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 目の前にあったコップを掴み、中身を彼に向かってぶちまける。亜麻色の水から氷が弾け飛び、ストローは椅子の背もたれに当たってどこかへと消えた。

 ぼくが好きな黒髪から苦いカフェラテを滴らせながら、大輔は何が起こったのかという顔できょとんとしている。周りの客も彼と同じような顔をしていた。大輔の肩に乗った氷が落ちた。

 手にしていたコップを机に叩きつけ、ぼくは椅子から立ち上がる。脚を引きずった床が、やめてくれと訴えるように高く呻く。息をするのでさえやっとだったが、ぼくは大きく息を吸い込み、それから吐き出した。


「ふざけるな、自分のしたことに責任を持て! 親無しなんてかわいそうなことをするな。それに、飲まされた大輔にも非があるだろう!? 責任を取って彼女とその子の面倒を見るべきだ。 医者を目指すお前なら! 仕事が見つかってからでもいい、父親がいないなんて、その子供にどんな将来を負わせる気だ? 手違いで生まれたと、必要のない子だったと母親から説明されるためなのか? この後に及んでぼくを選ぼうとするとは浅はかだな! それにだな、ぼくは……ぼくは、おあいにくさま、筋を通さない男は嫌いなんだ」


 殴りつけたテーブルがぼくの怒りを代弁した。拳が痛い。そのままぼくは勢いに任せて荷物をまとめると、行儀悪く店の中を駆け抜けた。モップを手にしたウエイトレスにぶつかってしまったが、ロクな謝罪もできないままに店を飛び出す。間抜けな音で鳴ったドアベルがぼくを見送った。

 炎天下。

 熱い空気が肺を焼く。逃げるようにして道を走り抜けた。風は吹いているが、それは熱風と形容してもいいくらいで、すぐに汗が滲んできた。

 コンクリートを踏み付ける足は何度も縺れそうになる。大学生になってから長らく体を動かさなかったせいだ。悔しさに唇を噛む。しかしそんな余裕は持ち合わせていなかった。すぐさま唇の拘束を解いて息を吸う。追い立てられるように粟立つ背中が、立ち止まることを許さなかった。一瞬彼が追いかけて来ることを期待しかけたが、振り向くこともまたとてつもなく恐ろしく、さらにそれだけの勇気はぼくにはなかった。

 耳のそばで風が唸る。目の前の信号が赤に変わる。けれど立ち止まれなかった。視界の端で車が動き出す。ためらわずに地面を蹴った。瞬間、クラクションが鳴り響く。喚き声に責め立てられるが、そんなものに構っていられない。舌打ちをして、蝉がわんわんと泣き叫ぶ中を走る。


 これで、よかったんだよな。


 不可思議な自問自答。

 カフェラテを浴びせといてよく言うよと思ったが、もしその場にそれがなければ今頃彼を散々殴っていただろう。

 どれだけ走ったのか、見知った風景が見えてきたことに、ぼくは自然と電池が切れたカラクリのように走りを止めた。しかしすぐに歩き出す。立ち止まる気にはならなかった。

 彼の一言が鉛みたいに腹に収まっている。どうにも重すぎて、引きずられるようにその場で泣き崩れてしまいそうになった。脳裏で蘇った彼の言葉は、溶けかけた思考の隙間を的確に抉り出す。痛みに顔をしかめつつ、ぼくはそれを享受する。

 乾いた感情で空を見た。雲は複雑な模様を描き出し、薄青をあまり綺麗とはいえない白で汚している。その中で輝く太陽は、アクアマリンに投げかけられたハイライトのようだった。

 ……太陽(あの中)に溶けてしまいたい。

 ぼくの頭の中にはいつの間にかそんな思案が浮かび上がった。


 あの光に飛び込んで、全てが水のように溶けて、跡形もなく消えてしまえたら。


 そう思って手を伸ばせども、流石に一億四九六〇キロメートルの距離はぼくには遠すぎた。

 諦めて、ようやく帰りついたぼくは届く距離にある玄関のドアを開ける。

 散々走ることで持てるエネルギーを使い果たしたぼくは、閉まるドアに背を預けてへたり込んだ。川の清流とまでは行かないが、硬く寄り添う静的な冷たさは火照ほてった背中から熱を奪っていく。その感覚に身を投げ出して、ぼくはまぶたの裏で大輔の声や表情、服装、言葉を思い出そうとした。けれどひとつ、どうしても思い出せないものがあった。


 彼はあの時、いったいどんな顔をしてぼくを見てた?


 ……、思い出せない。


 声もなく、ただ静かに雫が頬を伝っていった。

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