第3部 第2話 川は手強い
俺がレムナで最初に覚えた泳ぎ方は、沈むことだった。
――ぼちゃん。
水底の小石が、目の前にある。
……あれ?
おかしいな。
もっと優雅に進む予定だったんだけど。
俺は身体の両側から触手を伸ばし、水を後ろへ押した。
ところが、右へ傾いたと思ったら、今度は左へ回転してしまった。
……待て待て。
上はどっちだ?
慌てて身体を広げると、今度は水流をまともに受けて横へ流される。
――ぽこん。
ようやく水面へ出たときには、岸から随分離れていた。
もっとも、浅い入り江なので、すぐ近くに岩がある。
俺はそこへ触手を固定し、身体を引き寄せた。
「……ふむ」
岩の上では、ルナが前脚を揃えて座っていた。
「随分と独創的な泳ぎ方だな」
……。
今のは泳いでたんじゃない。
溺れかけてたんだよ。
もっとも、俺に人間のような肺があるわけではないから、呼吸の苦しさはない。
問題は身体の制御だ。
流れに逆らおうとするたび、あっちこっちへ引っ張られる。
この状態で深い場所へ入ったら、帰ってこられる自信がなかった。
「……もう1度やるか?」
ルナが尋ねる。
俺は岩に張りついたまま、身体を上下させた。
もちろん。
せっかく来たんだからな。
◇
河港都市レムナへ到着した翌日。
俺たちは宿の主人から教えてもらった、西側の入り江へ来ていた。
町の中心を流れる水路とは違い、ここは周囲を岩場に囲まれた静かな場所だ。
入り江の外には大河の本流が見えるが、こちら側へ入ってくる水は比較的穏やかだった。
岸辺には木製の杭が並び、太い縄が張られている。
縄の内側は浅く、外側へ行くと急に深くなるらしい。
俺たちは、その内側で練習することにした。
ただし、最初から勝手に入ったわけじゃない。
「おい、そこの2人!」
水際で声をかけてきたのは、日に焼けた大柄な男だった。
名前はジェド。
この入り江で舟の整備や水路の管理をしているらしい。
腕には古い傷がいくつもあり、指の間には薄い膜が張っていた。
「初めて見る顔だな。泳ぎの練習か?」
「うむ」
ルナが答える。
ジェドは俺を見て、少し眉を上げた。
「……そいつも?」
俺は身体を持ち上げた。
「……おれ、も」
「喋るのか。こりゃ珍しい」
男は笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「練習するのは構わん。ただし、向こうの縄を越えるな。昨日も旅人が流されかけたばかりだ」
……なるほど。
俺は縄の位置を確かめた。
浅い入り江と本流の境目。
確かに、そこから先は水面の動き方が違う。
「それと、無理に泳ごうとするなよ」
……え?
俺はジェドを見た。
泳ぎに来たんだけど。
「初めての奴は、すぐに水を押そうとする。だが、自分の身体がどう浮くかも分からんうちに暴れたって、余計に疲れるだけだ」
……あ。
それ、さっきの俺だ。
ジェドは近くに置いてあった木片を拾い、水面へ投げた。
木片は流れに乗り、ゆっくり回転しながら岩へ近づいていく。
「まずは水に浮く形を探せ。進むのは、そのあとだ」
……なるほど。
確かに、理屈は分かる。
俺はジェドへ触手を持ち上げた。
「……ありが、と」
「おう。無理すんなよ」
そう言うと、男は近くの舟の修理へ戻っていった。
……よし。
まずは、浮くことからだな。
◇
水に浮く。
言葉にすれば簡単だ。
だが、俺の身体には決まった形がない。
丸くなれば沈みやすく、薄く広げれば水流に流されやすい。
しかも、採石場で失った身体はまだ完全には戻っていなかった。
無理に大きな構造を作れば、別の部分が薄くなる。
……さて。
どうしたものか。
俺は水面へ身体を広げた。
今度は、いきなり進もうとしない。
身体の中央を少し厚くし、左右へ短い突起を伸ばしてみる。
……お。
さっきより安定している。
水の中で身体が回りにくくなった。
次に、突起の先端を平たくする。
……よし。
これなら、水を押せそうだ。
俺は左右の突起を、ゆっくり後ろへ動かした。
――すうっ。
……あ。
進んだ。
ほんの少しだけど、確かに前へ進んだ。
俺は嬉しくなり、もう1度水を押した。
今度は少し強めに。
――ぐるん。
……っ!
身体が回転した。
……何でだよ!
俺は慌てて岩へ触手を伸ばした。
すると、岸から笑い声がした。
ジェドだ。
「左右で押す力が違うんだよ! 片方だけ強く動かせば、そりゃ回る!」
……ああ!
そういうことか!
俺は水面に浮いたまま考えた。
身体を左右対称に作っても、動かす力まで同じになるわけじゃない。
人間の腕みたいに、最初から動きが決まっているわけでもないしな。
……難しい。
ただ。
少しずつ、分かってきた。
俺は《弾性組織》を使い、左右の突起が元の位置へ戻りやすいよう調整した。
続いて、先端へ《硬質外皮》を薄く使う。
柔らかいままだと、水に押されて折れ曲がってしまうからだ。
……よし。
これでどうだ?
俺はもう1度、左右を動かした。
水を後ろへ押す。
形を戻す。
もう1度、押す。
――すうっ。
……お。
進む。
今度は回らない!
俺は思わず、身体を高く持ち上げかけた。
だが、水面から出た分だけバランスが崩れたので、慌てて元へ戻した。
……危ない危ない。
調子に乗るな、俺。
それでも、確かに前へ進めた。
自分の力で。
水の中を。
……これは面白いぞ。
◇
「……ノア」
しばらくして、ルナが呼んだ。
俺は水面から目を向ける。
「我も入る」
……お?
俺は少し驚いた。
ルナは岩の上から、水面をじっと見つめている。
さっきから前脚で水を触っていたのは知っていたが、まだ本格的には入っていなかった。
「何だ、その顔は」
……いや。
別に。
俺は触手を左右へ振った。
「まさか、我が水を怖がっておるとでも思ったか?」
……。
…………。
……ちょっとだけ。
「ふん!」
ルナが鼻を鳴らした。
そして、岩から水へ飛び込む。
――ばしゃん!
……おお。
思い切りがいいな。
ルナは水面へ顔を出すと、すぐに前脚を動かし始めた。
……あ。
普通に泳いでる。
俺は少し拍子抜けした。
ルナは首を高く保ち、4本の脚で器用に水をかいている。
速くはない。
でも、俺よりずっと自然な動きだった。
……何だよ。
できるじゃないか。
「……む」
ルナが足を止めた。
……ん?
どうした?
「……毛が重い」
……あ。
水を吸ったのか。
白銀の毛並みが身体へ張りつき、普段より随分細く見える。
ルナは少し不満そうだった。
「泳げぬわけではないが、これは好かぬ」
……なるほど。
俺は思わず身体を揺らした。
ルナが睨んでくる。
「笑うでない」
……笑ってないって。
いや。
少し笑ったけど。
俺はルナの隣へ移動した。
水中へ触手を伸ばし、岩の位置を示す。
「……こっち」
「分かっておる」
ルナは素直に岩へ戻った。
水から上がると、全身を大きく震わせる。
――ぶるるっ!
水滴が飛んだ。
……っ!
俺は反射的に身体を縮めた。
……おい!
こっちまでびしょびしょじゃないか!
「貴様は元から濡れておるだろう」
……。
……それはそう。
ぐうの音も出ない。
ルナは満足そうに鼻を鳴らした。
だが、すぐに水面へ目を戻した。
「……もう1度入る」
……え?
俺は少し意外に思った。
嫌だったんじゃないのか?
ルナは俺の方を見た。
「貴様ばかり上達するのは、面白くない」
……ああ。
そういうことね。
俺は身体を揺らした。
「……いっしょ」
ルナが首を傾げる。
俺は水面を指した。
「……れんしゅう」
少しの間があった。
それから、ルナの尻尾がゆっくり動いた。
「……うむ。そうだな」
今度は、さっきより静かに水へ入ってきた。
俺たちは並んで、浅い場所を進み始めた。
◇
最初に異変に気づいたのは、ルナだった。
「……ノア。何かおるぞ」
……ん?
俺は動きを止めた。
ルナは水面を睨んでいる。
「下だ」
俺は身体の一部を水中へ伸ばした。
《微振動感知》を使おうとしたが、地面へ触れていない部分では、思ったように情報を拾えない。
……くそ。
水の中って、地面と全然違うな。
次の瞬間。
――ぱくっ!
何かが触手の先へ食いついた。
……っ!?
俺は反射的に身体を引いた。
細長い魚が、水中で暴れている。
大きさは俺の触手の先端より少し大きいくらい。
青黒い身体に、鋭い歯。
背中から尾にかけて、透明な鰭が並んでいる。
……魚!?
いや、待て。
こいつ、噛みついてる!
俺は咄嗟に《硬質外皮》を働かせた。
触手の表面が固くなる。
魚の歯が、それ以上食い込まなくなった。
……よし。
だが、魚は離れない。
尾を激しく振り、俺の触手を引っ張る。
……おいおい。
結構元気だな。
「……針鰭魚か!」
岸からジェドの声がした。
「そいつは餌と間違えて噛みつくことがある! 小さいが歯は鋭いぞ!」
……いや。
もう噛まれてます!
俺は魚を引き離そうとした。
しかし、水中で暴れる相手を掴むのは難しい。
触手を巻きつけようとすると、魚は身体をひねって逃げようとする。
……速い!
まるで、こちらの動きが分かっているみたいだ。
いや。
実際に、分かっているのかもしれない。
俺は魚の身体へ目を向けた。
透明な鰭。
その付け根に並ぶ、細かな線。
水が動くたび、魚は先回りするように向きを変えている。
……なるほど。
水流を感じているのか?
だったら。
俺は少し考えた。
逃げ回る魚を追いかけるより、今の位置で捕まえた方がいい。
噛みつかれている触手は、そのままにする。
反対側の身体を薄く広げ、水の中へ回り込ませた。
《構造形成》。
柔らかな膜を、魚の下へ滑り込ませる。
……よし。
魚が尾を振った。
俺は膜を持ち上げた。
逃げ道を塞ぐ。
すると、魚がこちらへ向きを変えようとした。
……今だ。
《粘着性》。
膜の表面へ魚を固定する。
――ばしゃっ!
魚が激しく暴れた。
だが、今度は簡単には逃げられない。
俺は膜をゆっくり閉じた。
魚の身体を包み込む。
……捕まえた。
ルナが目を丸くしている。
「……ほう。なかなか見事だな」
……だろ?
俺は少し得意になった。
もっとも、最初に噛みつかれたのは俺なんだけど。
そのとき、身体の内側で懐かしい感覚が動いた。
《捕食》。
捕らえた魚を取り込める。
……そうだ。
こいつ、水の中で随分器用に動いていたよな。
俺は魚の身体へ意識を向けた。
水中で動くための性質。
もし、何か得られたら。
……試してみる価値はある。
俺は《捕食》を実行した。
魚の抵抗が次第に弱まり、やがて身体の中へ取り込まれていく。
そして。
視界の中に、文字が浮かんだ。
【捕食完了】
対象:針鰭魚
【性質吸収】
《水流感知》を獲得しました。
……っ!
来た!
新しい性質だ!
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……ノア?」
ルナが呼ぶ。
だが、俺はしばらく返事ができなかった。
新しい感覚が、身体の表面に広がっていたからだ。
◇
最初は、何が変わったのか分からなかった。
見えるものは同じ。
聞こえる音も同じ。
ただ、水中へ触手を伸ばした瞬間。
……あ。
分かった。
水が、どちらから流れてくるのか。
俺の身体へ当たった水が、どこへ逃げていくのか。
それが、今までよりずっとはっきり感じられる。
俺は試しに触手を動かした。
右へ。
左へ。
すると、水の動きが身体の表面へ伝わってくる。
……すごい。
これまでは、水に押されてから動きを修正していた。
でも今なら、押される方向を少し早く読み取れる。
俺は身体の左右へ短い鰭のような構造を作った。
水流を感じながら、角度を調整する。
……よし。
ゆっくり動かす。
水を後ろへ送る。
形を戻す。
もう1度。
――すうっ。
……お。
進む。
しかも、さっきより真っ直ぐだ。
俺は少し速度を上げた。
水の流れが変わる。
左側から、弱い流れ。
俺は鰭の角度を変えた。
……あ。
曲がれた。
滑らかに、右へ。
もう1度。
今度は左へ。
……っ!
できた!
俺は思わず、水面の下で身体を大きく動かした。
すると。
――ばしゃん!
勢い余って岩へぶつかった。
……っ!
……痛い。
いや。
調子に乗ったな。
「……ノア!」
ルナが駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
俺は身体を起こした。
「……へいき」
ルナは少し呆れたように俺を見た。
「貴様、急に動きが変わったぞ」
……ああ。
そうなんだよ。
俺は身体を持ち上げ、発声用の構造を整えた。
「……あたらしい」
「新しい?」
「……せいしつ」
ルナの目が大きくなる。
「……まさか、あの魚からか?」
俺は頷いた。
「……みず、わかる」
ルナはしばらく俺を見つめた。
それから、水面へ目を向ける。
「……水の流れが分かるようになったのか?」
俺はもう1度頷いた。
「ふむ……」
ルナは少し考え込み、やがて楽しそうに笑った。
「それは、よいものを得たな」
……ああ。
本当に。
俺は嬉しくなって、身体の端を揺らした。
ただし、新しい感覚が得られたからといって、泳ぎそのものが上手くなったわけじゃない。
さっき岩へぶつかったのが、いい証拠だ。
水流が分かっても、それに合わせて身体を動かす技術は、まだ練習が必要だった。
……でも。
これなら、もっと上達できる。
水の中で使える、新しい目を手に入れたようなものだ。
俺はもう1度、水中へ触手を伸ばした。
水が触れる。
流れが伝わる。
今度は、さっきまで気づかなかった小さな渦まで感じられた。
……面白い。
水の中って、こんなに動いてたんだな。
「おい、そこの2人!」
ジェドが岸から声をかけた。
「そろそろ上がれ! もう随分練習してるぞ!」
……あ。
そうだった。
気づけば、日が傾き始めている。
ルナも俺を見た。
「今日はここまでにしておくか」
……そうだな。
俺の身体も、そろそろ休ませたい。
何しろ、完全に回復したわけじゃない。
新しい性質を得たからといって、失った身体が戻るわけでもないしな。
俺は水面から岩へ触手を伸ばした。
《粘着性》で固定し、身体を引き上げる。
……よし。
陸へ戻った。
隣では、ルナがもう1度身体を震わせている。
――ぶるるっ!
水滴が飛んだ。
……っ。
俺は反射的に身体を縮めた。
ルナがこちらを見る。
「……何だ?」
……いや。
さっきもやっただろ、それ!
俺は触手を揺らした。
ルナは少し考えたあと、あっさり言った。
「乾かねばならぬのでな」
……そうですか。
じゃあ仕方ないですね。
俺は諦めて、身体を丸めた。
◇
帰り道。
レムナの水路には、夕日が映っていた。
船が通るたびに水面が揺れ、石造りの橋の下へ細かな波が流れ込んでいく。
俺はその様子を眺めながら歩いていた。
……いや。
正確には、少しだけ滑るように進んでいた。
今日の練習で、水の中の動かし方をいろいろ試したせいか、身体の形を変えることが楽しくなっていた。
ただし、陸上での移動はまだ別の話だ。
脚を作るなら、支える力も必要になる。
……うーん。
やっぱり、まずは身体を元へ戻さないとな。
そんなことを考えていると、ルナが隣から声をかけてきた。
「……ノア」
……ん?
「貴様は、本当に変わった生き物だな」
……今さら?
俺は触手を持ち上げた。
ルナは水路を見つめたまま、続ける。
「最初は、まともに声も出せなかった」
……ああ。
そうだったな。
「脚もなかった。目もなかった。なのに、今は水の中でまで動こうとしておる」
……まあ。
確かに。
自分でも、よくここまで来たと思う。
でも、まだまだだ。
俺はもっといろんなことができるようになりたい。
今の身体で、どこまで行けるのか。
それを確かめてみたい。
……そんな気持ちがある。
「……ふむ」
ルナが少し笑った。
「次は、何ができるようになるのだろうな」
俺は考えた。
泳ぐこと。
もっと速く動くこと。
それから。
……あ。
そうだ。
味覚。
それも欲しいんだった。
俺は触手を持ち上げた。
「……あじ」
ルナが顔を向ける。
「味か?」
俺は頷いた。
「……いつか」
ルナは少し黙った。
そして、ふっと笑う。
「ならば、楽しみにしておこう」
……おう。
そのときは、最初に何を食べようかな。
俺は少し考えた。
肉。
魚。
果物。
……うーん。
迷うな。
すると、ルナが言った。
「そのときは、我が美味いものを選んでやる」
……え?
俺は顔を上げた。
ルナは当然のように続ける。
「初めて味を知るのであろう? ならば、妙なものを食べさせるわけにはいかぬ」
……。
……そっか。
俺は少し嬉しくなった。
初めて味を知るとき。
そのとき、ルナが隣にいてくれる。
それは、何だかいいな。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
「……やくそく」
ルナが足を止めた。
一瞬、少し驚いたようにこちらを見る。
それから、静かに頷いた。
「……うむ。約束だ」
俺たちは再び歩き始めた。
水路には、川荷獣が泳いでいる。
その向こうでは、船頭たちが荷物を積み替えていた。
昨日まで知らなかった町で、今日は新しい性質を手に入れた。
《水流感知》。
水の動きを感じ取る力。
まだ使い方を覚えたばかりだけど、今の俺にとっては大きな前進だ。
そして、明日になれば、また何か違うものが見つかるかもしれない。
……よし。
明日も練習しよう。
ただし。
今度は、最初から岩へ突っ込まないように気をつけよう。
俺は水路を眺めながら、静かに身体を揺らした。
隣では、ルナが濡れた毛並みを気にしながら歩いている。
……うん。
明日は、ルナが乾きやすい場所も探しておこうかな。




