第3部 第12話 灯りの行き先
「今日は、貴様に命令がある」
朝食を終えたルナが、妙に真面目な顔で言った。
……命令?
俺は身体の端を持ち上げた。
「何もしないことだ」
……。
…………。
何それ。
「昨日は朝から泳ぎの練習をして、そのあと大きな魚と戦ったであろう。身体が回復しきっておらぬのに、少々働きすぎだ」
……まあ、確かに。
俺は自分の身体を確かめた。
採石場で失った分は、食事と休息のおかげで少しずつ戻ってきている。短い脚なら4本作れるし、昨日は水中で鋸鰭魚と戦うことまでできた。
ただ、万全とは言い難い。
特に、昨日覚えた噴射移動は負担が大きかった。
今朝も身体の中央を大きく変形させようとすると、少し重さを感じる。
……休んだ方がいいのは、間違いないな。
俺が頷くと、ルナは満足そうに胸を張った。
「うむ。では、出かけるぞ」
……ん?
ちょっと待て。
何もしないんじゃなかったのか?
「戦わず、鍛えず、仕事もしない。それなら休みであろう?」
……なるほど。
そういう理屈か。
俺は少し考えた。
宿で寝ているだけが休みってわけでもないしな。
「……どこ?」
「よくぞ聞いた!」
ルナの尻尾が勢いよく持ち上がった。
「今日は水辺で祭りがあるそうだ!」
……祭り?
俺は顔を上げた。
そういえば、昨日の帰り道、運河沿いに色鮮やかな布が飾られていたな。
てっきり、店の宣伝か何かだと思っていた。
「夜には、水の上にたくさんの灯りが浮かぶらしい」
……へえ。
それは、ちょっと見てみたい。
「よし。決まりだな!」
ルナが寝台から飛び降りる。
俺は慌てて荷物を引き寄せた。
まったく。
休めと言った本人が、一番張り切ってるじゃないか。
◇
レムナの中央運河は、いつも以上に賑やかだった。
橋と橋の間には色とりどりの布が張られ、岸辺では職人たちが小さな木舟を組み立てている。
水の上には太い縄が何本も渡されていた。
その縄には、薄い木の板で作られた小さな台が繋がれている。
……何だろう。
俺が首を傾げていると、背後から聞き覚えのある声がした。
「ノア! ルナ!」
……ん?
振り返ると、フィンが駆け寄ってきていた。
以前、水上競技で世話になった少年だ。
今日は作業着の上から、青い布を肩へ掛けている。
「やっぱり! その銀色の鈴で分かった!」
……ああ。
そういえば、あの競技でもらったんだったな。
俺は荷物の鈴を揺らした。
――ちりん。
フィンが嬉しそうに笑う。
「今日は祭りを見に来たの?」
「うむ。水の上に灯りが浮かぶと聞いてな」
ルナが答えると、フィンは大きく頷いた。
「帰り灯だよ! この町じゃ、結構大きな行事なんだ」
……帰り灯?
聞き慣れない名前だ。
フィンは運河へ目を向けた。
「昔、遠くへ荷物を運びに行った舟が、夜になっても帰れないことがあったんだって」
……へえ。
「それで、岸にいる人たちが灯りを並べて、帰ってくる場所を知らせたんだ」
なるほど。
今みたいに立派な街灯もなかった頃の話だろうか。
暗い川で、家族が置いてくれた灯りを見つける。
……いい話だな。
「今はお祭りだけどね。みんなで小さな灯りを作って、夜になったら運河に浮かべるんだ」
フィンは水面に張られた縄を指した。
「流されないように繋いでおいて、終わったら全部回収するんだよ。船の通り道も空けてあるから安心!」
……なるほど。
さすが、水運の町だ。
祭りだからって、船を止めるわけにはいかないもんな。
「2人も作る?」
……え?
俺はルナを見た。
ルナの目が、きらりと光った。
「作れるのか?」
「もちろん! あっちで材料を配ってるよ!」
……あ。
これはもう決まりだな。
俺は笑いながら、2人の後についていった。
◇
「……これを舟にするのか?」
ルナが目の前の材料を見つめている。
薄い木板。
小さな棒。
油を塗った半透明の紙。
それから、短い蝋燭。
屋台の女性が、作り方を教えてくれた。
「木の台へ紙の囲いをつけて、真ん中へ灯りを入れるんだよ。最後に紐を結んだら完成さ」
……なるほど。
紙で囲った小さな灯籠を、舟に載せるわけか。
俺は材料を見た。
これなら、俺でも作れそうだ。
「貴様、得意であろう?」
ルナがこちらを見る。
……ん?
「細かい作業だ。いつも器用に身体を動かしておるではないか」
……ああ。
それなら、まあ。
俺は身体の横から細い触手を4本伸ばした。
先端を指のように分ける。
1本で木板を押さえ、もう1本で紙を折る。
残る2本で紐を持つ。
……よし。
意外といけるな。
最近は《構造形成》を戦闘や移動に使うことが多かったけど、細かな作業にも便利だ。
元の世界なら、両手で苦労していたかもしれない。
俺は紙を折り、木の台へ固定した。
さらに、紐を通す。
……おお。
結構簡単だな。
調子に乗って触手を2本増やしてみた。
こっちで紙を折りながら、あっちで飾りを付ける。
……よし。
これなら一気に――。
――ぺしゃっ。
……あ。
紙が潰れた。
どうやら、増やした触手へ意識を向けたせいで、別の1本に力が入りすぎたらしい。
……。
…………。
おい。
俺。
昨日、あんな大きな魚と戦えたよな?
何で紙細工に負けてるんだよ。
「……ふっ」
隣から、小さな笑い声が聞こえた。
ルナだ。
「随分と強くなったものだな、ノア」
……うるさいな!
俺は潰れた紙を持ち上げた。
ルナは笑いをこらえている。
「大きな魔物には勝てても、紙には勝てぬか」
……言うと思ったよ!
俺は触手を1本伸ばし、ルナの鼻先へ近づけた。
ルナはひょいと顔を逸らす。
「ふん。八つ当たりはよくないぞ」
……くそっ。
反論できない。
屋台の女性まで笑い出していた。
「大丈夫、大丈夫。初めてならよくあることさ」
……いや。
多分、俺と同じ失敗をする人は少ないと思います。
俺は触手を4本へ戻した。
欲張らずに、1つずつ。
今度は力加減も意識する。
紙を押さえ、端を折る。
紐を結ぶ。
……よし。
完成!
小さな舟の上に、四角い灯籠が立っている。
少し歪んでいるけど、十分だろう。
俺が得意になっていると、隣でルナが言った。
「……ノア」
……ん?
「こちらも頼む」
振り返ると、ルナの前には、まだ組み立てられていない材料が並んでいた。
……。
…………。
さっきまで笑ってたよね?
「我の前脚では、紙を折りにくいのでな」
……そうですか。
俺は思わず身体を揺らした。
だが、ルナは妙に堂々としている。
「適材適所というものであろう」
……便利な言葉だな、それ。
結局、俺はルナの分も作ることになった。
◇
「最後は、ここへ好きなものを描いてちょうだい」
屋台の女性が、小さな筆と染料を持ってきた。
灯籠の紙には、まだ何も描かれていない。
「名前でも、絵でもいいよ。願いごとを書く人もいるね」
……へえ。
俺は筆を受け取った。
さて。
何を描こうかな。
今の俺では、この世界の文字をまだ自由には書けない。
ノアという名前も、協力者札に刻まれた形なら見覚えがあるけど、きちんと書けるかは怪しい。
だったら、絵にしよう。
俺は紙へ筆を当てた。
まず、小さな丸みのある身体。
そこから短い触手を2本伸ばす。
……うん。
俺だな。
隣には、細い脚を4本。
尖った耳。
長い尻尾。
……よし。
ルナだ。
簡単な絵だけど、結構いい感じじゃないか?
俺はルナへ見せた。
「……どう?」
ルナが絵を覗き込む。
そして。
「……我の尻尾は、もっと立派だぞ」
……そこ!?
俺は絵を見直した。
確かに、尻尾は少し細かったかもしれない。
「それに、我の耳はもう少し鋭い」
……はいはい。
描き直しますよ。
俺は尻尾を太くし、耳を少し長くした。
すると、今度はルナの身体より尻尾の方が大きくなった。
……。
何か、違う生き物になってないか?
フィンが横から覗き込む。
「あははっ! ルナがすごく強そう!」
ルナは満足げに頷いた。
「うむ。実際、強いのでな」
……いや。
尻尾の大きさと強さは関係ないだろ。
俺は諦めて、そのままにした。
もう1つの灯籠には、ルナが自分で絵を描くと言い出した。
筆を口でくわえ、真剣な表情で紙へ向かう。
……お。
何を描くんだろう。
俺は隣から眺めた。
最初は、大きな丸。
その下に短い線。
横には、細長い形。
……ん?
何だ、これ。
ルナは筆を置くと、誇らしげに胸を張った。
「できたぞ!」
……おお。
俺は紙を見つめた。
丸いもの。
細長いもの。
それから、少し離れたところに小さな点。
……。
……魚?
俺が首を傾げると、ルナの耳が立った。
「違う!」
……えっ。
「貴様と我だ!」
……ええっ!?
俺はもう1度、絵を見た。
丸い方が俺。
細長い方がルナ。
……ということか?
いや。
ルナの絵、どう見ても魚なんだけど!
フィンが隣で吹き出した。
「あはははっ! ノアより難しい絵だ!」
「何がおかしい!」
ルナが抗議する。
俺は笑いをこらえながら、触手を伸ばした。
……まあ、いいか。
ちゃんと2人描かれているんだから。
俺はルナの灯籠を持ち上げ、自分の灯籠の隣へ並べた。
2つとも、絵はかなり個性的だった。
でも、不思議と気に入った。
◇
日が傾き始めた頃。
俺たちは運河沿いを歩いていた。
祭りの屋台には、焼き菓子や果物、香草の入った飲み物が並んでいる。
普段は仕事で忙しそうな船頭たちも、今日は家族を連れて歩いていた。
小さな子どもが、父親の肩の上から運河を眺めている。
老夫婦が、灯籠を抱えて橋を渡っていく。
……いいな。
こういう雰囲気。
俺は何となく、昔の夏祭りを思い出した。
屋台の匂い。
人の声。
遠くから聞こえる音楽。
一緒に歩く相手がいれば、特に何かをしなくても楽しい。
……ああ。
そうか。
俺は隣のルナを見た。
白銀の相棒は、屋台で買った小さな焼き菓子を口にしている。
……やっぱり食べてるな。
俺が眺めていると、ルナがこちらを向いた。
「何だ?」
「……おいしい?」
「うむ。外は香ばしく、中は柔らかい。少し甘いな」
……へえ。
うまそうだ。
俺も同じものを少し取り込んでみた。
身体の回復に必要な栄養にはなる。
だが、やはり味は分からない。
……うーん。
いつになったら、味覚を獲得できるんだろうな。
そんなことを考えていると、ルナが残りの菓子を見つめた。
「……ノア」
……ん?
「先ほどから、ずっと我の食べるものを見ておるな」
……あ。
ばれた。
俺は触手を小さく動かした。
「……あじ」
ルナはすぐに理解したらしい。
「……そうか」
俺は頷いた。
以前、味が分かるようになったら一緒においしいものを食べようと約束した。
でも、今はまだ無理だ。
……まあ。
焦っても仕方ないんだけどさ。
すると、ルナが菓子を包んでいた紙を畳み、俺の荷物へ入れた。
……ん?
何で?
「店の名前を覚えておこうと思ってな」
……え?
「貴様が味を知ったら、また来ればよい」
……ああ。
なるほど。
俺は少し嬉しくなった。
確かに、店の場所を覚えておけば、また来られる。
その頃には、今よりもっと自由に身体を動かせるようになっているかもしれない。
……よし。
そのときは、俺も感想を言おう。
「……やくそく」
ルナが頷く。
「うむ」
それから、少し得意そうに付け加えた。
「もっとも、その頃には我が店の菓子をすべて食べ尽くしておるかもしれぬがな」
……おい!
俺の分も残しといてくれよ!
俺が触手を振ると、ルナは声を上げて笑った。
◇
夜。
運河に、灯りがともり始めた。
橋の上には大勢の人が集まり、岸辺では係員たちが小さな灯籠を順番に水へ浮かべている。
水面にはあらかじめ縄が張られ、灯籠が流されないようになっていた。
1つ。
また1つ。
淡い光が増えていく。
……おお。
綺麗だな。
昼間はただの木と紙だった灯籠が、夜になるとまるで違うものに見える。
水面に光が映り、揺れるたびに形を変える。
橋の下は、金色の星が流れているみたいだった。
「……ノア」
ルナが静かに呼んだ。
俺は顔を向ける。
ルナは、水面をじっと見つめていた。
「……来てよかったな」
……ああ。
本当に。
俺は小さく頷いた。
そのとき、下の船着き場から慌ただしい声が上がった。
「おい! あっちの縄が緩んでる!」
……ん?
俺は水面へ目を向けた。
端の方で、灯籠を繋いでいた縄が外れかけている。
小さな灯籠がいくつか、ゆっくり流れ始めていた。
その先には、水車へ繋がる細い水路がある。
……あ。
まずいな。
あそこへ入り込んだら、壊れるだけじゃなく、水車に絡まるかもしれない。
係員たちが長い竿を伸ばしているが、少し届かない。
「誰か、小舟を!」
声が飛ぶ。
俺は水面を確かめた。
距離は、それほど遠くない。
流れも、昨日練習した場所より穏やかだ。
……うん。
これなら、行ける。
俺はルナを見た。
「……ちょっと」
ルナが俺の考えを察したらしい。
「……無理はするなよ」
……分かってる。
俺は荷物を岸へ置いた。
そして、水中へ滑り込む。
《水流感知》。
……よし。
流れは穏やか。
俺は身体の中央へ小さな空洞を作り、水を取り込んだ。
《弾性組織》。
ゆっくり縮める。
――シュッ。
身体が前へ進んだ。
……いいぞ。
今度は、最初から全力を出さない。
必要なのは速さじゃない。
狙った場所へ、正確にたどり着くことだ。
俺は水中で方向を変えた。
流されかけた灯籠が見える。
そのうちの1つが、縄から外れていた。
……よし。
俺は細い触手を伸ばした。
《粘着性》。
――ぴたっ。
灯籠の木枠へ触れる。
……捕まえた。
だが、その瞬間。
別の灯籠が、横を流れていった。
……あ。
そっちもか!
俺は身体の反対側へ触手を伸ばした。
同時に、姿勢が少し崩れる。
……っ。
待て待て。
さっきまでなら、ここで身体を広げて止まっていただろう。
でも、今は違う。
俺は後方の噴出口を小さくし、今度は横向きに作り直した。
水を取り込む。
短く噴き出す。
――シュッ。
身体が横へ移動した。
……お。
いい感じ!
俺は流れる灯籠へ追いついた。
もう1度、触手を伸ばす。
――ぴたっ。
……よし。
2つ目。
今度は、灯籠を壊さないように《緩衝膜》を薄く広げる。
柔らかな部分で木枠を支えながら、ゆっくり岸へ向きを変えた。
途中で流れが強くなったが、無理に逆らわない。
水を横へ逃がし、必要なときだけ小さく噴射する。
……うん。
動ける。
昨日は、勢いよく前へ進むことばかり考えていた。
でも、細かく向きを変える方が難しい。
そして、こういうときには、その技術の方が役に立つ。
俺は2つの灯籠を抱えたまま、船着き場へ戻った。
「おお! 戻ってきた!」
係員が声を上げる。
俺は灯籠を岸へ渡した。
「助かったよ!」
……どういたしまして。
俺は触手を持ち上げた。
すると、係員が笑いながら言った。
「いやあ、見事な泳ぎだった! 水運組合で働いてみないか?」
……え?
俺は思わず固まった。
……就職のお誘い?
異世界に来て、まさかこんなところで仕事を紹介されるとは。
ちょっと面白いな。
俺が身体を揺らしていると、上の橋からルナの声がした。
「駄目だぞ! ノアは我と旅をするのだ!」
……おいおい。
そこまで大声で言わなくても!
周囲から笑い声が上がった。
係員も楽しそうに笑っている。
「はははっ! そりゃ残念だ!」
……まあ。
悪い話じゃないんだけどな。
でも、まだ行きたい場所がたくさんある。
俺は軽く頭を下げ、橋の方へ戻った。
◇
祭りが終わる頃には、運河の上に何百もの灯りが並んでいた。
俺たちの灯籠も、その中にある。
ルナが描いた、魚のような俺とルナ。
俺が描いた、やたら尻尾の立派なルナ。
……うん。
遠くから見ると、どれがどれだか分からないな。
そんなことを考えていると、ルナが俺の隣へ座った。
「……今日は、よい日だった」
……ああ。
俺もそう思う。
戦いも、仕事もなかった。
……いや。
途中で灯籠を拾いに行ったけど。
それくらいは、まあいいだろう。
俺は夜の運河を眺めた。
水面には、淡い灯りがずっと遠くまで続いている。
「……ノア」
ルナが、少し静かな声で言った。
……ん?
「この祭りは、帰る者のために灯りを置くのであろう?」
……そうだな。
俺は頷いた。
「ならば、我は1つでよかったのかもしれぬ」
……え?
俺はルナを見た。
ルナは水面へ目を向けたまま続ける。
「貴様の帰る場所を示せれば、それでよいからな」
……。
俺は少し黙った。
ルナは、あの地下水路で俺が戻るまで待っていてくれた。
見えない場所へ進んでも、縄を確かめ、合図を送り、帰ってくるのを待っていた。
あのときも、そうだった。
洞窟を出た頃から、ルナはずっと俺の隣にいる。
俺がどんな形になっても。
どれだけ変わっても。
当たり前みたいに、ノアと呼んでくれる。
……そっか。
帰る場所、か。
俺は少し考えた。
そして、触手を伸ばしてルナの前へ置いた。
「……ちがう」
ルナが顔を向ける。
「む?」
俺は水面を指した。
2つの灯籠。
今は、ほかの灯りに混じって見えなくなっている。
「……ふたり」
ルナが首を傾げた。
俺はゆっくり、言葉を選んだ。
発声用の構造を整える。
《共鳴膜》を震わせる。
長い言葉を続けるのは、まだ難しい。
それでも。
今は、ちゃんと伝えたかった。
「……ふたり、かえる」
ルナの耳が、小さく動いた。
俺はもう1度頷いた。
……そう。
俺だけが帰るんじゃない。
ルナも一緒だ。
どこへ行っても。
どんなに強くなっても。
2人で出かけて、2人で帰る。
……それでいいじゃないか。
ルナはしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり俺へ身体を寄せた。
白銀の毛並みが、身体の端へ触れる。
「……うむ」
小さな声だった。
「それがよいな」
俺は触手を引っ込めず、そのまま隣に置いていた。
ルナも離れなかった。
運河の上では、小さな灯りが静かに揺れている。
遠くから、祭りの音楽が聞こえてきた。
……そういえば。
今日は休む日だったんだよな。
身体を鍛えず、戦わず、仕事もせず。
ただ、町を歩いて。
祭りを楽しんで。
ルナと、灯りを眺める。
……悪くないな。
こんな日も。
俺はゆっくり身体を丸めた。
すると、ルナが隣で小さく笑った。
「……ノア」
……ん?
「明日は、また強くなるのであろう?」
……まあな。
俺は頷いた。
「ならば、我も負けぬ」
ルナの声には、いつもの自信が戻っていた。
俺は少し笑った。
……おう。
望むところだ。
地下には、まだ大きな魔物がいる。
古い水門も、どうなっているのか分からない。
調べたいことは山ほどあるし、俺自身もまだまだ強くなりたい。
でも。
今夜くらいは、何も考えなくてもいいだろう。
俺は水面へ目を向けた。
2つの灯籠が、ほかの灯りに混じって揺れている。
どちらが俺のもので、どちらがルナのものか。
もう、見分けられない。
……まあ。
それでもいいか。
同じ場所へ帰ってくるんだから。




