第3部 第13話 水門の反対側
「……これ、今も動いてるのかい?」
職人のドーラが、目の前の水門を見上げて言った。
「ええ。昨日も実際に動きました」
ネリが答えると、ドーラは大きくため息をついた。
「とんでもないものを見つけてくれたねえ」
……いや。
見つけたのは俺たちだけど。
壊したわけじゃないぞ?
俺は何となく、身体を縮めた。
すると、ドーラがこちらを見た。
「安心しな。あんたを責めてるわけじゃないよ」
……あ。
よかった。
「むしろ、よく無事に帰ってきたもんだ」
……。
それは、俺もそう思います。
◇
帰り灯の祭りから一夜明けた朝。
俺たちは再び、レムナの地下水域を訪れていた。
昨日は休息にあてたおかげで、身体の調子も随分いい。
今なら短い脚を4本維持しても、それほど負担は感じなかった。
もちろん、採石場で失った分が全部戻ったわけじゃないけどな。
今回の目的は、地下水門の構造を調べること。
そのために、ネリが専門の職人を連れてきた。
それがドーラだった。
以前、俺に弾性を使った攻撃方法を教えてくれた、あの工房の親方だ。
「まさか、あの変な槍を作ってた魔獣が、こんな大仕事にも関わってるとはね」
……変な槍。
もう少し格好いい言い方、ないですか。
「ふん。ノアの技は、なかなかのものだぞ」
ルナが横から口を挟んだ。
ドーラは豪快に笑う。
「知ってるよ。あれから少しは上達したかい?」
俺は触手を1本伸ばした。
先端を固め、途中を曲げ、そのまま元へ戻す。
以前より、ずっと滑らかに動いた。
ドーラが目を細める。
「へえ。やるじゃないか」
……お。
褒められた。
「でも、ここで試し撃ちはするんじゃないよ」
……しませんって!
俺が触手を振ると、ジェドまで笑い出した。
まったく。
この町の人たち、随分遠慮がなくなったよな。
……まあ、嫌いじゃないけど。
◇
点検通路を進み、例の水門へ向かう。
途中では、青灯クラゲが相変わらず静かに泳いでいた。
青白い光が、暗い水面にいくつも浮かんでいる。
ルナは立ち止まって、しばらく眺めていた。
「……やはり、見事だな」
……だな。
俺も少し嬉しくなった。
昨日の祭りとは違う、静かな光。
地上では人が灯籠を浮かべ、地下では小さな魔物が自分で光っている。
何だか不思議な町だ。
「おーい、2人とも!」
前を歩くジェドが振り返った。
「景色を見るのは帰りにしようぜ!」
……あ。
すみません。
ルナが何食わぬ顔で歩き出す。
「我は少し確認していただけだ」
……何を?
俺はそう聞きたかったが、やめておいた。
きっと、ろくな答えが返ってこない。
俺たちが水門へ到着すると、ドーラは早速、壁に取りつけられた古い装置を調べ始めた。
太い鎖。
錆びついた滑車。
その奥には、大きな歯車が半分ほど見えている。
……おお。
こんな仕組みがあったのか。
前に来たときは、水門の方ばかり見ていて気づかなかった。
ドーラは歯車へ手を伸ばした。
ただし、触る直前で止める。
「……妙だね」
ネリが近づく。
「何か分かりました?」
「この鎖、左右で張り方が違う」
……鎖?
俺は目を向けた。
確かに、右側の鎖はぴんと張っている。
一方、左側は少し垂れ下がっていた。
「本来は両方で門を支える仕組みなんだろうけど、片方がまともに働いてない」
ドーラは歯車の奥を覗いた。
「しかも、留め具が途中で噛んでるね」
……留め具?
俺は少し考えた。
要するに、水門を固定する仕組みが壊れているのか。
「だから、水の力が変わるたびに門が動いちまうんだよ」
……ああ。
そういうことか。
ネリが図面へ何かを書き込む。
「それなら、逆流の原因は故障した水門ということですか?」
「原因の1つではあるだろうね。ただ、何が門を動かすほど水圧を変えてるかは別問題だ」
……。
なるほど。
水門は壊れている。
でも、水の流れが急に強くなる理由までは分からない。
そして、その向こうには巨大な魔物がいる。
……うーん。
まだ、謎が多いな。
◇
「問題は、あの留め具だね」
ドーラが指したのは、水門の側面にある小さな隙間だった。
水面より少し下。
そこに、錆びた金属の棒が斜めに挟まっている。
「本当なら、あの棒が溝へ収まって門を支えるんだ。でも、今は途中で止まってる」
……なるほど。
俺は水の中へ目を向けた。
隙間は狭い。
人間の手では、到底届かないだろう。
……あ。
嫌な予感がした。
ドーラが俺を見た。
「ノア」
……はい。
「ちょっと手を貸してくれないかい?」
……ですよね。
俺は触手を持ち上げた。
「……いい」
ネリがすぐに口を開く。
「ただし、門の動きを止める準備が先です。ノアに直接支えさせるのは危険ですから」
……おお。
ありがたい。
さすがネリ。
ちゃんと考えてくれてる。
ドーラも頷いた。
「もちろん。あんな石の塊を身体で受け止めろなんて言わないよ」
彼女は荷物から太い木材と金属製の金具を取り出した。
「仮止めの支えを入れる。ジェド、手伝っておくれ」
「おう!」
2人は通路の端へ向かい、道具を組み立て始めた。
俺とルナは少し離れたところで、その様子を眺めていた。
……なるほど。
まずは、人間の道具で水門を支える。
そのあと、俺が狭い場所へ入って留め具を直す。
……うん。
これなら、無茶な仕事じゃない。
ルナも同じことを考えていたらしい。
「……ノア」
……ん?
「今回は、1人で全部やろうとするでないぞ」
俺は少し驚いた。
……え?
ルナは水門を見上げたまま続ける。
「貴様は隙間へ入れる。我は外から周囲を見られる。職人たちは門の仕組みを知っておる」
……ああ。
そうだな。
「できる者が、それぞれの仕事をすればよい」
……なるほど。
俺は小さく身体を上下させた。
以前なら、こういう場面では俺が何とかしなきゃと思っていたかもしれない。
でも今は、違う。
俺にしかできないことがある。
ルナにしかできないこともある。
そして、ドーラたちの知識がなければ、そもそも何を直せばいいかさえ分からない。
……うん。
いいじゃないか。
こういうの。
俺はルナへ触手を伸ばした。
「……まかせた」
ルナが笑う。
「うむ。任せよ」
◇
準備が整うまで、しばらくかかった。
ドーラとジェドが仮の支えを設置し、ネリが水位の変化を記録する。
俺はその間、水門のそばで流れを確かめていた。
《水流感知》。
……。
今は穏やかだ。
水門の下から、細い水が流れている。
ただ、時折その向きが変わる。
……ん?
俺は少し首を傾げた。
水門の近くでは、水が複雑に動いている。
しかし、流れの中心は、いつも同じ場所にあるわけじゃなかった。
右へ。
左へ。
そして、奥へ。
……妙だな。
俺は水面の向こうを見た。
黒い隙間。
その奥には、まだ見えない空間が続いている。
……あの大きな魔物。
今も、いるんだろうか。
そう考えたところで、ドーラの声がした。
「ノア! 準備できたよ!」
……お。
いよいよか。
俺はネリの方へ戻った。
彼女は命綱を差し出した。
「前と同じ合図でいくわよ。2回で停止、3回で帰還。今回は水門のすぐ横だけ」
……了解。
俺は身体の中央へ輪を作り、縄を通した。
何度か引いて、外れないことを確かめる。
さらに、身体の先端へ細い触手を作った。
《構造形成》。
先端には《硬質外皮》。
押し込むための、小さな鉤のような形だ。
……よし。
準備完了。
「無理だと思ったら、すぐ戻っておいで」
ドーラが言った。
「金具なんて、後からでも直せるんだから」
……了解。
俺は水中へ身体を滑り込ませた。
◇
水門の横は、想像していたより狭かった。
石壁と金属の隙間。
その奥に、斜めに傾いた留め具がある。
……お。
見えた。
俺は触手を伸ばした。
水の中では、身体が少しずつ押される。
《水流感知》。
……右から流れてる。
だったら、左へ身体を寄せた方が安定するな。
俺は石壁へ触手を固定した。
《粘着性》。
そのまま、細い先端を留め具へ近づける。
……よし。
届いた。
俺は金具を軽く押した。
――カチッ。
……ん?
動いた。
ほんの少しだが、確かに。
俺はもう1度押してみた。
……硬い。
今度は、ほとんど動かなかった。
どうやら、奥で別の部品が引っかかっているらしい。
……困ったな。
俺は身体を少し曲げ、別の方向から金具を見た。
そして、気づいた。
……あ。
これ。
押す方向が違うんじゃないか?
留め具は、斜めに傾いている。
そのまま押せば、余計に溝へ噛み込んでしまう。
一度、横へ動かしてから戻した方がいい。
……よし。
俺は先端を鉤の形に変えた。
金具の端へ引っかける。
《粘着性》。
そして、ゆっくり横へ引いた。
――ギギッ。
……っ。
重い!
だが、少し動く。
……もう少し。
俺は身体の根元へ力を込めた。
《弾性組織》。
引く力を補助する。
……よし!
――カチンッ!
金具が外れた。
……おお!
やった!
と思った、その瞬間。
――ドゥン。
……っ!?
水門が揺れた。
……まずい!
俺は反射的に触手を引いた。
次の瞬間、水が一気に押し寄せる。
――ゴボッ!
……っ!
強い!
今までの流れとは、まるで違う。
俺の身体が、水門の奥へ引っ張られた。
……くそっ!
《水流感知》。
流れの方向を読む。
だが、複雑すぎる。
右から来たと思ったら、次の瞬間には下から押し上げられる。
……待て待て。
このままじゃ、石壁へ叩きつけられる!
俺は身体の中央へ小さな空洞を作った。
水を取り込む。
《弾性組織》。
そして、横向きへ噴射!
――シュバッ!
……っ!
身体が横へ滑った。
石壁へ衝突する寸前で、軌道が変わる。
……よし!
だが、まだ止まれない。
今度は水門の側面へ流される。
……くそ。
もう1度!
俺は反対側へ小さな噴出口を作った。
水を取り込み、短く噴き出す。
――シュッ!
……おお!
曲がれた!
今度は、水門から離れる方向へ。
……よし。
そのまま、もう1度。
噴出口の向きを変える。
――シュバッ!
身体が、石壁の陰へ滑り込んだ。
……っ!
止まった。
俺は《粘着性》で壁へ固定した。
……ふう。
危なかった。
でも。
……今の。
俺、結構すごい動きしてなかったか?
水を噴き出して、急に方向を変える。
しかも、連続で。
今までは、噴射するたびに身体を整え直していた。
でも、さっきは違った。
流れを感じながら、その場で噴出口を作り直した。
右。
左。
そして、後ろ。
……ああ。
できるんだ。
《構造形成》を、こうやって使えば。
水の中でも、もっと自由に動ける。
俺は少し嬉しくなった。
ただし。
喜んでいる場合じゃない。
俺はすぐに命綱を引いた。
3回。
帰還の合図だ。
◇
水面へ戻ったとき、通路ではドーラたちが慌ただしく動いていた。
「ノア!」
ルナが真っ先に駆け寄ってくる。
「無事か!」
俺は身体を持ち上げた。
「……へいき!」
ルナは俺を確かめるように見つめた。
それから、小さく息を吐く。
「……ならばよい」
その横で、ドーラが水門を睨んでいた。
「……今の揺れで、仮の支えに負担がかかったね」
……え?
俺は顔を上げた。
確かに、支えとして設置した木材の一部が、少し曲がっている。
……まずい。
俺が金具を動かしたせいで、水門が揺れたのか?
そう思ったが、ドーラは首を振った。
「いや。あんたが触ったのは、留め具の先端だけだ。門を動かしたのは、別の力だよ」
……別の力。
ネリが記録板を見ている。
「さっき、水位が急に上がりました。その直後に、また下がっています」
……ああ。
やっぱり。
俺は水門を見た。
あの向こうで、何かが動いている。
そして、水の流れまで変わっている。
……もしかして。
俺は少し考えた。
あの巨大な魔物。
そいつが水を動かしているのか?
いや。
今の段階では、まだ分からない。
ただ。
……1つ、気になることがある。
俺は水門の横へ目を向けた。
さっきまで斜めに引っかかっていた金具。
俺が外した部分は、今も少し浮いたままだ。
……あ。
あれ。
ちゃんと戻してない。
俺はドーラを呼んだ。
「……そこ」
彼女が近づいてくる。
「ん?」
俺は金具を指した。
「……うごいた」
ドーラは少し屈み込み、様子を確かめた。
「……なるほど。留め具は外れたんだね」
俺は頷いた。
「なら、あと少しで溝へ戻せるかもしれない」
……お。
本当?
ドーラは仮の支えを確かめた。
「ただし、次の揺れが来る前に固定しないと危ない」
……なるほど。
俺は少し考えた。
今の俺なら、もう1度あそこへ行くことはできる。
だが、水門が再び揺れたら、また強い流れが来るかもしれない。
……どうする。
すると、ルナが静かに言った。
「……ノア」
……ん?
「今度は、我も手伝おう」
……え?
俺は顔を上げた。
ルナは水門の上部へ目を向けている。
「貴様が金具を押し込む間、我が支えの位置を保つ」
……いや。
でも、あの水門を支えるのは無理だろ。
俺が触手を振ると、ルナは鼻を鳴らした。
「誰が、水門そのものを支えると言った」
……え?
「仮の支えだ。ずれた部分を、我の《衝撃》で押し戻せばよい」
……あ。
なるほど!
ドーラも、少し驚いたようだった。
「……確かに。あの位置なら、横から少し力を加えれば戻せそうだ」
彼女は仮の支えを指した。
「ただし、強すぎると壊れる。ほんの少しでいい」
「承知した」
ルナは自信たっぷりに頷いた。
……よし。
それなら、できそうだ。
俺はもう1度、水門へ目を向けた。
今度は、1人じゃない。
ルナが外から支えてくれる。
ドーラが位置を指示する。
ネリが水位を監視する。
ジェドが命綱を持つ。
……うん。
やってみよう。
◇
2度目の挑戦は、最初よりずっと慎重だった。
俺は水門の横へ身体を伸ばした。
《水流感知》。
……よし。
今は穏やかだ。
俺は金具の位置を確かめる。
斜めになっていた留め具は、確かに少し浮いている。
……これを、溝へ戻す。
俺は触手の先端を、平たい板の形へ変えた。
《硬質外皮》。
そのまま、留め具へ当てる。
……よし。
ただし、まだ押さない。
俺は命綱を1回、軽く引いた。
合図を送る。
しばらくして、外側から返事が来た。
……よし。
準備はできた。
俺は触手へ力を込めた。
――ぐっ。
金具が、少し動く。
……もう少し。
そのとき。
――ドゥン。
……っ!
また振動。
水の流れが変わる。
……来る!
俺は反射的に身体を縮めかけた。
だが、その瞬間。
通路の上から、ルナの声が響いた。
「《衝撃》!」
――ドンッ!
仮の支えが、横から短く叩かれた。
ずれていた木材が、元の位置へ戻る。
それと同時に、水門の揺れがわずかに小さくなった。
……今だ!
俺は金具を押し込んだ。
《弾性組織》。
根元へためた力を、先端へ伝える。
――ガキンッ!
……っ!
金具が動いた。
溝へ入り込む。
そして。
――カチンッ!
小さな音が、水の中へ響いた。
……入った!
俺はすぐに触手を引いた。
その瞬間。
水門が、もう1度揺れた。
だが。
……あ。
今度は、さっきほど動かない。
《水流感知》で確かめる。
水は流れている。
しかし、水門の隙間から噴き出すような急激な流れは弱まっていた。
……おお。
もしかして。
成功?
俺は少しだけ、水門を見つめた。
すると。
暗い水の向こうで、大きな影が動いた。
……っ!
あいつだ。
昨日見た、巨大な魔物。
黒緑色の鱗。
長い身体。
大きな背鰭。
その影が、水門の向こうをゆっくり横切っていく。
……おい。
近いな。
俺は反射的に身体を低くした。
だが、魔物は襲ってこなかった。
ただ、門の前を泳いでいる。
その大きな身体が水を押し、周囲へ複雑な流れを生み出していた。
……あ。
俺は気づいた。
水門の向こうから来る流れ。
それは、魔物が動くたびに少しずつ変わっている。
……つまり。
あいつが近づくと、流れが強くなる?
いや。
それだけじゃない。
今は魔物が近くにいても、水門は大きく揺れていない。
さっきまでとは違う。
……なるほど。
水門の故障と、魔物の動き。
両方が重なって、あの異常な流れを作っていたのかもしれない。
俺は水門を見た。
固定された留め具。
動きが小さくなった石板。
……よし。
少なくとも、今は安定している。
俺は命綱を引いた。
3回。
帰還の合図だ。
◇
「……やったね!」
水面から戻ると、ドーラが満面の笑みで迎えてくれた。
「留め具が、ちゃんと溝へ戻ってるよ!」
……おお!
本当に?
俺は身体を持ち上げた。
ネリも水位を確認している。
「流れも落ち着いています。少なくとも、さっきまでの急な逆流は見られません」
……よし!
俺は思わず、触手を高く上げた。
ルナも隣へ来た。
「ふん。見事だったな、ノア」
……ルナもな!
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
すると、ドーラが笑った。
「まったく。あんたたち、息が合ってるねえ」
……まあな。
俺は少し得意になった。
ただし、ネリはすぐに表情を引き締めた。
「これで完全に直ったわけではありません。ほかの部品も古くなっていますし、水門の向こう側もまだ調べられていません」
……ああ。
そうだな。
ドーラも頷く。
「今回は応急処置さ。仮の支えもあるし、正式な修理にはもっと大きな道具が必要だね」
……なるほど。
それなら、ひとまずは成功ってところか。
俺は水門へ目を向けた。
さっき見た巨大な魔物。
あいつは、今も向こう側で泳いでいるんだろうか。
そして。
どうして、あの場所へ何度も近づいていたんだろう。
……気になるな。
だが、今は無理に調べるつもりはない。
水門の状態が安定したのなら、次はもっと安全な方法で向こう側を調べられるかもしれない。
……それに。
俺自身も、もう少し強くなれそうだ。
さっき、水中で連続して方向を変えたとき。
今までより、ずっと自由に身体を動かせた。
水を取り込む。
噴き出す。
途中で形を変える。
そして、また別の方向へ。
……あれだ。
あの動きが、もっと自然にできるようになれば。
きっと、今まで戦えなかった相手にも通用する。
俺は少しだけ、身体を揺らした。
……楽しみだな。
◇
帰り道。
俺たちは地下の回廊を、ゆっくり歩いていた。
ネリたちは先に地上へ戻り、修理の報告をまとめるらしい。
俺とルナは、少しだけ青灯クラゲを眺めてから帰ることにした。
石柵の向こうには、相変わらず青白い光が漂っている。
水門の流れが安定したせいか、今日はクラゲたちの動きも穏やかだった。
……綺麗だな。
俺はしばらく眺めていた。
すると、ルナが隣へ座った。
「……ノア」
……ん?
「今日の貴様は、なかなか頼もしかったぞ」
……え?
俺は少し驚いた。
ルナは前を向いたまま続ける。
「水の中での動きが、随分と速くなった」
……ああ。
そうだな。
自分でも、ちょっと驚いてる。
「しかも、ただ速いだけではない。途中で方向を変え、危険な場所から離れられるようになった」
……お。
よく見てたな。
俺は少し嬉しくなった。
ルナは、静かに笑った。
「我も、負けてはおれぬな」
……ああ。
そうだな。
俺は触手を伸ばした。
「……いっしょ」
ルナが首を傾げる。
「む?」
俺はもう1度、短く言った。
「……つよく」
ルナは少し黙った。
それから、いつものように胸を張った。
「当然であろう!」
……はは。
そう来なくちゃな。
俺は少し笑った。
そのとき。
遠くの水面で、青い光がゆっくり揺れた。
……ん?
俺は目を向けた。
クラゲの群れが、少しだけ左右へ分かれている。
そして、その間を。
黒い影が、静かに通り過ぎていった。
……あ。
あいつだ。
巨大な魔物。
黒緑色の鱗。
大きな背鰭。
……でも。
今度は、水門へ近づいていない。
ただ、広い水域をゆっくり泳いでいる。
まるで、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに。
俺はしばらく、その姿を見つめていた。
すると、ルナが小さく言った。
「……妙だな」
……ん?
俺は顔を向ける。
ルナは水面の影を見つめたまま続けた。
「あの大物、我らを見ても襲ってこぬ」
……ああ。
確かに。
「しかも、さっきまでは水門の近くにおったのに、今は離れておる」
……そうだな。
俺は少し考えた。
水門が壊れていたとき。
魔物は、何度もその近くへ来ていた。
でも、留め具を直してからは、離れていった。
……偶然か?
それとも。
……何か、理由があるのか?
俺はもう1度、水面へ目を向けた。
巨大な影は、青い光の奥へゆっくり消えていった。
……分からない。
まだ、何も。
でも、1つだけ言えることがある。
あいつは、俺たちを見ても襲ってこなかった。
それどころか、こちらへ近づこうともしなかった。
……だったら。
少なくとも、今すぐ敵だと決めつける必要はないよな。
俺は静かに身体を低くした。
ルナも隣で、しばらく水面を見つめていた。
◇
地上へ戻ると、レムナの町には夕方の賑わいが戻っていた。
港では荷船が行き交い、屋台からは焼き魚の匂いが漂っているらしい。
ルナの耳が動いた。
……あ。
分かりやすいな。
俺は触手を揺らした。
「……さかな?」
ルナがこちらを見る。
「……む?」
俺は屋台を指した。
「……たべる?」
ルナは一瞬、目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「うむ! よく分かったな!」
……そりゃ分かるよ。
何日一緒にいると思ってるんだ。
俺は少し笑いながら、屋台へ向かった。
途中で、荷物につけた銀色の鈴が鳴った。
――ちりん。
隣からも、同じ音が返ってくる。
……うん。
今日も、無事に帰ってこられた。
それに、また少し強くなれた。
水の中で、連続して方向を変える動き。
あれは、きっとこれから役に立つ。
次にあの巨大な魔物と向き合うときも。
……いや。
できれば、戦わずに済むといいんだけどな。
俺は水路の向こうへ目を向けた。
地下には、まだ広い世界が残っている。
そして、俺たちはその入口を、ようやく少しだけ開いたところだった。




