第3部 第9話 水の底の空
水の中に、空があった。
正確には、空に見えるほど大きな空洞だ。
頭上には岩の天井が広がり、青い光が星のように浮かんでいる。足元には深い水が満ち、その向こうへ石造りの通路が伸びていた。
……すごい。
俺は水中で動きを止めた。
こんなものが、町の地下に隠れていたのか。
だが、感動していられたのは、ほんの短い間だった。
――ドゥン。
突然、遠くで何かが動いた。
青い光が、一斉に揺れる。
次の瞬間、穏やかだった水が、俺の身体を奥へ引っ張り始めた。
……っ!
俺はすぐに触手を石壁へ伸ばした。
《粘着性》。
間一髪、壁の突起を掴む。
それでも、水の勢いは弱まらない。
……何だ、これ。
川の流れとは違う。
まるで、この空洞そのものが水を吸い込んでいるようだった。
◇
その日の朝、俺たちはレムナ南部の古い水路に集まっていた。
ネリが正式な調査許可を取り、昨日より多くの道具が運び込まれている。
縄の束、測定棒、水位を記録する板。それから、石枠の角を保護するための厚い革。
ジェドは水路の底に立ち、縄を引いて強度を確かめていた。
「よし。これなら簡単には切れねえ」
「簡単には、ね」
ネリが念を押す。
「絶対に切れない縄なんてないんだから、限界まで伸ばさないこと。昨日決めた合図も忘れないで」
……はい。
停止は2回。
帰還は3回。
俺は触手で縄を軽く叩いてみせた。
ネリは満足そうに頷いた。
「今日は入口の先にある広い空間を調べるわ。ただし、進んでいいのは縄の赤い印まで。それ以上は行かないこと」
……了解。
俺は腰に相当する部分へ、縄を通すための輪を作った。
《構造形成》。
周囲の組織を厚く残し、変形しても輪が小さくならないよう意識する。
ジェドが軽く引いた。
抜けない。
今度は俺が細くなってみる。
それでも輪は残った。
……よし。
昨日の練習は無駄じゃなかったな。
「それと」
ネリは俺の目を見た。
「向こうで何か見つけても、今日は持ち帰らなくていいから。場所と形を覚えて、無事に戻ってきて」
……あ。
先に言われた。
そんなに珍しいものを拾って帰りそうに見えるんだろうか。
「見えるぞ」
隣でルナが言った。
……え?
「貴様なら、面白い石を見つけただけでも追いかけかねぬ」
……。
そこまでじゃないと思うんだけど。
ネリとジェドが揃って頷いている。
……信用ないなあ。
俺が身体を縮めると、ルナが笑った。
「だから、我がここで見張っておく」
ルナは縄を前脚で押さえた。
「戻る合図が来たら、我も引くぞ」
……おう。
頼んだ。
俺はルナへ触手を伸ばし、その前脚へ軽く触れた。
いつもなら、そのまま冗談を言うところだ。
でも、今日はそれだけにした。
地下で何が起きるか、まだ誰にも分からない。
俺も少し緊張していた。
◇
石枠の隙間を抜けると、周囲の音が変わった。
水が石に触れる細かな響き。
離れた場所で生まれた渦。
そして、奥から周期的に押し寄せてくる、ゆっくりとした流れ。
《水流感知》。
俺は水を感じながら、身体を細長く伸ばした。
左右へ短い鰭を形成し、流れに合わせて角度を変える。
以前なら、進むだけで身体が回転していた。
だが今は、少し違う。
流れを受ける場所と、受け流す場所を意識して作れるようになっていた。
……よし。
進める。
石の通路を抜けると、視界が開けた。
暗闇の中に、青い光が浮かんでいる。
青灯クラゲだ。
昨日は数匹しか見えなかったが、今日はもっと奥まで見渡せた。
小さな傘がゆっくり開き、閉じる。
そのたびに青白い光が揺れ、水中へ細かな波が広がっていく。
……綺麗だな。
まるで、水の中に星が散らばっているみたいだ。
俺は少し離れたところを通った。
昨日、触れられたときに身体が動かしにくくなったのを覚えている。
見た目は綺麗でも、無闇に近づいていい相手じゃない。
クラゲの群れを避けながら進むと、足元の石が途切れた。
……ん?
俺はそこで止まった。
通路の先に、段差がある。
その向こうは、ずっと深い。
小さな目を下へ向けても、底が見えなかった。
……おいおい。
思った以上に広いぞ。
俺は縄の位置を確かめた。
まだ余裕がある。
そこで、身体を壁へ沿わせながら、少し上へ移動した。
天井に近づくほど水の流れが弱くなる。
そして。
――ぽこん。
俺の目が、水面から出た。
……あ。
空気だ。
水の上に、空間がある。
頭上には高い岩の天井。
その間を、何本もの石柱が支えていた。
壁には古い通路の跡があり、水面より高い場所には、石でできた細い足場まで残っている。
……すごい。
これ、自然にできた洞窟じゃない。
少なくとも、誰かが手を加えている。
俺は視覚器官を少し高く伸ばした。
青灯クラゲの光が水面に反射し、石柱の下側を淡く照らしていた。
奥には、半円形の大きな石壁が見える。
その中央には、黒い隙間があった。
……扉?
いや。
水門かもしれない。
俺は古い排水施設のことを思い出した。
ネリが見せてくれた図面。
昔のレムナでは、大雨のときに余分な水を流すため、いくつもの水路を作っていたらしい。
もし、ここもその一部なら。
……こんな大きな施設を、どうやって作ったんだ?
俺はしばらく石柱を眺めていた。
人間だった頃の建物とは、まるで造りが違う。
巨大な石を正確に組み合わせ、その上へ通路を渡している。
魔法を使ったのか。
それとも、この世界には俺の知らない建築技術があるのか。
……気になるな。
ただ、今は調査中だ。
俺は身体を石壁へ戻し、水中の様子を確かめた。
◇
最初に気づいたのは、青灯クラゲの動きだった。
群れの一部が、同じ方向へ流されている。
しばらくすると止まり、今度は反対側へ。
……ん?
俺は触手を水へ広げた。
《水流感知》。
確かに、流れが切り替わっている。
でも、昨日ネリたちと調べたときより、ずっとはっきりしていた。
水が奥へ向かう。
しばらく止まる。
それから、手前へ戻る。
……何だろう。
まるで、大きな容器に水を入れたり出したりしているみたいだ。
俺は石壁に沿って、少し移動した。
その先に、さっき見た半円形の構造物がある。
まだ距離はあるが、ここからでも形が分かる。
分厚い石の板。
その両側に、縦長の溝。
そして、上部に取りつけられた大きな輪。
……やっぱり、水門だよな。
俺は水の動きを観察した。
すると、半円形の石板の下から、突然泡が浮かんだ。
――ごぼっ。
……え?
俺は目を凝らした。
泡は次々と上がってくる。
その直後。
――ドゥン。
低い振動が、水の中を伝わった。
石板が、わずかに動いた。
……っ!
動いた!?
俺は反射的に身体を縮めた。
続けて、奥へ向かう水流が強くなる。
青灯クラゲたちが、流れに逆らうように傘を動かしていた。
……なるほど。
あの石板が動くと、水の流れも変わるのか。
だったら、レムナの古い水路で起きていた逆流も、この施設と関係しているのかもしれない。
俺はもう少し詳しく見ようとした。
そのときだった。
――ドゥン。
再び振動。
今度は、さっきより大きい。
水門の下から、急に水が押し出された。
……っ!?
俺は慌てて身体を壁へ固定した。
だが、直後に流れが反転する。
今度は奥へ。
しかも、かなり強い。
……まずい!
俺は触手を細くし、水の抵抗を減らした。
それでも、身体が引っ張られる。
石壁に固定していた部分が、少しずつずれ始めた。
……くそっ。
《水流感知》で流れは分かる。
でも、分かるからといって逆らえるわけじゃない。
俺は一度、無理に押し返すのをやめた。
そして、身体の向きを変える。
流れに対して正面を向けない。
薄く、細く。
抵抗を減らしながら、石壁へ沿わせる。
……よし。
少し楽になった。
だが、今度は別の問題が起きた。
外へ繋がる縄が、石の角へ擦れている。
……っ。
まずいぞ。
俺が流されれば、縄も引っ張られる。
このままでは、角で傷つくかもしれない。
俺は反射的に身体を伸ばしかけた。
そこで、昨日獲得した性質を思い出した。
《緩衝膜》。
……これだ。
俺は縄に沿って身体の一部を伸ばし、石の角へ当たる場所に柔らかな層を作った。
薄い膜を何重にも重ねる。
その下には、支えとなる少し硬い構造。
縄そのものを強くするわけじゃない。
ただ、石の角へ直接擦れないよう、間に自分の身体を挟む。
……よし。
縄の動きが落ち着いた。
ただし、俺自身には負担がかかる。
強い流れを受けるたび、緩衝膜が押し潰される。
……っ。
長くは持たないな。
俺は出口の方へ目を向けた。
ここで無理をする理由はない。
見たいものは、もう見た。
水が逆流する原因らしい構造も分かった。
……帰ろう。
俺は縄を3回引いた。
帰還の合図だ。
しばらくして、外側から同じ回数の返事が来た。
……よし。
繋がってる。
俺は緩衝膜で縄を守りながら、ゆっくり石枠の方へ戻った。
だが。
その途中で、妙なものが目に入った。
水門の向こう側。
黒い隙間の奥だ。
青い光が、不自然に消えていく。
1つ。
また1つ。
まるで、大きな影が光を遮っているようだった。
……ん?
俺は目を凝らした。
暗い水の中で、何かがゆっくり動いている。
輪郭は分からない。
ただ、水の流れが変わった。
今まで感じたことのない、大きな水の動き。
……何か、いる?
俺はしばらくその場所を見つめた。
だが、次の瞬間。
――ぐいっ。
縄が3回引かれた。
外からの帰還指示だ。
……あ。
俺はすぐに視線を戻した。
これ以上、ここにいるわけにはいかない。
俺は石壁を離れ、細い通路へ身体を滑り込ませた。
水流に押されそうになりながらも、《水流感知》で向きを調整する。
少しずつ。
確実に。
……よし。
入口が見えた。
俺は最後の力で身体を縮め、石枠の隙間を抜けた。
◇
「ノア!」
外へ出た瞬間、ルナが駆け寄ってきた。
「大丈夫か!」
俺は身体を石段へ広げた。
……ふう。
疲れた。
正直、思っていた以上に。
だが、大きな怪我はしていない。
俺は触手を上げた。
「……へいき」
ルナはしばらく俺を見ていたが、やがて息を吐いた。
「……ならばよい」
その声を聞いて、少し安心した。
ジェドが縄を確かめる。
「おいおい。途中で随分と強く引っ張られたぞ」
……ああ。
すごい流れだった。
俺は身体を持ち上げ、水路の奥を指した。
「……みず、つよい」
ネリがすぐに近づいてくる。
「流れが変わったの?」
俺は頷いた。
「……ぎゃく」
「逆流?」
もう1度頷く。
ネリはすぐに記録板へ目を落とした。
「……やっぱり」
……ん?
俺は顔を上げた。
ネリが測定棒を指した。
「あなたが潜っている間、こっちの水位も変わっていたの。最初は少し下がって、それから急に上がった」
……そうだったのか。
俺は少し考えた。
水門が動いたとき。
水の流れが強くなった。
それに合わせて、外側の水位も変わった。
……繋がってるのか。
俺は砂の上へ触手を伸ばした。
まず、大きな丸を描く。
地下の広い空間。
次に、その端へ半円形の線。
その両側へ、縦長の溝を描いた。
ネリが屈み込む。
「……何これ?」
俺は半円形の線を指した。
「……もん」
「門?」
「……みず、もん」
ネリの表情が変わった。
「水門があるの?」
俺は頷いた。
「……おおきい」
ジェドも覗き込んできた。
「地下に水門? そんな話、聞いたことねえぞ」
……俺も初めて見たよ。
俺は図の端に、短い線を何本か加えた。
石柱。
高い通路。
それから、大きな輪。
ネリはしばらく黙って眺めていた。
「……これ、ただの地下湖じゃないわね」
……ん?
「もし本当にこんな構造があるなら、昔の水利施設よ。しかも、かなり大規模な」
ジェドが腕を組む。
「町の地下に、そんなもんが眠ってたってのか?」
「可能性はある。でも、まだ断定できないわ」
ネリは図面を取り出し、俺が描いた形と見比べ始めた。
「……待って。これ、もしかして」
彼女の指が、古い水路の一部で止まる。
そこには、小さな四角い印が描かれていた。
「この印、ずっと意味が分からなかったのよ」
……印?
俺は顔を近づけた。
「ただの補修箇所だと思っていたけど……もし、地下へ続く設備の位置を示しているなら」
ネリは図面の別の場所を指した。
「ここにも同じ印がある」
……あ。
本当だ。
俺は目を動かした。
今いる水路から少し離れた場所。
町の外側に近いところだ。
「昔の点検口かもしれないわ」
……点検口?
「水門を整備するための入口よ。もし残っていれば、人が通れる通路に繋がっている可能性がある」
……おお。
それなら。
俺はルナを見た。
ルナも図面を覗き込んでいた。
「……我らも、あちらから入れるかもしれぬのか?」
ネリは頷いた。
「塞がれていなければね」
……なるほど。
それは、いいな。
俺は少し嬉しくなった。
水中の狭い通路は、今の俺なら通れる。
でも、ルナやネリたちは入れない。
もし陸から入れる道があるなら、もっと安全に調べられるかもしれない。
それに。
ルナにも、あの青い光を見せられる。
俺は砂の上へ、小さな丸をいくつも描いた。
クラゲの光だ。
「……あおい」
ルナが顔を上げる。
「……あの光か?」
俺は頷いた。
「……いっぱい」
「そうか」
ルナは、少しだけ目を細めた。
「……ますます見たくなったな」
……だろ?
俺は小さく身体を揺らした。
◇
調査の記録をまとめていると、ネリがもう1度俺を呼んだ。
「ノア。最後に、1つだけ確認させて」
……ん?
俺は顔を向けた。
「水門が動いたとき、何か別の音や振動は感じなかった?」
……あ。
俺は動きを止めた。
そうだった。
最後に見た、あの影。
水門の向こう。
暗い水の中で、何か大きなものが動いていた。
……あれは。
俺は少し考えた。
はっきり見えたわけじゃない。
大きさも、形も分からない。
ただ、水の動き方が変わったことだけは覚えている。
俺は触手を伸ばし、さっき描いた水門の向こうへ大きな影を描いた。
ネリが覗き込む。
「……何か、いたの?」
俺は少し迷ってから頷いた。
「……おおきい。……なにか」
ルナの耳が立った。
「生き物か?」
……分からない。
俺は触手を左右へ振った。
「……みえない」
ネリはしばらく黙った。
そして、ゆっくり口を開いた。
「……なるほど」
彼女は記録板へ新しい項目を加えた。
「水門の向こうに、大きな物体が動いた可能性あり。ただし、正体は未確認、と」
……そう。
今は、それが正確だと思う。
ネリは図面を閉じた。
「次は、古い点検口を探してみましょう。もし人が入れる通路が残っていれば、地下の水門を別の角度から調べられるかもしれない」
ジェドが頷く。
「俺も手伝う。昔の水路なら、町の古い職人に知ってる奴がいるかもしれねえ」
……よし。
少しずつ、進んできたな。
最初は、ただの逆流だった。
それが、今では地下の大きな空間に繋がっている。
青い光。
古い石柱。
巨大な水門。
そして、暗闇の奥で動いた何か。
……面白くなってきた。
俺がそんなことを考えていると、ルナが隣へ来た。
「……ノア」
……ん?
「今日は、無事に戻ってきたな」
俺は小さく頷いた。
「……やくそく」
ルナは少し驚いたように目を丸くした。
それから、静かに笑う。
「……うむ。守ったな」
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
今回は、無茶をしなかった。
もっと奥を見たい気持ちはあった。
あの影が何なのか、確かめたいとも思った。
でも、戻ってきた。
それで、次に進む道が見つかった。
……こういうやり方も、悪くないな。
ルナは俺の隣へ座り、図面を眺めた。
「次は、我も行くぞ」
……ああ。
もちろん。
俺は身体を上下させた。
「……いっしょ」
ルナが頷く。
「うむ」
そして、少しだけ得意そうに笑った。
「今度こそ、あの青い光を見せてもらおう」
……任せてくれ。
俺は水路の奥へ目を向けた。
静かな水面。
その下では、今もゆっくりと水が行き来している。
そして、そのさらに奥。
巨大な水門の向こう側では、何かが動いている。
俺たちがまだ知らない、水の世界。
そこへ続く道は、どうやら1つだけではなかった。




