責任を持て! 親無しなんてかわいそうなことをするな。それに、飲まされた大輔にも非があるだろう!? 責任を取って彼女とその子の面倒を見るべきだ。 医者を目指すお前なら! 仕事が見つかってからでもいい、父親がいないなんて、その子供にどんな将来を負わせる気だ? 手違いで生まれたと、必要のない子だったと母親から説明されるためなのか? この後に及んでぼくを選ぼうとするとは浅はかだな! それにだな、ぼくは……ぼくは、おあいにくさま、筋を通さない男は嫌いなんだ」
殴りつけたテーブルがぼくの怒りを代弁した。拳が痛い。そのままぼくは勢いに任せて荷物をまとめると、行儀悪く店の中を駆け抜けた。モップを手にしたウエイトレスにぶつかってしまったが、ロクな謝罪もできないままに店を飛び出す。間抜けな音で鳴ったドアベルがぼくを見送った。
炎天下。
熱い空気が肺を焼く。逃げるようにして道を走り抜けた。風は吹いているが、それは熱風と形容してもいいくらいで、すぐに汗が滲んできた。
コンクリートを踏み付ける足は何度も縺れそうになる。大学生になってから長らく体を動かさなかったせいだ。悔しさに唇を噛む。しかしそんな余裕は持ち合わせていなかった。すぐさま唇の拘束を解いて息を吸う。追い立てられるように粟立つ背中が、立ち止まることを許さなかった。一瞬彼が追いかけて来ることを期待しかけたが、振り向くこともまたとてつもなく恐ろしく、さらにそれだけの勇気はぼくにはなかった。
耳のそばで風が唸る。目の前の信号が赤に変わる。けれど立ち止まれなかった。視界の端で車が動き出す。ためらわずに地面を蹴った。瞬間、クラクションが鳴り響く。喚き声に責め立てられるが、そんなものに構っていられない。舌打ちをして、蝉がわんわんと泣き叫ぶ中を走る。
これで、よかったんだよな。
不可思議な自問自答。
カフェラテを浴びせといてよく言うよと思ったが、もしその場にそれがなければ今頃彼を散々殴っていただろう。
どれだけ走ったのか、見知った風景が見えてきたことに、ぼくは自然と電池が切れたカラクリのように走りを止めた。しかしすぐに歩き出す。立ち止まる気にはならなかった。
彼の一言が鉛みたいに腹に収まっている。どうにも重すぎて、引きずられるようにその場で泣き崩れてしまいそうになった。脳裏で蘇った彼の言葉は、溶けかけた思考の隙間を的確に抉り出す。痛みに顔をしかめつつ、ぼくはそれを享受する。
乾いた感情で空を見た。雲は複雑な模様を描き出し、薄青をあまり綺麗とはいえない白で汚している。その中で輝く太陽は、アクアマリンに投げかけられたハイライトのようだった。
……太陽に溶けてしまいたい。
ぼくの頭の中にはいつの間にかそんな思案が浮かび上がった。
あの光に飛び込んで、全てが水のように溶けて、跡形もなく消えてしまえたら。
そう思って手を伸ばせども、流石に一億四九六〇キロメートルの距離はぼくには遠すぎた。
諦めて、ようやく帰りついたぼくは届く距離にある玄関のドアを開ける。
散々走ることで持てるエネルギーを使い果たしたぼくは、閉まるドアに背を預けてへたり込んだ。川の清流とまでは行かないが、硬く寄り添う静的な冷たさは火照った背中から熱を奪っていく。その感覚に身を投げ出して、ぼくはまぶたの裏で大輔の声や表情、服装、言葉を思い出そうとした。けれどひとつ、どうしても思い出せないものがあった。
彼はあの時、いったいどんな顔をしてぼくを見てた?
……、思い出せない。
声もなく、ただ静かに雫が頬を伝っていった。




