第3部 第14話 怪物の背中
巨大な魔物を前にして、俺が最初に考えたのは、どうやって倒すかではなかった。
……これ、助けた方がいいんじゃないか?
目の前を横切る黒緑色の巨体。
荷舟ほどもある身体に、分厚い鱗。大きな背鰭が水面を割るたび、周囲へ波が広がっていく。
そんな化け物の背中に、俺は今から近づこうとしている。
……いや。
自分でも、なかなか無茶なことを考えてるとは思う。
でも。
あの傷を見てしまったら、放っておけなかった。
◇
「水門の応急修理は、今のところ問題なさそうね」
地下回廊で、ネリが測定棒を引き上げた。
レムナの古い水利施設。
昨日、俺たちは壊れていた留め具を元へ戻し、水門が勝手に動かないよう応急処置を施した。
今日は、その後の状態を確かめに来ている。
同行しているのは、ネリ、ジェド、そしてルナ。
ドーラは地上で本格修理のための部品を準備しているらしい。
「水位の変化も小さくなったし、急な逆流も起きてない」
ジェドが水面を見下ろした。
「これなら、しばらくは持ちそうだな」
……よかった。
俺は少し安心した。
昨日、あれだけ苦労して直したんだ。
すぐに壊れたら、さすがに落ち込むところだった。
「ただし、古い設備だから油断はできないわ」
ネリが図面を畳む。
「次は向こう側の水路を調べたいところだけど、まだ通れる道が分からないのよね」
……ああ。
水門の向こうか。
俺は黒い水面へ目を向けた。
その奥には、あの巨大な魔物がいる。
昨日は少し姿を見ただけだったが、今日はもっと詳しく観察してみたい。
どんな生き物なのか。
どうして何度も水門へ近づいていたのか。
……気になるよな。
そんなことを考えていると、ルナが隣で耳を立てた。
「……来るぞ」
……ん?
俺は顔を向けた。
「何か、大きなものが動いておる」
俺はすぐに水へ触手を伸ばした。
《水流感知》。
……あ。
本当だ。
奥から、大きな水の動きが伝わってくる。
小魚とは比べものにならない。
水全体が、ゆっくり押し出されるような感覚。
……あいつか!
俺は水面を見つめた。
最初に現れたのは、大きな背鰭だった。
黒緑色の鱗が水面を割り、続いて長い背中が姿を見せる。
……おお。
やっぱり、でかい。
離れていたときも大きいと思ったけど、こうして近くで見ると迫力が違う。
ジェドが小さく息を呑んだ。
「……こいつが例の大物か」
ルナは身体を低くしている。
だが、すぐに攻撃する様子はなかった。
「……妙だな」
……ん?
俺はルナを見た。
「昨日より、動きが鈍い」
……え?
俺はもう1度、水面へ目を向けた。
巨大な魔物は、水門の近くをゆっくり泳いでいた。
確かに、速くはない。
だが、それだけなら大きな生き物だからかもしれない。
……いや。
待て。
俺は目を凝らした。
大きな背鰭。
そのすぐ後ろ。
黒緑色の鱗の一部が、不自然に剥がれている。
……あれ?
傷?
俺は身体を少し持ち上げた。
その瞬間、魔物が向きを変えた。
水面から、身体の左側が見える。
……っ。
俺は動きを止めた。
大きな鰭の付け根に、何かが絡みついている。
黒い輪のようなもの。
その周囲では鱗が剥がれ、傷口が赤くなっていた。
……おい。
あれ、何だ?
◇
「……金属?」
ネリが目を細めた。
俺が指した場所を確かめ、驚いたように声を上げる。
「……本当だ。何か巻きついてる」
ジェドも身を乗り出した。
「ありゃ、鉄輪じゃねえか?」
……鉄輪?
俺は魔物の身体を見た。
大きな左鰭の付け根。
そこに、歪んだ輪のようなものが食い込んでいる。
金属は錆びて黒くなっていたが、一部に鈍い光沢が残っていた。
……なるほど。
あんなものが絡まっていたら、そりゃ痛いだろうな。
魔物は水門の近くへ身体を寄せた。
そして、左側を石壁へ押しつける。
――ゴリッ。
鈍い音がした。
続いて、もう1度。
――ゴリゴリッ。
……あ。
俺は思わず身体を持ち上げた。
こいつ。
傷を石壁へ擦りつけてるのか?
「……なるほどな」
ジェドが呟いた。
「水門に何度もぶつかってた理由、これかもしれねえ」
……ああ。
俺も、そう思った。
もちろん、すべての原因がこれだとは限らない。
水門はもともと壊れていたし、あの巨大な魔物がどれほど前からここにいるのかも分からない。
でも。
少なくとも今、こいつが石壁へ近づいている理由は分かった気がする。
……痛いんだ。
あの鉄輪を外したいのかもしれない。
ルナが静かに言った。
「……随分と不自由そうだな」
……ああ。
俺は小さく頷いた。
魔物がもう1度、身体を石壁へ擦りつける。
そのたびに、鱗が少し剥がれていた。
……まずいな。
あのままじゃ、傷がどんどん大きくなる。
俺は思わず、水中へ触手を伸ばした。
すると、ネリが声を上げた。
「ノア、待って」
……あ。
俺は動きを止めた。
「何をするつもり?」
……うーん。
説明が難しいな。
俺は魔物の鰭を指した。
次に、自分の触手を輪の形へ曲げる。
そして、その輪を外すような動きをした。
「……とる」
ネリは一瞬、目を丸くした。
「……あれを外してあげたいの?」
俺は頷いた。
ジェドが腕を組んだ。
「気持ちは分かるが、相手が相手だぞ。あの身体で暴れられたら、ひとたまりもねえ」
……まあ。
それはそうだ。
俺も、正面から組みつこうとは思っていない。
あんな大きな魔物を、力で押さえつけられるわけがないからな。
……でも。
俺には、細い隙間へ入れる身体がある。
水の流れを読むこともできる。
そして、危険なときには一気に離れる方法だって、少しずつ覚えてきた。
……試すことくらいは、できるんじゃないか?
俺が水面を見つめていると、ルナが口を開いた。
「……ノア」
……ん?
「助けたいのであろう?」
俺は頷いた。
ルナは少し考え、それからネリへ向き直った。
「ならば、まずは近づけるかどうかだけ確かめてはどうだ?」
ネリが眉を寄せる。
「危険よ」
「承知しておる。だからこそ、最初から無理に外そうとはせぬ。魔物が嫌がるようなら、すぐ退く」
……ああ。
それだ。
俺は触手を持ち上げた。
まずは、様子を見る。
それで駄目なら諦める。
無理に傷口へ触って、余計に暴れさせたら意味がない。
ネリはしばらく考えていた。
やがて、大きく息を吐く。
「……分かった。ただし、条件があるわ」
……お。
俺は顔を上げた。
「縄が届く範囲だけ。魔物を追いかけないこと。それから、こちらが帰還の合図を送ったら絶対に戻ること」
……了解。
「ジェド、縄を準備して」
「おう」
ジェドが荷物へ手を伸ばした。
ルナは俺を見た。
「……貴様なら、できるかもしれぬ」
……おう。
やってみる。
俺は自分の身体を確かめた。
今の俺に、人間のような腕力はない。
でも。
腕力が必要ない方法だって、きっとある。
◇
水へ入る前に、俺は身体の形を変えた。
中央を厚く残し、命綱を通す輪を作る。
その前方には、小さな触手を2本。
後ろ側には、水を噴き出すための空洞。
……よし。
今回は、急な移動にも対応できるようにしておく。
ジェドが命綱を確かめた。
「いいか。危なかったら、すぐ戻れよ」
……分かってる。
俺は触手を持ち上げた。
すると、ルナが水際へ近づいてきた。
「……ノア」
……ん?
「相手の動きをよく見るのだぞ。大きな生き物ほど、わずかな動きでも周囲への影響が大きい」
……ああ。
そうだな。
俺は頷いた。
ルナは少しだけ目を細めた。
「それに、あれほど大きくとも、痛みを感じぬわけではあるまい」
……。
……そうだな。
俺はもう1度、魔物を見た。
身体は大きい。
鱗も厚い。
あの鋭い鰭なら、普通の魔物くらい簡単に切り裂けるかもしれない。
でも。
傷つけば、痛い。
苦しければ、逃げようとする。
……当たり前のことだよな。
俺は小さく頷き、水へ入った。
◇
水中へ潜ると、巨大な魔物の存在感はさらに増した。
黒緑色の身体が、ゆっくり動いている。
《水流感知》。
鰭が動くたび、大きな水流が生まれる。
尾を振れば、水が押し出される。
……すごい。
俺が全力で噴射移動するときとは、規模が違う。
あいつにとっては、ただ身体を動かしているだけなんだろう。
でも、周囲の水がまとめて押し流される。
……さて。
どう近づくかな。
俺は少し距離を取った。
魔物の左側。
傷のある鰭へ近づきたい。
しかし、真正面から行けば警戒されるだろう。
俺は身体を細くし、水の流れへ乗った。
……ゆっくり。
急に動かない。
触手も、必要以上に広げない。
魔物は、まだ俺に気づいていないようだった。
……よし。
少し近づけた。
さらに、もう少し。
そのとき。
大きな瞳が、こちらへ向いた。
……っ。
目が合った。
俺は反射的に動きを止めた。
魔物の目は、俺の身体より大きい。
暗い金色の瞳が、じっとこちらを見ている。
……おいおい。
近くで見ると、すごい迫力だな。
俺は少しだけ、触手を持ち上げた。
……こんにちは。
もちろん、言葉が通じるとは思っていない。
ただ、敵意がないことくらい伝わればいいなと思った。
だが。
――ゴォッ!
突然、水が大きく動いた。
魔物が身体をひねったのだ。
……っ!
俺は慌てて姿勢を変えた。
《水流感知》。
左から、強い流れ。
俺は身体を細くし、水を受ける面積を減らした。
続いて、後方へ短く噴射。
――シュッ!
……よし!
何とか距離を取れた。
だが、魔物はさらに身体を動かした。
大きな左鰭が、水を切る。
……まずい!
俺は反射的に触手を広げた。
《緩衝膜》。
柔らかな層を作り、その下へ《硬質外皮》を薄く重ねる。
直後。
――ドンッ!
強い水圧が、身体へ叩きつけられた。
……っ!!
重い!
直接殴られたわけじゃない。
ただ、鰭が生んだ水流を受けただけだ。
それなのに、身体が大きく押し流される。
……くそっ!
俺は抵抗をやめた。
無理に受け止めれば、身体が壊れる。
だったら。
……流される方向を、変える!
俺は《緩衝膜》を斜めに広げた。
水を正面から受けず、横へ逃がす。
同時に、右側へ小さな噴出口を作る。
《弾性組織》。
――シュバッ!
身体が斜めに滑った。
大きな水流の外側へ。
……っ!
抜けた!
俺は岩壁へ触手を伸ばした。
《粘着性》。
――ぴたっ。
……よし。
止まった。
俺は一瞬、動けなかった。
……すげえ。
あの魔物。
ただ身をひねっただけで、これかよ。
でも。
……今の、避けられた。
以前の俺なら、そのまま流されていたかもしれない。
《水流感知》で向きを読み、《緩衝膜》で衝撃を和らげ、噴射移動で流れの外へ抜ける。
……うん。
ちゃんと、繋がってきてる。
俺は少しだけ嬉しくなった。
もっとも。
今は戦ってる場合じゃない。
俺はもう1度、魔物へ目を向けた。
すると。
……あれ?
巨大な魔物は、こちらへ追いかけてこなかった。
ただ、その場で身体を揺らしている。
左鰭を動かすたび、傷の周りの鱗が引っ張られていた。
……あ。
痛いのか。
俺が近づいたから暴れたんじゃない。
傷のある部分を動かしたせいで、痛みが走ったのかもしれない。
……なるほど。
だったら。
俺は、少し考えた。
あの鉄輪を取るには、近づくしかない。
でも、急に触れば、また暴れるだろう。
……どうする。
そのとき。
水面の上から、ルナの声が響いた。
「ノア!」
……ん?
俺は顔を上げた。
ルナは石柵の向こうから、こちらを見ている。
「無理に近づくな! まず、相手が動きを止めるのを待て!」
……あ。
そうか。
俺はすぐに動きを止めた。
こちらから追いかけるのではなく、魔物が落ち着くのを待つ。
……よし。
俺は岩壁へ張りついたまま、静かに様子を見た。
しばらくすると、魔物の動きがゆっくりになった。
大きな鰭が止まる。
尾も、ほとんど動かない。
……今なら。
俺は身体を少し伸ばした。
ただし、今度は一気に近づかない。
魔物の動きに合わせて、少しずつ。
……よし。
距離が縮まる。
魔物の金色の瞳が、再びこちらへ向いた。
俺は動きを止めた。
……大丈夫。
何もしない。
今は、まだ。
しばらくして。
魔物が、ゆっくり身体を傾けた。
左側の鰭が、少しだけ見えやすくなる。
……え?
俺は目を凝らした。
傷口。
鉄輪。
そこに、ようやく手が届きそうな距離ができた。
……まさか。
こいつ。
分かってくれたのか?
いや。
偶然かもしれない。
でも、今なら。
……試せる。
◇
鉄輪は、想像していたより厄介だった。
歪んだ金属が、鰭の付け根へ深く食い込んでいる。
ただし、完全な輪ではない。
一部が割れ、そこから曲がった端が内側へ入り込んでいた。
……なるほど。
これなら、切らなくても外せるかもしれない。
俺は細い触手を伸ばした。
《構造形成》。
先端を薄く。
さらに、《硬質外皮》で少し固める。
……よし。
鉄輪の隙間へ差し込む。
――ずりっ。
……お。
入った。
俺はゆっくり押し広げようとした。
だが。
……重い!
全然、動かない。
金属自体がかなり厚い。
俺の力だけで曲げるのは、難しそうだ。
……うーん。
だったら。
曲げるんじゃなくて、浮かせるか。
俺は触手の先端を、さらに薄くした。
鉄輪と鱗の間。
そこへ滑り込ませる。
《緩衝膜》。
柔らかな層を作り、傷口へ直接圧力がかからないようにする。
……よし。
少しずつ。
鉄輪を持ち上げる。
――ぎしっ。
……お。
動いた!
ほんの少しだけど、確かに。
俺はさらに触手を伸ばした。
だが、その瞬間。
――ドゥン。
巨大な魔物の身体が震えた。
……っ!?
俺は慌てて動きを止めた。
魔物の左鰭が、大きく動く。
……まずい!
俺はすぐに触手を引いた。
しかし、今度は間に合わなかった。
――ゴォッ!
水流が、正面から押し寄せる。
……っ!!
俺は反射的に身体を広げた。
《緩衝膜》。
そして、硬い部分を必要な場所だけへ集中させる。
《硬質外皮》。
……受け流せ!
身体を斜めにする。
水の力が、横へ滑っていく。
同時に、後方へ水を噴き出した。
――シュバッ!
……よし!
身体が急加速する。
鰭の動きから離れ、岩壁の近くへ。
……危なかった!
俺は息を吐くように身体を縮めた。
……いや。
本当に、すごい力だな。
あいつが本気で暴れたら、今の俺じゃどうにもならない。
俺は魔物を見た。
大きな身体は、再びゆっくり動き始めていた。
ただ、さっきと違うことが1つある。
……あれ?
鉄輪が、少し浮いている。
俺が差し込んだ触手で、位置が変わったらしい。
……なるほど。
完全には外れていない。
でも、あと少し。
あと少し動かせれば、外れるかもしれない。
俺は魔物の動きを確かめた。
左鰭が動く。
そのたびに、鉄輪が少しずつずれる。
……待てよ。
俺が無理に動かさなくても。
魔物自身の動きを利用できるんじゃないか?
俺は少し考えた。
鉄輪を浮かせる。
そのまま、相手が鰭を動かす。
すると、輪が鰭から滑る。
……そうだ。
力で勝つ必要なんて、ない。
相手の力を、利用すればいい。
俺はもう1度、魔物へ近づいた。
今度は、真正面からではない。
水の流れへ合わせて、横から。
……よし。
鉄輪へ、あと少し。
俺は細い触手を伸ばした。
《構造形成》。
硬い先端を、鉄輪の隙間へ差し込む。
反対側には、柔らかい膜。
……よし。
固定できた。
俺はそこで、力を加えるのをやめた。
無理に引かない。
無理に押さない。
ただ、鉄輪が傷口へ食い込まないよう、隙間を保つ。
……さあ。
動いてくれ。
巨大な魔物が、ゆっくり鰭を動かした。
――ぐっ。
……っ!
鉄輪が引っ張られる。
俺の触手にも、強い力がかかった。
……重い!
でも。
……もう少し!
俺は薄い触手を維持した。
《緩衝膜》で圧力を和らげ、《硬質外皮》で形を保つ。
そして。
――ずるっ。
……あ。
鉄輪が、少し動いた。
鰭の付け根から、外側へ。
……いける!
俺は身体の後ろへ小さな噴出口を作った。
水を取り込む。
《弾性組織》。
力をためる。
……今だ!
――シュバッ!
身体が横へ加速する。
その動きに合わせて、鉄輪を引く。
ただし、傷口とは反対の方向へ。
――ガリッ!
……っ!
硬い音がした。
そして。
――ガランッ!
鉄輪が、外れた。
……。
…………。
……え?
俺は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
目の前には、黒い金属の輪がある。
さっきまで魔物の鰭へ食い込んでいたものだ。
それが今、俺の触手へ引っかかっている。
……取れた?
本当に?
俺は魔物を見た。
左鰭。
そこには、まだ赤い傷が残っている。
だが、鉄輪はない。
……おお。
取れた!
やったぞ!
俺は思わず、身体を持ち上げた。
その瞬間。
巨大な魔物が、急に動いた。
……っ!?
俺は反射的に身体を縮めた。
また暴れるのか!?
そう思ったが。
……あれ?
魔物は、俺の方へ向かってこなかった。
大きな左鰭を、ゆっくり動かしている。
1度。
もう1度。
それから、身体を大きくひねった。
……お。
さっきより、ずっと自然に動いてる。
痛みが減ったのかもしれない。
魔物は、水中で大きく向きを変えた。
尾を振る。
強い水流が生まれる。
……っ!
俺は慌てて距離を取った。
だが、魔物はそのまま泳ぎ始めた。
水門から離れ、地下水域の奥へ。
……あ。
行くのか?
俺は少し拍子抜けした。
いや。
別に、お礼を言ってほしいわけじゃないんだけどさ。
相手は魔物だし。
……でも。
何だか、少し寂しいな。
俺は触手を小さく揺らした。
すると。
魔物が、途中で動きを止めた。
大きな身体が、ゆっくり向きを変える。
金色の瞳が、もう1度こちらを見た。
……え?
俺は動きを止めた。
魔物は、しばらく俺を見つめていた。
そして。
――ドゥン。
低い振動が、水中へ広がった。
……っ。
俺は少し驚いた。
だが、今の振動は、さっきまでのものとは違う。
水門へぶつかった音じゃない。
身体を強く動かしたわけでもない。
……何だ?
俺は水の動きを確かめた。
《水流感知》。
大きな波が、ゆっくり広がっている。
それは俺の身体へ届き、すぐに消えた。
魔物は、それ以上近づいてこなかった。
ただ、静かに向きを変える。
そして、青い光の奥へ消えていった。
……。
俺はしばらく、動けなかった。
……今の。
もしかして。
……いや。
まさかな。
でも。
何となく。
悪い気はしなかった。
◇
「……取れたのか!?」
水面へ戻ると、ジェドが目を丸くした。
俺は触手を持ち上げた。
そこには、黒く錆びた鉄輪が引っかかっている。
「……とった!」
ネリも駆け寄ってきた。
「本当に外したのね!」
……おう。
俺は少し得意になった。
ただし、身体はかなり疲れている。
特に、鉄輪を引いたときの負担が大きかった。
……うーん。
今日は、もう激しい練習は無理だな。
ルナが俺の隣へ来た。
「……見事だったぞ、ノア」
……ありがと。
俺は触手を揺らした。
ルナは、俺の身体をじっと見つめている。
「だが、怪我はないか?」
……ああ。
大丈夫だ。
俺は身体の端を伸ばしてみせた。
少し動かしにくい場所はあるが、大きな傷はない。
「……へいき」
ルナは小さく頷いた。
「ならばよい」
それから、少しだけ笑った。
「貴様らしいやり方だったな」
……え?
俺は顔を上げた。
「力で押さえつけるのではなく、相手の動きを利用する。ああいう戦い方もあるのだな」
……ああ。
そうだな。
俺は少し考えた。
今日、俺は巨大な魔物へ勝ったわけじゃない。
あいつの力は、今の俺より遥かに大きい。
もし本気で戦えば、きっと苦戦する。
でも。
力で勝てなくても、できることはある。
あの大きな身体に、自分の力だけでは取れなかったもの。
それを、俺は外せた。
……うん。
これも、俺の強さってことでいいのかな。
俺は少し嬉しくなった。
ネリは鉄輪を布へ包みながら言った。
「……これ、昔の水門設備の一部かもしれないわね」
……ん?
俺は顔を向けた。
「形が、古い鎖の接続金具に似てるの。水門の修理記録と照らし合わせてみるわ」
……なるほど。
だったら。
あの魔物は、古い設備の破片を身体へ引っかけてしまったのかもしれない。
それを外そうとして、水門へ何度も身体を擦りつけていた。
……うん。
少しずつ、話が繋がってきたな。
「今日は、もう調査を終えましょう」
ネリが言った。
「魔物の行動にも変化があったし、鉄輪も手に入った。十分な成果よ」
……ああ。
そうだな。
俺は小さく頷いた。
だが、そのとき。
ジェドが水面を見つめながら、ぽつりと言った。
「……おい。あれを見ろ」
……ん?
俺は顔を上げた。
地下水域の奥。
さっき、巨大な魔物が消えた方向だ。
そこに、青い光が集まっている。
……あ。
青灯クラゲか。
そう思ったが。
……違う。
光の間を、小さな影が動いている。
1つ。
2つ。
……3つ?
俺は目を凝らした。
小さな魚のような形。
ただし、普通の魚とは少し違う。
背中には、黒緑色の小さな鰭が伸びている。
……え?
俺は、思わず身体を持ち上げた。
あれ。
もしかして。
ルナも気づいたらしい。
「……ノア」
……ああ。
俺は頷いた。
巨大な魔物と、よく似ている。
ただし、大きさは比べものにならないほど小さい。
俺たちが見つめていると、青い光の奥から、さっきの巨体が現れた。
金色の瞳。
黒緑色の鱗。
そして、自由に動くようになった左鰭。
大きな魔物は、小さな影たちの近くへ泳いでいく。
すると、小さな影が一斉にその身体へ集まった。
……。
…………。
……ああ。
そういうことか。
俺は、ようやく理解した気がした。
あいつ。
1匹じゃなかったんだ。
あの大きな魔物は、しばらく小さな影たちの周囲を泳いでいた。
そして、青い光の奥へゆっくり進んでいく。
小さな影たちも、その後へ続いた。
……なるほど。
俺は静かに身体を低くした。
これまで、あの魔物が何度も水門へ近づいていた理由を、俺たちはずっと考えていた。
ただ凶暴なのか。
縄張りを守っているのか。
水門の向こうへ行きたいのか。
……でも。
理由は、もっと単純だったのかもしれない。
身体に絡みついた鉄輪が痛くて。
それでも、あの場所から離れられなかった。
近くには、自分と同じ姿をした小さな生き物たちがいたのだから。
……ああ。
そりゃ、簡単にはどこかへ行けないよな。
俺は少し笑った。
「……ノア」
ルナが隣で呼んだ。
……ん?
「助けて、よかったな」
……ああ。
本当に。
俺は小さく頷いた。
巨大な魔物と、小さな影たちは、やがて青い光の中へ消えていった。
◇
地上へ戻ると、レムナの町には昼過ぎの賑わいが広がっていた。
運河には荷船が行き交い、屋台からは食べ物の香りが漂っている。
俺は石畳を、ゆっくり進んでいた。
今日は、少し疲れた。
でも、嫌な疲れじゃない。
……うん。
何だか、気分がいい。
すると、隣のルナが言った。
「……ノア」
……ん?
「もし、あの大物が貴様を襲ってきたら、どうするつもりだった?」
……え?
俺は少し考えた。
……逃げる。
多分、全力で。
俺は短く答えた。
「……にげる」
ルナが笑った。
「ふふっ。即答だな」
……そりゃそうだろ。
無理に戦っても、勝てるか分からない相手なんだから。
俺は触手を揺らした。
ルナは少し考えたあと、静かに頷いた。
「……それでよい」
……ん?
俺は顔を上げた。
「強くなることと、無理に戦うことは違うからな」
……ああ。
そうだな。
俺は少し嬉しくなった。
最近、いろんな能力を組み合わせられるようになってきた。
水の中でも速く動ける。
硬い触手で攻撃することもできる。
《緩衝膜》を使えば、衝撃を受け流すことだってできる。
……でも。
だからといって、何でも倒さなきゃいけないわけじゃない。
戦う力があるからこそ、戦わない方法も選べる。
……うん。
悪くないな。
俺は静かに身体を持ち上げた。
すると、ルナが楽しそうに笑った。
「……ただし」
……ん?
「我は、あの大物と一度くらい力比べをしてみたかったぞ」
……おい!
さっきまでの話は何だったんだよ!
俺が触手を振ると、ルナは声を上げて笑った。
「冗談だ!」
……本当か?
俺は疑わしそうにルナを見た。
ルナは何食わぬ顔で前を向いている。
……まあ。
そういうところも、ルナらしいけどな。
俺たちは並んで歩いた。
水路の向こうから、船頭たちの声が聞こえる。
そして、その下には、まだ俺たちが知らない水の世界が広がっている。
今日、1つの問題は解決した。
巨大な魔物の傷を癒やすことはできなかったけど、傷の原因は取り除けた。
あとは、時間をかけて回復してくれるといい。
……そういえば。
俺はふと、思い出した。
あの巨大な魔物が、最後に伝えてきた低い振動。
あれは、何だったんだろう。
ただの水の動きだったのか。
それとも。
……何かを伝えようとしていたのか。
俺には、まだ分からない。
でも。
いつか、ああいう生き物たちのことも、もっと知ることができたら面白いだろうな。
俺は小さく身体を揺らした。
そして、隣を歩くルナへ目を向ける。
……よし。
今日は、少し休もう。
それから。
次は、あの地下水域のもっと奥へ行ってみたい。
今度は、誰かを助けるためじゃなくて。
純粋に、知らない世界を見てみたいからだ。
俺は、そんなことを考えながら歩き続けた。




