第3部 第11話 流れを追い越せ
「この鱗、普通の魚のものじゃないわ」
翌朝、レムナの冒険者ギルドで、ネリがそう切り出した。
机の上には、昨日地下水路で拾った黒緑色の鱗が置かれている。
人間の手のひらよりも大きく、表面には細かな筋が走っていた。
「水生魔物に詳しい鑑定士にも見てもらったんだけど、種類までは分からなかったの。ただ、かなり古い個体のものらしいわ」
……古い個体?
俺は鱗を眺めた。
昨日、水門の向こうで見た巨大な影。
あれが何なのか、少しは分かると思っていたんだけどな。
「それと、もう1つ」
ネリが図面を広げる。
「地下の水門について、昔の記録を調べ直してみたの。あの施設は、大河の水量を調整するために造られた可能性が高いわ」
「つまり、今も動いておるのか?」
ルナが尋ねる。
「ええ。ただし、正常に動いているとは思えない」
ネリは水門の位置を指で叩いた。
「開閉する仕組みが壊れているか、何かが動作を妨げているのかもしれない。原因が分かるまでは、立ち入りを制限することになったわ」
……そうか。
すぐに続きを調べられるわけじゃないんだな。
少し残念だけど、昨日の金属板を思い出せば納得だ。
あんなものが倒れてくる場所へ、何の準備もなく入るわけにはいかない。
「修理の専門家を呼ぶ予定だから、数日はかかると思う」
ネリはそう言って、俺たちを見た。
「その間、休んでいてもらって構わないわ。協力者としての報酬は、ここまでの調査分を支払えるから」
……お。
ありがたい。
俺は触手を上げた。
「……ありがと」
「こちらこそ。助かったわ」
ネリは微笑んだ。
「それと、ノア」
……ん?
「次に地下へ入るなら、もっと速く水中を動けるようになっておいた方がいいと思う」
……。
俺は自分の身体を見下ろした。
……それな。
昨日の俺は、流れを読んで何とか逃げ切った。
でも、流れそのものに逆らう力が足りなかった。
もし水門の近くで、あの巨大な魔物に襲われていたら。
……正直、逃げられたかどうか怪しい。
「ふむ」
ルナが頷く。
「ならば、今日は泳ぎの特訓だな」
……ああ。
そうしよう。
ただし、今回は少し考えがある。
今までの泳ぎ方を、ただ上手くするだけじゃない。
もっと速く動く方法を試してみたい。
俺は触手を握るように丸めた。
……よし。
今日は、ちょっと本気でやってみるか。
◇
「水を後ろへ押すんじゃなくて、水を吐き出す?」
ジェドが妙な顔をした。
場所は、レムナ西側の舟溜まり。
以前、水泳の練習をした入り江の隣にある、水運組合の作業場だ。
今は荷船の修理が終わったところらしく、広い水面には何本もの浮き標が並んでいる。
その一角を、ジェドが練習用に貸してくれた。
もちろん、通行する船の邪魔にならない範囲だ。
「何だって、そんなことを思いついたんだ?」
……うーん。
説明が難しいな。
俺は水桶へ触手を伸ばした。
まず、身体の一部を筒状にする。
真ん中は空洞。
片側を広く開き、反対側は細い穴にする。
そこへ水を入れる。
……よし。
俺は広い方を閉じ、筒の周囲を縮めた。
――ぴゅっ!
細い穴から、水が勢いよく飛び出した。
ジェドの頬へ命中する。
「ぶわっ!」
……あ。
すみません。
狙ったわけじゃないんです。
ジェドは顔を拭いながら、しばらく俺を見つめていた。
それから、大きく笑い出した。
「はははっ! なるほど、そういうことか!」
……伝わった?
「水を後ろに噴き出した反動で、前へ進もうってんだな!」
……そう!
それそれ!
俺は勢いよく頷いた。
前世で見た、イカやタコの動き方。
確か、身体へ取り込んだ水を勢いよく噴き出して、反動で泳ぐ種類がいたはずだ。
今の俺は、身体の形を自由に変えられる。
だったら、似た仕組みを作れるんじゃないか?
そんなことを考えていた。
「面白えな!」
ジェドが笑う。
「よし、やってみろ。ただし、最初はあっちの浅いところだぞ」
……了解。
俺は早速、水へ入った。
◇
まず、身体の中央に大きな空洞を作る。
《構造形成》。
外側を厚く残し、内側を空洞にする。
後ろ側には細い出口。
前側には、水を取り込むための開口部。
……よし。
形はできた。
ただ、ここで問題がある。
空洞を大きくしすぎると、ほかの部分を作る余裕がなくなる。
身体の質量は増えていない。
空洞の壁を厚くすれば、その分だけ脚や触手へ使える部分が減る。
……まあ、そこは仕方ないな。
俺は前側から水を取り込んだ。
空洞が水で満たされる。
……お。
入った。
次に、前側を閉じる。
後ろ側の出口だけを残す。
そして。
《弾性組織》。
空洞を囲む部分を、一気に縮めた。
――ゴボッ!
水が後方へ噴き出した。
同時に。
――シュンッ!
……うおっ!?
俺の身体が、突然前へ飛び出した。
思っていたより、ずっと速い!
視界の端で水底の石が流れていく。
……っ!
待て待て!
速すぎる!
俺は慌てて身体を広げた。
水の抵抗が増え、速度が落ちる。
だが、完全には止まれなかった。
――ごつんっ!
……痛っ!
前方の岩へ、身体の先端がぶつかった。
……。
…………。
……え?
俺はしばらく動けなかった。
今の、何だ?
めちゃくちゃ速かったんだけど。
「ノア!」
岸からルナが叫ぶ。
「大丈夫か!」
俺は触手を高く上げた。
「……へいき!」
……いや。
ちょっとびっくりしたけど。
ジェドが目を丸くしている。
「おいおい! 今の速さ、何だ!?」
……俺も聞きたい。
正直、予想以上だった。
俺は自分の身体を確かめた。
空洞を囲んでいた部分が、少し疲れている。
かなり強い力を使ったらしい。
それでも。
……できた。
水を噴き出して進む。
ただ泳ぐだけじゃない。
自分の身体で、水の流れを作る。
……これは。
かなり使えるぞ。
俺は嬉しくなって、もう1度試そうとした。
だが。
「待て、ノア!」
ジェドに止められた。
……え?
何で?
「今の動き、速すぎる。止まり方を決めてからやれ!」
……。
……あ。
ごもっとも。
俺は素直に岸へ戻った。
◇
「まず、進む方向を決めろ」
ジェドは水面に浮かべた木片を指した。
「まっすぐ進むだけなら簡単だ。難しいのは、途中で向きを変えることと、狙った場所で止まることだぞ」
……なるほど。
確かに、さっきの俺はただ前へ飛んでいっただけだった。
しかも、岩へぶつかってようやく止まった。
……うん。
あれを戦闘でやったら、自分から敵へ突っ込むことになるな。
俺は少し考えた。
《水流感知》。
水の動きを読む。
《構造形成》。
身体の形を変える。
《弾性組織》。
水を噴き出す力を生む。
さらに、《緩衝膜》を使えば、急な衝撃も少しは和らげられる。
……組み合わせれば、何とかなるかもしれない。
俺は身体の後ろへ噴出口を作った。
今度は、小さめに。
空洞へ水を取り込み、ゆっくり縮める。
――シュッ。
……お。
進んだ。
さっきほど速くはない。
でも、安定している。
俺は途中で身体の左右へ短い鰭を広げた。
水の流れを感じながら、角度を変える。
……右。
身体が右へ曲がった。
……左。
今度は左へ。
……よし。
曲がれる。
次は、停止だ。
俺は噴出口を閉じ、身体を横へ広げた。
《緩衝膜》を薄く使い、急な水圧を受けても形が崩れにくいようにする。
――ざぶっ。
……止まった!
今度は岩へぶつからなかった。
俺は少し嬉しくなった。
……よし。
もう1度。
水を取り込む。
圧縮する。
噴き出す。
曲がる。
止まる。
何度も繰り返した。
最初は上手くいかないこともあった。
水を取り込む途中で出口が開いてしまったり、勢いよく噴き出しすぎて回転したり。
それでも、少しずつ感覚が掴めてきた。
《水流感知》があるおかげで、自分が作った流れまで読み取れる。
どの方向へ水が逃げているのか。
どの形なら、効率よく前へ進めるのか。
……分かる。
確かに分かるぞ。
俺は夢中で動きを試した。
そして、何度目かの挑戦で。
――シュバッ!
水面の下を、一気に駆け抜けた。
浮き標の間を抜け、途中で角度を変え、最後はぴたりと停止する。
……っ!
できた!
今度は、完全に制御できた!
俺は水面へ身体を持ち上げた。
「……やった!」
岸から拍手が聞こえた。
ジェドだ。
「すげえじゃねえか!」
その隣では、ルナが目を輝かせていた。
「ノア! 今のは見事だ!」
……だろ!?
俺は嬉しくなって、もう1度水面を揺らした。
今まで、水の中では流れに逆らうのが精いっぱいだった。
でも今は違う。
流れを読み、自分で加速し、好きな方向へ進める。
……ああ。
これなら。
もっと強い相手とも、戦えるかもしれない。
◇
「では、我と勝負してみるか?」
ルナがそんなことを言い出したのは、練習が一段落した頃だった。
……勝負?
俺は顔を上げた。
「安心せよ。水の中で戦えとは言わぬ」
ルナが笑う。
「貴様は水面を進み、我は岸を走る。あの岩まで、どちらが先に着くか競おうではないか」
……お。
なるほど。
短距離競走か。
俺は少し考えた。
水の中なら、今の俺はかなり速い。
だが、ルナも相当な速度で走れる。
しかも、地上での動きには慣れている。
……面白そうだな。
俺は頷いた。
「……やる」
ジェドが笑った。
「よし! 俺が合図してやる!」
目標は、入り江の端にある大きな岩だ。
距離はそれほど長くない。
だが、途中で水路が曲がっている。
まっすぐ進むだけでは勝てない。
俺は水面の下へ身体を沈めた。
ルナは岸辺で低く身構えている。
……よし。
準備はできた。
「位置について!」
ジェドが片手を上げる。
「……始め!」
――ダンッ!
ルナが地面を蹴った。
同時に、俺は身体の空洞を縮める。
――シュバッ!
水が後方へ噴き出した。
俺の身体が、一気に加速する。
……速い!
横を見ると、岸を走るルナが並んでいた。
……おいおい。
やっぱり速いな!
ルナがちらりとこちらを見る。
「ふん! なかなかやるではないか!」
……そっちこそ!
俺はさらに水を取り込んだ。
もう1度、噴射。
――シュッ!
……お。
少し前へ出た!
ルナの耳が動く。
「……む!」
……よし。
このまま行けば!
そう思った瞬間。
水路が曲がった。
……っ!
俺は急いで身体を広げた。
《水流感知》。
流れを読む。
鰭の角度を変え、身体を横へ滑らせる。
……曲がれ!
――ざぶっ!
少し速度が落ちた。
だが、曲がれた。
岩が見える。
……あと少し!
俺は最後の水を噴き出した。
――シュバッ!
その瞬間。
「……甘い!」
ルナが岸を蹴った。
――タンッ!
白銀の身体が、石の上を跳ぶ。
……えっ!?
俺は目を見開いた。
ルナが、そのまま岩へ飛び乗った。
俺も水面から触手を伸ばす。
――ぴたっ!
岩へ触れた。
……っ!
どっちだ!?
ジェドが大声で笑った。
「ほとんど同時だ!」
……ええっ!?
俺はルナを見た。
ルナも俺を見返している。
しばらく、沈黙。
そして。
「……ふん」
ルナが尻尾を持ち上げた。
「今回は、引き分けにしておいてやろう」
……いや。
その言い方、絶対自分が勝ったと思ってるだろ。
俺は触手を左右へ振った。
ルナは楽しそうに笑った。
「次は負けぬぞ!」
……こっちの台詞だ!
俺はもう1度、身体を高く持ち上げた。
◇
昼過ぎ。
俺たちは舟溜まりの端で休んでいた。
水中での噴射移動は、思った以上に身体へ負担がかかる。
特に、空洞を一気に縮める動きは、何度も繰り返すと疲労が溜まった。
今のところ、全力で使えるのは短い距離だけだ。
……でも。
十分だと思う。
今まで俺が苦手だった、水中での素早い移動。
それを、ようやく自分の力でできるようになったんだから。
俺は水面を眺めた。
……よし。
次は、これを戦闘で使えるようにしたい。
そんなことを考えていると、近くの船から声がした。
「おい、ジェド! 水門の方から変な魚が入り込んできたぞ!」
……ん?
俺は顔を上げた。
ジェドが立ち上がる。
「変な魚?」
「ああ! 荷船の下へ潜り込んで、積み荷を荒らしてやがる!」
……え。
魚が積み荷を?
俺たちは急いで船着き場へ向かった。
◇
そこには、かなり大きな魚がいた。
長い身体。
暗い灰色の鱗。
背中から伸びる鋭い鰭。
大きさは、人間の大人より少し長いくらいだろうか。
荷船の脇で暴れ、積み込まれた魚の入った籠へ何度も身体をぶつけている。
……おいおい。
でかいな!
「あいつ、鋸鰭魚だ!」
ジェドが叫んだ。
「近づくな! 鰭で切られるぞ!」
……ノコギリヒレウオ?
俺は魚の背中を見た。
確かに、鋭い突起が並んでいる。
あれにぶつかったら、かなり痛そうだ。
しかも、動きが速い。
水中で身体をひねり、船の下へ潜り込む。
……なるほど。
厄介そうな相手だな。
船頭たちが長い竿を持って追い払おうとしている。
だが、鋸鰭魚は簡単には離れなかった。
むしろ、竿を避けながら船の下へ回り込み、別の籠へ向かっている。
……ああ。
魚の匂いに釣られてきたのか。
俺は少し考えた。
今の俺なら、あいつへ追いつけるだろうか。
……いや。
試す価値はある。
俺はジェドへ目を向けた。
「……いく」
「おい、ノア!」
俺は水面を指した。
「……とめる」
ジェドは一瞬ためらった。
だが、俺の表情を見て頷いた。
「……分かった。ただし、危なかったらすぐ戻れ!」
……了解。
ルナが隣へ来た。
「我も手伝おう」
……おう。
俺は水面へ身体を沈めた。
◇
鋸鰭魚は、思っていた以上に速かった。
船の下を滑るように移動し、急に向きを変える。
俺は《水流感知》で位置を追った。
……右!
魚が曲がる。
俺も身体をひねる。
……左!
今度は逆方向へ。
……なるほど。
速いけど、流れは隠せない。
俺は身体の中央へ水を取り込んだ。
《構造形成》。
空洞を作る。
《弾性組織》。
力をためる。
そして。
――シュバッ!
一気に噴射した。
……っ!
俺の身体が加速する。
鋸鰭魚との距離が、急速に縮まった。
……追いついた!
魚がこちらを向く。
大きな口が開いた。
……っ!
噛みつく気か!
俺はすぐに身体を横へ広げた。
《水流感知》。
相手の動きを読む。
次の瞬間、鋸鰭魚が突進してきた。
――ゴボッ!
……危なっ!
俺は鰭のように広げた身体を傾け、横へ滑った。
鋸鰭魚の鋭い背鰭が、すぐ横を通り過ぎる。
……よし。
避けた。
だが、相手はすぐに向きを変えた。
速い!
しかも、今度はこちらへ真っ直ぐ向かってくる。
……なら。
俺は身体の前方へ、太い触手を1本作った。
先端を硬くする。
根元には弾性を持たせる。
……よし。
昨日、工房で覚えた動き。
いや。
今は、あのときよりずっと速くできる。
鋸鰭魚が迫る。
俺は水を取り込んだ。
身体を一気に縮める。
――シュバッ!
前へ加速。
同時に、触手を突き出した。
《硬質外皮》。
――ゴンッ!!
鈍い衝撃が、水の中へ広がった。
……っ!
当たった!
鋸鰭魚の側面へ、硬い触手が突き刺さるようにぶつかった。
魚の身体が大きく横へ流される。
……おお!
効いてる!
俺は思わず驚いた。
自分でも、ここまで威力が出るとは思わなかった。
水の中で加速し、その勢いを攻撃へ乗せる。
ただ触手を伸ばすだけとは、まるで違う。
……これ。
かなり強いぞ!
だが。
鋸鰭魚は、まだ倒れていなかった。
身体を大きくひねり、鋭い背鰭を振り回す。
――ザシュッ!
……っ!
俺は反射的に《緩衝膜》を広げた。
その上へ《硬質外皮》を薄く重ねる。
――ガッ!
鋭い鰭が、身体の表面をかすめた。
……痛っ!
完全には防げない。
だが、衝撃は和らいだ。
傷も浅い。
……よし。
まだ動ける。
俺は距離を取った。
鋸鰭魚が、もう1度こちらへ向かってくる。
……今度は。
少し、やり方を変えよう。
俺は身体の左右へ短い触手を作った。
さらに、後方へ噴出口。
中央には水を取り込む空洞。
そして、前方には硬い突起。
……よし。
今なら、全部を同時に維持できる。
ただし、長時間は無理だ。
一瞬で決める。
俺は鋸鰭魚の動きを読んだ。
右へ曲がる。
次に、こちらへ向きを変える。
……来る。
俺は身体を細くした。
《水流感知》。
魚が水を押す。
その流れが、身体へ伝わる。
……今!
俺は斜め後方へ水を噴き出した。
――シュバッ!
身体が横へ加速する。
鋸鰭魚の突進を避け、その側面へ回り込む。
……よし!
同時に、太い触手を伸ばした。
《弾性組織》。
根元にためた力を放つ。
――ドンッ!!
硬い先端が、鋸鰭魚の頭の横へ直撃した。
魚の身体が大きく揺れる。
そのまま、勢いを失って水中へ沈みかけた。
……っ!
効いた!
俺はすぐに身体を伸ばした。
《粘着性》。
鋸鰭魚へ触手を絡める。
……よし!
捕まえた!
だが、相手はまだ暴れている。
俺は水面へ顔を向けた。
「……ルナ!」
「分かっておる!」
岸から声が返ってきた。
ルナが前脚を持ち上げる。
「《衝撃》!」
――ドンッ!
鋸鰭魚の横で、水が弾けた。
衝撃に驚いた魚が、俺の方へ身体をひねる。
……今だ!
俺はその動きに合わせて触手を巻きつけ、岸へ向かって水を噴き出した。
――ザバァッ!
……っ!
重い!
さすがに、大きな魚を引っ張りながら進むのは簡単じゃない。
だが、今の俺には勢いがある。
《水流感知》で抵抗を減らし、《弾性組織》で水を押し出す。
少しずつ。
確実に。
……よし!
岸が近づいた!
「引き上げるぞ!」
ジェドたちが網を広げた。
俺は最後の力で鋸鰭魚を浅瀬へ押し込む。
――バシャアッ!
魚が網の中へ滑り込んだ。
男たちが一斉に縄を引く。
「よし! 捕まえた!」
……っ!
俺は水面から身体を持ち上げた。
……やった。
本当に、捕まえたぞ。
しかも。
ほとんど、自分の力で。
俺は少しの間、動けなかった。
身体は疲れている。
だが、それ以上に。
……嬉しかった。
◇
「……すげえな、お前」
ジェドが呆れたように言った。
網の中では、鋸鰭魚がまだ時折身体を動かしていた。
ただし、暴れる力はかなり弱まっている。
「まさか、あいつを水の中で捕まえるとは思わなかったぞ」
……俺も、ちょっと驚いてる。
正直、最初は追い払えれば十分だと思っていた。
でも、実際に戦ってみると、意外なほど身体が動いた。
水流を読む。
加速する。
相手の側面へ回り込む。
そして、硬い触手で攻撃する。
……全部、繋がったんだ。
俺は自分の身体を眺めた。
《水流感知》。
《構造形成》。
《弾性組織》。
《硬質外皮》。
《緩衝膜》。
それぞれの性質は、単独でも役に立つ。
でも、組み合わせると。
……こんなに違うのか。
俺は少し興奮していた。
今まで、俺は何かを覚えるたびに、それを使いこなそうとしてきた。
でも、今日は違う。
複数の性質を、1つの動きとして使えた。
……これだ。
俺が目指したい強さは、きっとこういうものなんだ。
「……ノア」
ルナが隣へ来た。
……ん?
「今日の貴様は、実に見事だったぞ」
俺は顔を上げた。
ルナは真剣な表情をしていた。
「水の中では、我より速かったかもしれぬ」
……え?
俺は少し驚いた。
ルナが、そんなことを言うなんて。
「ふん。もちろん、陸では負けぬがな」
……ああ。
そこは譲らないんですね。
俺は思わず笑った。
ルナも、少しだけ口元を緩める。
「だが、よくやった」
……ありがとな。
俺は触手を伸ばした。
ルナの前脚へ、軽く触れる。
「……ルナ、も」
「む?」
「……ありがと」
ルナは一瞬、目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「……当然であろう」
……うん。
そうだな。
俺たちは、2人で戦ったんだから。
◇
夕方。
捕まえた鋸鰭魚は、水運組合の者たちに引き渡された。
どうやら、あの魚は普段、もっと下流の深い場所に棲んでいるらしい。
しかも、最近は水路の流れが不安定になっているせいか、普段見かけない水生魔物が入り込むことが増えているという。
……なるほど。
地下の水門と、関係があるのかもしれないな。
俺は少し考えた。
もし、あの巨大な魔物が水門へぶつかっているなら。
そのたびに水の流れが変わり、ほかの魚たちの暮らす場所にも影響が出ているのかもしれない。
……まあ。
まだ、推測だけど。
俺たちはギルドへ今日の出来事を報告し、そのまま宿へ戻った。
さすがに、身体は疲れていた。
全力の噴射移動を何度も使ったせいで、空洞を作る部分が少し重い。
だが。
……これくらいなら、休めば戻る。
昨日までの俺とは違う。
確実に、できることが増えていた。
◇
宿の部屋へ戻ると、ルナが寝台の上へ跳び乗った。
「……ふう」
珍しく、少し疲れたような声だった。
……大丈夫か?
俺は近づいた。
「……ルナ?」
「ん? ああ、平気だ」
ルナは身体を丸めながら答えた。
「今日は、なかなか面白かったな」
……ああ。
本当に。
俺は寝台の横へ身体を広げた。
窓の外では、レムナの運河に夕日が映っている。
今日は、朝からいろいろあった。
地下水門の報告。
新しい泳ぎ方の練習。
ルナとの競争。
そして、鋸鰭魚との戦い。
……忙しい1日だったな。
俺は自分の身体を見た。
水を取り込み、噴き出す。
その反動で、一気に加速する。
あの感覚が、まだ残っている。
……もっと速くできる。
もっと強くも。
そして、もっと自由に動けるはずだ。
俺は静かに身体を持ち上げた。
すると、ルナがこちらを見た。
「……ノア」
……ん?
「今日は、もう練習するなよ」
……え。
何で分かったの?
ルナは呆れたように鼻を鳴らす。
「貴様の考えることなど、すぐ分かる」
……そうですか。
俺は渋々、身体を低くした。
ルナは満足そうに頷き、目を閉じる。
しばらく、静かな時間が流れた。
俺は窓の外を眺めながら、今日の戦いを思い返していた。
水の中で加速した瞬間。
鋸鰭魚へ追いついた瞬間。
そして、最後に岸へ引き上げた瞬間。
……ああ。
俺、ちゃんと強くなってるな。
以前なら、あんな相手を前にしたら逃げることしか考えられなかったかもしれない。
でも、今は違う。
相手を見て。
考えて。
自分の身体を変えて。
そして、戦える。
……よし。
もっと強くなろう。
俺は静かに決めた。
次に地下へ入るとき。
あの巨大な影と向き合うことになっても。
今度は、ただ逃げるだけじゃなくて。
ちゃんと、自分で選べるように。
戦うのか。
助けるのか。
それとも、別の方法を探すのか。
……そのためにも。
もっと強くならないとな。
俺は身体を丸めた。
隣では、ルナが静かに眠り始めている。
……うん。
今日は、もう休もう。
明日になれば、また新しいことができるかもしれない。
そんなことを考えながら、俺もゆっくり意識を落としていった。




