15
電車を降りて最寄駅を出た所で、大輔に電話をしてみることにした。
お見合いのことを相談したいというのもあったけれど、なんと形容したらいいか分からない痛みから逃れたかった。祖父のおかげでいくらかマシになったとはいえ、今は大輔の声が聞きたい。
ポケットから携帯を取り出し、見知った番号を表示する。何回か電話を接続する音が聞こえる。けれどもそれは予想に反し、すぐにプツっと音を立てて切れてしまった。
まだ学校が忙しいのかと思って見ると、「通話中」の文字が画面の中で光っていた。
誰と話しているのだろう?
不思議に思いながら、彼が話しているらしい電話が終わるまで待つことにする。家に帰ってからまた掛け直そうと思ったところで、ぼくは期待した手の温かさに染まった携帯を、するりとポケットに入れた。
家にたどり着いた。
アールヴヘイムと名の付いた安いアパートの一室が、ぼくを待っていた。夏樹の受験勉強を邪魔しないという名目で借りたその部屋は、夕陽を浴びて紅い残光を受け入れている。
「ただいま」
荷物を置いたぼくは、まるで泣き腫らしたような赤に染まる部屋に向けて呟いた。
シャワーを浴びてから、机の上に出してあった携帯をおもむろに手に取る。空いている方の手で髪を拭きながら、ぼくはふと大輔のことを考える。
先ほどの着信はさすがにもう終わっているだろう。まだ忙しかったらどうしようかと思いながらも、ぼくは優しく触れるように着信のボタンを押した。
彼は今、どこでなにをしているんだろうな。
三回のコール音が、たっぷりと余韻を残して響く。やがて途切れたそれは、聞き慣れた声へと変わった。
「はい、もしもし。椎名ですけど」
「大輔? あ、その、今電話しても大丈夫だったか?」
瞬間。
大輔が息を呑んだような気配がした。けれどすぐに、電波の向こう側にいる彼は笑みを零す。
「うん、平気。どうしたの?」
「いや……その、さっき電話したんだけど、気付かなかった?」
「あれ、本当? ごめんね」
大輔は不思議がるようにそう言って、謝罪の言葉を口にした。ぼくはほんの小さな喜びを届けるように笑う。
「謝らなくたっていいよ。今掛け直したんだ、大輔が通話中だったから」
「そう。それで、何か用だったの?」
開き直るように言うと、優しげな声音が耳に流れ込んでくる。しかしぼくはそこで、彼に婚約者のことをなんと言うべきか迷った。
「あ、いや、その……次、いつ会える?」
次第に距離が空きつつある彼に、おこがましいかも知れない質問を投げ掛ける。大輔は悩むように唸るが、すぐにふんわりと返してくれた。
「そうだな、明日――明日なら大丈夫」
どくりと心臓が跳ねる。そんなに早く会えるだろうとは思わなくて、嬉しさについ頬が緩むのを自覚した。
「なぁ、シオン」
束の間、喜びの隙間にするりと声が滑り込む。
「俺も話したいことがあるんだ」
「え?」
髪を拭く手を止めた。ぼくの方にも話すべきことがあるとはいえ、一体なんだと言うのだろうか。ぼくは眉をひそめた。
「話したいことって、なに」
「それは、明日言うよ」
きっぱりとした声。いや、断定するというよりはやけに突っ張った、灰色の石みたいに硬い声音だった。
つと、携帯にぶら下がるストラップに視線を落とす。大輔と一緒に行ったテーマパークでおそろいにしようと買ったものだ。黒いネズミをモチーフにした金属板のストラップは、目先で不安げに揺れている。
なぜそんな風に、なにかに怯えるような声でそう言ったのだろうか。気のせいか? ぼくはすぐに、頭をもたげた疑念を振り払う。
「うん、分かったよ。明日、いつもの場所だろ?」
気丈に頷いて、少し気まずいような雰囲気をかき消すように笑ってみた。向こうも早く話を切り上げたいと思っていたのか、彼は「ああ。よろしく、また明日な。おやすみ」と言って、性急に電話を切ってしまった。
「あ……」
大輔がいない部屋に広がる規則正しい機械音は、人が亡くなる瞬間の心電図の音に似ていた。
「……おやすみ、大輔」
スプーンひとさじくらいの違和感を胸に抱えながら、携帯を机の上に置く。目的を達成したその機体は、使命を果たして死んだ人のように冷たかった。
その後、ぼくはありあわせのものでパスタを作って食べ、それからレポートの仕上げに取り掛かることにした。




