第3部 第7話 川底の窓
「水は、低い方へ流れる。そこは魔法があっても変わらないはずなんだけどね」
目の前の女性はそう言って、水路へ木片を落とした。
木片はゆっくり回転しながら流れていく。
南へ。
……いや。
途中で向きを変えた。
石壁に沿って大きく回り込み、今度は北へ進み始める。
女性がため息をついた。
「ほら。また逆流してる」
……なるほど。
確かに、おかしいな。
俺は水面を眺めた。
ここはレムナの南側にある、古い排水路。
昨日、ギルドのシエナから紹介された調査依頼の現場だった。
そして、俺たちを案内しているのが、水路調査員のネリだ。
◇
「最初に言っておくけど、私は魔獣の扱いには慣れてないからね」
数時間前。
ギルドで顔を合わせたネリは、開口一番そう言った。
青緑色の短い髪に、首元まである作業着。手には大きな革鞄を持ち、腰には測量用の道具をいくつも下げている。
指の間には、薄い水かきがあった。
河港都市では珍しくない、水辺に適応した種族の人らしい。
「危ないことはしないで。勝手に道具を触らないで。それから、私の説明は最後まで聞くこと」
……おお。
なかなか厳しい人だな。
俺は小さく身体を上下させた。
すると、ネリがこちらを見た。
「……今の、返事?」
「……うん」
「喋れるのね」
……一応。
ネリは少し驚いたようだったが、すぐに手元の書類へ目を戻した。
「なら、話が早い。あなたがノアで、そちらがルナね」
「うむ」
ルナが頷く。
ネリは鞄から古い図面を取り出した。
「今回調べたいのは、この南水路。町の外れにある、昔の排水施設よ」
図面には、何本もの水路が描かれていた。
その中の1本が、南へ伸びている。
「もともとは、大雨のときに余分な水を川へ逃がすためのものだったらしいの。でも、今はほとんど使われてない」
……排水路か。
それなら、今まで見てきた運河とは役割が違うんだな。
ネリは図面の一部を指で叩いた。
「最近、この辺りの水位が妙なのよ。晴れていても急に水が増えたり、逆に減ったりする」
「川の増水ではないのか?」
ルナが尋ねた。
「そう思って調べたんだけど、どうも合わないの。上流も下流も、記録と違う動きをしてる」
……記録と違う?
俺は図面を覗き込んだ。
文字はまだほとんど読めない。
ただ、水路の形は分かる。
細い道が途中で曲がり、南へ続いている。
……なるほど。
「普通の作業員だけじゃ危ない場所もあるから、護衛と調査の補助が欲しかったの」
ネリは俺を見た。
「あなた、水の流れが分かるんでしょう?」
……お。
そこまで聞いてるのか。
俺は触手を持ち上げた。
「……わかる」
「どのくらい?」
……どのくらい、か。
難しい質問だな。
俺は少し考えた。
水の中へ身体の一部を入れれば、流れの方向や強さが分かる。
ただし、触れていない水まで見通せるわけじゃない。
俺は自分の触手を指し、次に近くの水桶を示した。
「……さわる。……わかる」
ネリは少し考えてから頷いた。
「直接触れた水の動きを読めるのね。十分よ」
……おお。
伝わった。
ネリは図面を丸めた。
「じゃ、行きましょう。何もなければ夕方には帰れるわ」
……何もなければ。
俺はルナを見た。
ルナも、こちらを見返した。
「……その言い方、少し気になるな」
……同感。
俺は触手を小さく揺らした。
◇
古い南水路は、町の賑やかな運河から少し離れた場所にあった。
石造りの建物が途切れ、低い倉庫や使われなくなった水車小屋が並んでいる。
その奥に、半分ほど草に埋もれた石段があった。
「ここから下りるわ」
ネリが先に進む。
俺たちも後に続いた。
石段の下には、思っていたより広い水路が続いていた。
両側は古い石壁。
底には砂が積もり、ところどころに水草が生えている。
水深は浅い。
ただ、中央だけ少し深くなっていた。
……へえ。
古いわりには、結構しっかりしてるな。
俺は石壁へ触手を当てた。
ざらざらした感触。
ところどころに亀裂はあるが、今すぐ崩れそうな様子はない。
「……ノア」
ルナが呼んだ。
……ん?
「あちらを見よ」
俺は顔を向けた。
石壁の上に、小さな生き物が何匹も並んでいる。
薄い緑色の身体。
細長い脚。
水面へ脚先をつけ、滑るように動いていた。
……お。
アメンボみたいだな。
「妙な動きだ」
ルナは興味深そうに眺めている。
「水の上を歩いておるぞ」
……そうだな。
俺は少しだけ、昔の記憶を思い出した。
子どもの頃、近所の池で見たことがある。
確か、脚の表面に水を弾く性質があって、沈まずにいられるんだったか。
……あ。
水を弾く性質。
俺にも、何か応用できるかもしれないな。
そう考えたところで、ネリの声がした。
「2人とも、そろそろ仕事してくれる?」
……あ。
すみません。
俺は慌ててネリの方へ向かった。
ルナも何食わぬ顔で後についてくる。
……お前も見てただろ。
俺は触手で軽くつついた。
ルナは尻尾を揺らしただけだった。
◇
「まず、ここの流れを確かめたいの」
ネリが細長い測定棒を取り出した。
目盛りの刻まれた木製の棒だ。
彼女は水路の中央へ立ち、棒を底へ突き立てた。
「水位は昨日と同じくらいね」
続いて、小さな木片を水へ落とす。
最初は南へ流れていた。
だが、途中でゆっくり向きを変え、北へ進み始める。
……あ。
本当だ。
ネリは図面を広げた。
「この水路、南に向かって低くなっているはずなのよ」
……うん。
図面にも、そう描いてあるな。
「だから、水が北へ流れるのはおかしい」
ルナが首を傾げた。
「水路の底が、変わったのではないか?」
「その可能性もある。だから調べてるの」
ネリは俺へ向き直った。
「ノア。水の中、確かめてもらえる?」
……了解。
俺は水路の縁へ身体を固定した。
《粘着性》。
次に、細い触手を水中へ伸ばす。
《水流感知》。
……。
水が動いている。
表面の流れは、ゆっくり北へ。
でも。
……ん?
底の方は、少し違う。
俺は触手をさらに伸ばした。
水底に近づくほど、横から押されるような感覚が強くなる。
……あれ?
俺は触手の角度を変えた。
右。
左。
そして、中央。
……あ。
分かった。
水路の底から、別の水が入り込んでいる。
しかも、かなり勢いがある。
見た目には分かりにくいが、深いところでは複雑な渦ができていた。
……なるほど。
俺は触手を引き上げた。
「……した」
ネリが顔を上げる。
「下?」
俺は水底を指した。
「……みず、くる」
ネリが眉を寄せた。
「底から水が入ってくるの?」
俺は頷いた。
「……つよい」
「……なるほど」
ネリは少し考え込み、測定棒をもう1度水へ入れた。
今度は、先端に結んだ細い紐を沈める。
すると。
――すうっ。
紐が、横へ引っ張られた。
「……本当だ」
ネリの表情が変わった。
「底の流れが、横から来てる」
……だろ?
俺は少し得意になった。
ネリは水路の壁を見回した。
「どこかに、別の水の入り口があるはずね」
……そうだな。
俺はもう1度、水中へ触手を伸ばした。
今度は、水の向きを確かめながら進む。
強い流れ。
弱い流れ。
小さな渦。
それぞれの方向を追っていく。
……こっちか。
俺は水路の左側へ向かった。
古い石壁。
その根元に、砂が積もっている。
……ん?
俺は目を近づけた。
砂の一部が、ゆっくり舞い上がっている。
水が、そこから湧き出しているように見えた。
……あ。
ここだ。
俺はネリを呼んだ。
「……ここ!」
彼女が急いで近づいてくる。
「何かあった?」
俺は砂の積もった場所を指した。
「……みず」
ネリは屈み込み、石壁へ手を当てた。
そして、驚いたように目を見開いた。
「……冷たい」
……え?
俺は少し首を傾げた。
ネリは水をすくい、指先で確かめる。
「この水、ほかより冷たいわ。川から流れてきた水じゃないのかもしれない」
……なるほど。
地下水?
そんなものが、入り込んでいるのか?
「この辺りに湧き水の記録はないんだけど……」
ネリは図面を広げ、指を滑らせた。
「少なくとも、この図面には描かれていないわね」
……ふむ。
俺は砂へ触手を伸ばした。
少しずつ、表面を動かす。
すると、砂の下から硬いものが現れた。
石だ。
いや。
ただの石じゃない。
平らな面がある。
……ん?
俺は砂を少し払った。
その下には、四角い石枠が埋まっていた。
古い水路の壁と繋がっている。
……おい。
これ、何だ?
ネリが身を乗り出した。
「……石組み?」
彼女は図面を確かめる。
「こんな構造、どこにも……」
そのとき、ルナが口を開いた。
「……待て」
俺たちは顔を上げた。
ルナは水路の奥を見つめている。
「何か、聞こえぬか?」
……音?
俺は耳ではなく、身体を水へ触れさせた。
《水流感知》。
流れの中に、細かな揺れが混じっている。
水が狭い隙間を通るときの、独特な動きだ。
……あ。
確かに。
石枠の奥で、水が動いている。
しかも、1つの方向だけじゃない。
大きな流れが、いくつも重なっているようだった。
……変だな。
こんな浅い水路の下に、何があるんだ?
◇
「……これ、どうやって調べるつもり?」
ネリが腕を組んだ。
石枠は、水路の底へ半分ほど埋まっている。
入口らしい隙間もあるが、人間が通れる大きさではない。
しかも、周囲には古い石材が積み重なっていた。
無理に動かせば、水路そのものを傷つけるかもしれない。
……うーん。
どうするかな。
俺はしばらく考えた。
すると、ルナが言った。
「ノアなら、入れるのではないか?」
……あ。
そうか。
俺は自分の身体を見た。
確かに。
俺なら、細い隙間へ身体を伸ばせる。
ただし、奥へ進みすぎるのは危険だ。
何があるか分からないし、もし水流が強くなったら戻れなくなるかもしれない。
……まずは、少しだけ。
俺はネリへ目を向けた。
「……みる」
「中へ?」
俺は頷いた。
ネリはすぐには答えなかった。
石枠を見て、俺の身体を見て、それから水路の流れを確かめる。
「……身体の大部分は、外へ残しておける?」
……うん。
それならできる。
「じゃあ、入口のすぐ先だけ。無理に奥へ行かないで」
……了解。
俺は身体を石壁へ固定した。
《粘着性》。
そして、細い触手を伸ばす。
《構造形成》。
先端を薄く。
柔らかく。
少しずつ、石枠の隙間へ入れていく。
……お。
通れる。
入口は狭いが、その奥には少し広い空間があるようだった。
俺は触手の先端へ、小さな視覚器官を作った。
……よし。
見てみよう。
暗い。
最初に見えたのは、古い石の壁だった。
その向こうには、水が流れている。
しかも、思っていたより速い。
……なるほど。
こっちから水が入ってきてたのか。
俺は視覚器官を少し動かした。
右。
左。
そして、下。
……え?
俺は動きを止めた。
石枠の向こう。
そこには、さらに大きな空間が広がっていた。
……何だ、これ。
俺は思わず、もう少し先を見ようとした。
だが。
――ぐいっ。
水流が、触手を引っ張った。
……っ!
まずい!
俺はすぐに触手を細くし、抵抗を減らした。
《水流感知》。
流れの方向を確かめる。
……右から来てる。
いや。
下からも。
……何だ、この流れ。
俺は慎重に身体を引き戻そうとした。
しかし、視覚器官が、あるものを捉えた。
暗い水の向こう。
小さな青い光。
……ん?
俺は動きを止めた。
光が、1つ。
もう1つ。
さらに、その奥にも。
……おい。
何だ、あれ。
まるで、暗闇の中に小さな星が浮かんでいるみたいだった。
俺は目を凝らした。
青い光は、ゆっくり動いている。
……魚?
いや。
水草かもしれない。
何にせよ、ただの石じゃない。
何かが、そこにいる。
……もっと見たい。
そう思った瞬間。
「ノア!」
ルナの声がした。
……あ。
俺は我に返った。
そうだった。
奥へ行きすぎるなって言われてたんだ。
俺はすぐに触手を引き戻した。
細い身体が、石枠の隙間から戻ってくる。
……ふう。
危なかった。
外へ出ると、ルナがじっとこちらを見ていた。
「……貴様、また夢中になっておったな?」
……。
……すみません。
俺は触手を小さく揺らした。
ルナは呆れたように鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、俺の身体へ軽く前脚を置く。
……ああ。
分かってる。
次は気をつけるよ。
◇
「……で、何があったの?」
ネリが尋ねた。
俺は少し考えた。
見たものを、どう説明すればいいんだろう。
大きな空間。
青い光。
水の流れ。
……うーん。
言葉だけでは難しいな。
俺は砂の上へ触手を伸ばした。
まず、細い線を1本描く。
水路。
次に、その下へ大きな丸を描いた。
……こう。
ネリが覗き込む。
「……下に、広い空間があるの?」
俺は頷いた。
「……ひろい」
「どれくらい?」
……どれくらい、か。
正確な大きさは分からない。
見えた範囲だけでも、かなり広かったけど。
俺は触手を大きく広げた。
「……いっぱい」
ネリは少し考え込んだ。
続いて、俺は丸の中へ小さな点をいくつも描いた。
「……ひかる」
「光?」
俺は頷いた。
「……あおい」
ネリの表情が変わった。
「……青い光があるの?」
俺はもう1度頷いた。
ネリはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「……もしかして、地下の水溜まりじゃなくて、もっと大きな場所なのかしら」
……え?
俺は顔を上げた。
「昔の記録に、レムナの地下には広い空洞があるって話が残ってるの」
……空洞?
「ただ、入口が見つからなくて、実在するかどうか分からないままだったらしい」
……へえ。
そんな場所があったのか。
ネリは図面を広げた。
「この水路が造られたのは、かなり昔なの。何度か修理されているけど、最初の工事記録はほとんど残ってない」
……なるほど。
だったら、昔の人間が何かを見つけて、そこへ水路を繋いだ可能性もあるのか。
「もし、その空洞に水が溜まっているなら……」
ネリは考え込みながら続けた。
「大きな地下湖になっているかもしれないわね」
……地下湖。
俺は少し驚いた。
それなら、さっき見えた広い空間も説明がつく。
青く光るものが何なのかは分からないけど。
ルナが静かに言った。
「……面白そうな場所だな」
……ああ。
俺もそう思う。
ただ、あそこへ入るなら準備が必要だ。
今の俺は、水中で自由に動けるようになったばかり。
しかも、水の流れがかなり強かった。
あんな場所へ無計画に入るのは、さすがに危険だ。
ネリも同じことを考えていたらしい。
「今日はここまでにしましょう」
……え?
もう?
「調査は成功よ。水位が不安定になる原因の候補が見つかったんだから」
……ああ。
そうか。
確かに。
ネリは図面を丸めた。
「ただし、これ以上は装備も人手も足りないわ。勝手に進んで事故を起こすわけにはいかないし」
……うん。
そのとおりだ。
俺は小さく身体を上下させた。
「ギルドへ報告して、改めて調査隊を組むことになると思う」
ルナが耳を立てた。
「我らも参加できるのか?」
ネリは少し笑った。
「むしろ、参加してもらいたいくらいよ」
……お?
俺は顔を上げた。
「あなたの身体がなければ、あんな隙間の向こうまで調べられなかったでしょうし」
……ああ。
それは、そうかもしれない。
「それに、水の流れを読める能力も役に立つわ」
……うん。
新しい性質、ちゃんと仕事になってるんだな。
俺は少し嬉しくなった。
ネリは道具を片づけながら言った。
「ただし、次に来るときはもっと慎重にね」
……はい。
分かってます。
俺は素直に頷いた。
ルナが隣で小さく笑った。
「聞いたか、ノア」
……聞いてるって。
「次は、勝手に奥へ進むでないぞ」
……はいはい。
気をつけますよ。
俺は触手を揺らした。
ネリは俺たちのやり取りを見て、少し不思議そうに首を傾げた。
「……あなたたち、ずいぶん仲がいいのね」
……ん?
俺は顔を上げた。
ルナも、少しだけ動きを止めた。
「……当然であろう」
ルナが答えた。
「我らは相棒だからな」
……ああ。
そうだな。
俺は身体を上下させた。
ネリは微笑んだ。
「そっか。いい相棒なのね」
……うん。
俺も、そう思う。
俺はルナを見た。
ルナは何でもない顔をしていたが、尻尾が少しだけ揺れていた。
……何だろう。
ちょっと嬉しそうだな。
俺は何も言わず、隣へ並んだ。
◇
水路から戻る途中、俺たちは川沿いの広場を通った。
夕方のレムナは、いつもどおり賑やかだった。
荷船が行き交い、商人たちが荷物を運んでいる。
屋台では焼き魚が売られ、子どもたちは水路のそばを走り回っていた。
……平和だな。
さっきまで、町の地下に大きな空間があるかもしれないなんて話をしていたのに。
ここにいる人たちは、そんなことを知りもしないんだろう。
それでも、毎日の生活は続いている。
……面白いな。
俺は何となく、足元の石畳を見た。
この下にも、水が流れている場所があるのかもしれない。
そのさらに下には、俺たちがまだ知らない生き物がいるかもしれない。
……うん。
調べてみたい。
本当に。
「……ノア」
ルナが呼んだ。
……ん?
「明日は、また水の練習をするか?」
……お。
俺は少し考えた。
今日、地下の水路で感じた流れ。
あれは、今まで経験したものとは違っていた。
強い流れが複数重なっていて、少し油断すると身体が引っ張られそうになった。
……そうだな。
もっと練習した方がいい。
俺は頷いた。
「……やる」
ルナが笑う。
「うむ。我も付き合おう」
……ありがたい。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
すると、荷物につけた銀色の鈴が小さく鳴った。
――ちりん。
少し遅れて、ルナの鈴も鳴る。
……ああ。
そういえば、昨日もこんな音を聞いたな。
俺は少し笑った。
ルナが顔を向ける。
「……何だ?」
……いや。
何でもない。
俺は触手を揺らした。
ルナは少し首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
俺たちは並んで歩き始めた。
その背後では、レムナの運河が静かに流れている。
そして、そのさらに下。
地図には描かれていない場所で。
青い光が、今も揺れているのかもしれなかった。




