第3部 第5話 2つの鈴
「ノア、勝負だ!」
朝っぱらから、ルナがそんなことを言い出した。
……勝負?
何の?
宿の窓際にいたルナは、通りの向こうを前脚で示した。
運河に架かる橋のたもとに、昨日まではなかった色鮮やかな旗が並んでいる。
その周囲には人だかりができ、何やら賑やかな声が響いていた。
「水上競技をやっておるらしい。参加者を募っているそうだぞ」
……へえ。
俺は窓の外へ目を向けた。
確かに、橋の向こうに大きな木の看板が立っている。
文字はまだ読めないが、絵は分かった。
水の上に浮かぶ丸いもの。
それを追いかける人間。
そして、ゴールらしき旗。
……競争かな?
「ギルドの教官に勝ったのだ。今度は水の上でも腕試しをしてみてはどうだ?」
……いや。
昨日の試験は、別にガレスを倒したわけじゃないぞ。
決められた布を取っただけだ。
しかも、終わった途端に身体が崩れたし。
俺が触手を左右に振ると、ルナは楽しそうに笑った。
「怖じ気づいたか?」
……ほう。
言ってくれるじゃないか。
俺は身体を持ち上げた。
「……やる」
「うむ! そうこなくてはな!」
ルナの尻尾が大きく揺れた。
……ただし。
昨日は無理をしたから、今日こそ加減しないとな。
そう考えながら荷物をまとめていると、ルナが何気なく言った。
「ちなみに、優勝すると景品がもらえるらしいぞ」
……ああ。
なるほど。
お前が急に張り切りだした理由、ちょっと分かった気がする。
◇
運河の広場は、朝から大勢の人で賑わっていた。
橋の下には、石壁で囲まれた浅い水路がある。
普段は舟の操縦や水運作業の練習に使われる場所らしい。
その水路の上に、木製の浮き輪がいくつも流されていた。
赤。
青。
黄色。
色ごとに大きさが違い、流れる速さも少しずつ異なっている。
「さあ、次の組だ! 準備はいいか!」
係員らしい男が叫ぶ。
水路の片側には、細長い木の板が設置されていた。
そこに立つ参加者が、水面を指さして何かを伝えている。
もう1人は、水の中。
流れてくる輪を追いかけていた。
……なるほど。
2人1組の競技か。
俺たちが様子を見ていると、背後から声をかけられた。
「参加するの?」
振り返ると、短い黒髪の少年が立っていた。
年齢は13歳くらいだろうか。
腕には水路管理用の紋章が入った布を巻いている。
「俺、フィン。ここの手伝いをしてるんだ」
……お。
よろしく。
俺は触手を軽く持ち上げた。
フィンは俺の姿を見るなり、目を丸くした。
「うわ、本当に形が変わるんだ!」
……え?
本当に?
「昨日、ギルドの試験で変な動きをする魔獣がいたって聞いたんだよ。あんたのこと?」
……変な動き。
間違ってないけど、もうちょっと言い方あるだろ!
ルナが得意そうに胸を張った。
「うむ。ノアは昨日、ギルドの教官から布を奪ったのだ」
「すげえ!」
フィンが目を輝かせる。
「じゃあ、絶対参加してよ!」
……おいおい。
そんな大したことじゃないって。
とはいえ、興味はある。
俺は水路を眺めた。
流れは穏やかだが、途中に細い仕切りが設置されている。
輪は、その間を縫うように流れていく。
……面白そうだな。
「ルールは簡単!」
フィンが説明を始めた。
「水の中に入る人が、流れてくる輪を3つ集めるんだ。もう1人は上から指示を出していい。でも、手を出すのは禁止!」
……なるほど。
「制限時間は、砂時計が落ちきるまで。3つ全部集められたら成功!」
ルナが尋ねた。
「魔術を使ってもよいのか?」
「駄目。水路を壊したら困るからね」
……うん。
そりゃそうだ。
ルナの《衝撃》なんて使ったら、競技どころじゃなくなりそうだし。
「身体の形を変えるのは?」
俺が触手を動かすと、フィンは少し考えた。
「……それ、魔術?」
「違うぞ」
ルナが答える。
「ノア自身の身体だ」
「なら、いいんじゃないかな。泳ぎ方は自由だし」
……お。
ありがたい。
俺はルナを見た。
ルナもこちらを見る。
「ふむ。ならば我が指示役だな」
……ああ。
それがいいだろう。
昨日は俺が水中で動いて、ルナが周囲を見てくれた。
今日も同じ組み合わせだ。
俺は身体を上下させた。
「……やろう」
フィンが嬉しそうに笑った。
「決まり! こっちで受付して!」
◇
「位置について!」
俺は水路の端へ身体を広げた。
石壁には、すでに《粘着性》で固定してある部分がある。
安全用の縄も、邪魔にならない位置へ結んでもらった。
水深は浅く、底には滑らかな石が敷かれている。
ただし、途中の仕切りを越えるには、水の中を進む必要があった。
……よし。
準備はできた。
「ノア!」
上の板から、ルナが呼ぶ。
「最初の輪は、右から来るぞ!」
……了解。
俺は水面を見た。
赤い輪が1つ、ゆっくり流れてくる。
……あれだな。
「始め!」
フィンが声を上げた。
俺は水中へ身体を伸ばした。
《水流感知》。
水の動きが、身体の表面へ伝わってくる。
……よし。
昨日より、ずっと分かりやすい。
俺は身体の両側へ短い鰭を作り、水を後ろへ押した。
――すうっ。
ゆっくり進む。
赤い輪が近づいてきた。
……よし。
あと少し。
俺は触手を伸ばした。
輪へ近づく。
……取った!
《粘着性》。
輪の端を固定する。
そのまま、身体を引き戻した。
「1つ!」
フィンが叫ぶ。
周囲から拍手が起こった。
……お。
悪くないじゃないか。
俺は輪を岸の籠へ入れた。
これで、あと2つ。
……よし。
次だ。
「左だ、ノア!」
ルナの声が響く。
俺は顔を上げた。
青い輪が、少し速い流れに乗っている。
……お。
あれか。
俺は身体を水中へ滑り込ませた。
今度は、少し速度を上げる。
右の鰭。
左の鰭。
水の流れを読みながら、方向を調整する。
……よし。
近づいた!
だが、その瞬間。
青い輪が急に向きを変えた。
……え?
何で!?
俺は慌てて触手を伸ばした。
しかし、届かない。
輪は細い仕切りの向こうへ流れていった。
……くそっ。
逃した!
「ノア、追うな!」
ルナが叫んだ。
……え?
俺は動きを止めた。
「次の曲がりで、こちらへ戻ってくる!」
……あ。
そうか。
俺は水路の形を見た。
細い仕切りの向こうで、水は大きく曲がっている。
あの輪は、そこを通って戻ってくるんだ。
……なるほど。
俺は無理に追うのをやめた。
代わりに、流れの出口へ移動する。
水中へ触手を広げ、少しずつ位置を調整する。
……よし。
ここで待つ。
間もなく、青い輪が姿を現した。
……来た!
俺は水中へ細い触手を伸ばした。
《粘着性》。
――ぴたっ。
……取った!
「2つ!」
また拍手が起こる。
……よし!
あと1つ!
俺は少し嬉しくなった。
だが。
最後の黄色い輪を見た瞬間、その気持ちは吹き飛んだ。
……おい。
速くないか?
黄色い輪は、ほかの2つよりかなり速い流れに乗っていた。
しかも、途中にある狭い通路へ入り込んでいく。
あそこを通るには、身体を細くしなければならない。
……いや。
細くすればいいんだけど。
それだと、泳ぐための鰭を広げられない。
……どうする。
俺は少し考えた。
すると、ルナが叫んだ。
「ノア! 残り時間が少ないぞ!」
……っ。
俺は砂時計を見た。
確かに、半分以上が落ちている。
……まずい。
ここで迷ってる暇はない。
俺は細い通路へ身体を滑り込ませた。
《構造形成》。
鰭を縮める。
胴体を細長くする。
……よし。
通れる。
だが、そのままだと水に押し流される。
俺は慌てて身体の端を石壁へ固定した。
《粘着性》。
……止まった。
黄色い輪が、目の前を通り過ぎていく。
……くそっ!
あと少しなのに!
俺は輪へ触手を伸ばそうとした。
しかし、距離がある。
ここからでは届かない。
……待て。
待てよ。
俺は急に思い出した。
昨日、ガレスに言われた言葉。
『形を作りながら動けるようになれば、相手にとってはかなり厄介だぞ』
……そうか。
今、俺は細い形で移動している。
だから、鰭を使えない。
でも。
全部を同じ形にする必要なんて、ないよな。
俺は身体へ意識を集中した。
中央は細く。
左側だけ、短い鰭を作る。
右側は石壁へ固定したまま。
……よし。
これなら、身体が流されない。
俺は左の鰭を動かした。
水の流れを押す。
身体が、少しだけ前へ動く。
……お。
いける!
今度は、右側の固定を外す。
その瞬間に、反対側へ短い鰭を作る。
水を押す。
すぐに形を戻す。
……よし。
進める!
俺は細い通路の中を、少しずつ進み始めた。
右の鰭。
左の鰭。
固定する触手。
それらを、移動しながら切り替えていく。
今までみたいに、いちいち止まって形を作る必要はない。
……これだ!
俺は思わず、身体を大きく動かした。
黄色い輪が、もうすぐ出口へ到達する。
……間に合うか?
俺は身体の先端へ触手を伸ばした。
《構造形成》。
細く。
長く。
そして、最後に少し広げる。
……今!
《粘着性》。
――ぴたっ!
……取った!
俺は思わず身体を持ち上げかけた。
だが、水路の中だということを思い出し、慌てて姿勢を戻した。
……危ない。
ここで喜んで流されたら、格好悪すぎる。
俺は輪を引き寄せ、岸へ向かった。
「ノア! 急げ!」
ルナの声。
俺は最後の力を使い、身体を石壁へ引き上げた。
そして。
――ぽとん。
黄色い輪が、籠の中へ落ちた。
直後。
「終了!」
フィンが叫んだ。
砂時計の最後の砂が、落ちきったところだった。
……。
…………。
……間に合った?
俺は籠を見た。
赤。
青。
黄色。
3つの輪が、ちゃんと入っている。
「成功!」
フィンが両手を上げた。
周囲から、大きな拍手が起こった。
……おお。
やった!
本当に、ぎりぎりだったけど!
俺は身体を高く持ち上げた。
すると、上の板からルナが跳び下りてきた。
「ノア!」
……ん?
「見事だったぞ!」
……おう!
俺は触手を伸ばした。
ルナも前脚を持ち上げる。
――ぴとっ。
触手と前脚が、軽く触れた。
……へへ。
やったな。
◇
「いやあ、面白かった!」
フィンが笑いながら近づいてきた。
「最後の動き、どうなってたの?」
……え?
どうって。
俺は身体を伸ばした。
右の鰭。
左の鰭。
それから、固定用の触手。
順番に形を変えてみせる。
フィンは目を丸くした。
「へえ! 途中で形を変えてたのか!」
……そう。
それなんだよ。
俺も、今ようやく分かった。
今まで《構造形成》は、形を作るための能力だと思っていた。
脚を作る。
触手を作る。
目を作る。
そして、その形を使う。
でも。
形そのものを、動きの途中で変え続けることもできる。
それなら、相手に合わせて動きを変えるだけじゃない。
水の流れや地形に合わせて、身体の使い方を切り替えられる。
……これは、かなり大きな発見だ。
俺は自分の触手を見た。
まだ、動きはぎこちない。
複数の構造を同時に扱うのも、集中力が必要だ。
それでも。
昨日より、少しだけ上手くなった。
……よし。
もっと練習しよう。
そう考えていると、フィンが小さな木箱を持ってきた。
「はい! 成功した組には、景品があるんだ!」
……お。
そうだった。
俺は木箱へ目を向けた。
中には、小さな金属製の鈴がいくつも並んでいた。
金色。
銀色。
青みがかったもの。
それぞれに、細い紐がついている。
……へえ。
かわいいな。
「レムナの水運組合が作ってる鈴だよ。船の荷物なんかにもつけるんだ」
フィンは笑った。
「好きなのを2つ選んで!」
ルナが箱を覗き込む。
「……2つか」
俺も目を近づけた。
どれにしようかな。
すると、ルナが銀色の鈴を前脚で示した。
「これがよい」
……お。
綺麗だな。
白銀の毛並みにも合いそうだ。
俺は頷いた。
「……それ」
ルナが顔を上げる。
「貴様も同じものにするのか?」
……え?
俺は少し考えた。
銀色の鈴。
小さく丸い形。
表面には、水の流れを表すような細かな模様が刻まれている。
……うん。
悪くない。
俺は同じものをもう1つ選んだ。
フィンが嬉しそうに笑った。
「お揃いだね!」
……あ。
そうなるのか。
俺は少しだけ、ルナを見た。
ルナも、こちらを見返している。
「……ふむ」
それから、何でもないことのように言った。
「同じ景品をもらったのだ。当然であろう」
……まあな。
そうなんだけど。
俺は何となく、もう1度鈴を見た。
小さな銀色の鈴が2つ。
同じ形。
同じ模様。
……うん。
何だか、いいな。
◇
宿へ戻った頃には、夕方になっていた。
俺は机の上へ、もらった鈴を置いた。
――ちりん。
小さな音が鳴る。
……お。
綺麗な音だな。
俺は触手で鈴を持ち上げ、もう1度揺らした。
――ちりん。
……うん。
なかなか気に入った。
すると、寝台の上にいたルナが顔を上げた。
「……ノア」
……ん?
「その鈴、どこへつけるつもりだ?」
……あ。
そうか。
もらったのはいいけど、つける場所を考えてなかったな。
俺は自分の身体を見た。
首。
……ない。
腕。
……作れるけど、ずっと維持するわけじゃない。
脚。
……これも同じか。
……うーん。
困ったな。
すると、ルナが呆れたように言った。
「荷物へつければよいではないか」
……あ。
それだ。
俺は荷物を引き寄せた。
革紐のついた部分。
そこへ鈴を結びつける。
――ちりん。
……よし。
いい感じ。
俺は少し得意になった。
すると、ルナが自分の鈴を見つめた。
……ん?
どうした?
「……我の方も、つけてくれぬか」
……え?
俺は顔を上げた。
ルナは、少しだけ目を逸らした。
「紐が細くてな。口では結びにくい」
……ああ。
なるほど。
それなら簡単だ。
俺は触手を伸ばした。
「……どこ?」
ルナは少し考えてから、自分の荷物を指した。
「こちらへ頼む」
……了解。
俺は細い紐を通し、ほどけないように結びつけた。
――ちりん。
2つ目の鈴が、小さく鳴った。
……よし。
完成。
ルナは荷物を少し動かして確かめた。
「……ふむ」
――ちりん。
「悪くないな」
……だろ?
俺は触手を揺らした。
すると、ルナが俺の荷物へ目を向けた。
「……同じ音だな」
……ん?
「貴様の鈴も、我の鈴も」
俺は自分の鈴を揺らしてみた。
――ちりん。
確かに。
ほとんど同じ音だ。
ルナも小さく鈴を鳴らした。
――ちりん。
……ああ。
本当だ。
俺は何となく、少し嬉しくなった。
「……ノア」
ルナが静かに言った。
……ん?
「今日の貴様は、最後まで諦めなかったな」
……まあ。
そうだな。
「途中で輪を逃したときも、慌てて追わずに待った。最後は、自分で新しい動き方まで見つけおった」
俺は少し照れくさくなった。
……いや。
ルナが上から指示してくれたからだよ。
俺だけだったら、青い輪を追いかけて時間を無駄にしていたと思う。
俺は声を出した。
「……ルナ、いた」
ルナが首を傾げる。
「む?」
俺は自分とルナを交互に指した。
「……ふたり、で」
しばらく、静かな時間が流れた。
ルナは俺を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……うむ。そうだな」
そして、俺の隣へ歩いてきた。
白銀の毛並みが、ほんの少しだけ身体へ触れる。
「次も、2人で勝つぞ」
……おう。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
そのまま、少しの間だけ動かなかった。
窓の外では、レムナの水路に夕日が映っている。
遠くから船頭の声が聞こえ、荷車の車輪が石畳を転がっていく。
俺はふと、今日の競技を思い出した。
水の中で、形を変え続ける。
鰭を作る。
触手を伸ばす。
固定する。
そして、次の瞬間には別の形へ。
……あれは、もっと使えるはずだ。
戦闘でも。
移動でも。
今まで苦手だった場所でも。
もっと自然に、もっと素早く身体を変えられるようになれば。
……うん。
確実に、強くなれる。
俺は小さく身体を持ち上げた。
すると、荷物につけた鈴が鳴った。
――ちりん。
隣では、ルナの荷物の鈴も揺れる。
――ちりん。
同じような音が、部屋の中で重なった。
ルナが少し笑った。
「……騒がしくなったな」
……そうだな。
でも。
俺は、この音が結構気に入った。
どちらかが少し離れて歩いていても、鈴が鳴れば場所が分かる。
……まあ。
ルナなら、そんなものがなくても俺を見つけるだろうけど。
俺も、そうだ。
今なら、あいつの足音だって覚えている。
鈴なんかなくても、きっと分かる。
それでも。
……お揃いって、悪くないな。
俺は触手をゆっくり揺らした。
ルナも、隣で尻尾を動かしている。
今日は、なかなかいい日だった。
水の上でも、少し上手く動けるようになったし。
ルナと一緒に勝てたし。
それから。
……新しい宝物も、できた。
俺は荷物の鈴をもう1度だけ鳴らした。
――ちりん。
すると、隣からも同じ音が返ってきた。
――ちりん。
ルナが、わざと鳴らしたらしい。
俺はそちらを見た。
ルナは何食わぬ顔で、窓の外を眺めている。
……ああ。
なるほど。
俺は少し笑って、もう1度鈴を揺らした。
――ちりん。
今度は、少し間を置いて返ってくる。
――ちりん。
……何やってんだ、俺たち。
そう思いながらも、しばらくやめられなかった。




