第3部 第1話 渡し賃は2人分
「そっちの銀色のは、ペットか?」
渡し舟の受付で、船頭にそう尋ねられた。
俺は隣を見た。
ルナが、ぴたりと動きを止めている。
……あ。
これはまずい。
「……誰が、ペットだと?」
低い声だった。
白銀の毛並みが、ほんの少し逆立っている。
船頭は目を丸くした。
「うおっ! 喋った!」
「当然であろう。我を何だと思っておる」
「いや、悪かった! 普通の魔獣かと……」
「普通の魔獣が何かは知らぬが、我にはルナという名がある!」
……うん。
これは船頭が悪い。
俺は静かに頷いた。
すると、船頭が俺を見た。
「で、そっちは?」
……ん?
「そっちの、変わった形の方だ」
……。
今度は俺か。
まあ、変わった形なのは否定できないけどさ。
俺は発声用の構造を整えた。
「……ノア」
船頭が固まった。
「……こっちも喋るのかよ」
……一応な。
まだ、そんなに上手くないけど。
船頭は俺たちを交互に見たあと、突然笑い出した。
「はははっ! こりゃ面白え! 長いこと舟を出してるが、こんな客は初めてだ!」
ルナは不満そうに尻尾を振った。
「面白がるでない」
「悪かったって。で、向こう岸へ渡るんだな?」
「うむ」
「なら、渡し賃は2人分だ」
船頭は指を2本立てた。
「魔獣だろうが何だろうが、客なら客だ。荷物扱いにはしねえよ」
……お。
俺は少し嬉しくなった。
船頭の言い方が、妙に気持ちよかったからだ。
ルナも機嫌を直したらしい。
「ふむ。それならよい」
……現金なやつだな。
俺は荷物から銅貨を取り出した。
船頭はそれを受け取ると、川へ向かって顎をしゃくった。
「よし、乗りな。もうすぐ出すぞ!」
◇
渡し舟は、思っていたより大きかった。
平たい船底に、丈夫そうな木の柵。
中央には人が座れる長椅子があり、荷車を載せるための広い場所まで用意されている。
すでに商人や旅人が何人か乗り込んでいた。
角のある大柄な男。
長い耳を持つ女性。
背中いっぱいに荷物を背負った老人。
……おお。
本当に、いろんな種族がいるんだな。
俺は船へ続く板の上を進んだ。
昨日よりは身体が動くようになったが、まだ万全ではない。
採石場の崩落で失った分の質量は、少しずつ補っているところだ。
今は脚を作るより、低い姿勢で進んだ方が楽だった。
板の上を滑るように移動し、船へ乗り込む。
……よし。
問題なし。
「ノア、こちらだ」
ルナが船の端から呼んでいる。
俺はその横へ移動した。
川面が、すぐ下に見えた。
……広いな。
昨日、丘の上から見たときも驚いたけど、近くで見ると迫力が違う。
水が大きくうねりながら流れている。
小さな波が船腹を叩き、時折白い泡が浮かんでは消えた。
……これを渡るのか。
少し緊張するな。
「さて、出すぞ!」
船頭が声を張った。
太い綱が外され、船がゆっくり岸を離れる。
水面が動いた。
……いや。
動いているのは、俺たちの方か。
地面がない場所を移動する感覚は、思った以上に不思議だった。
足元の木材が、時折小さく揺れる。
俺は《粘着性》で身体の一部を床に固定した。
……よし。
これなら落ちない。
すると、船頭がこちらを見て笑った。
「おっ、器用だな。だが、あんまり強く張りつくなよ。板を剥がされたら困る」
……あ。
そうか。
俺は慌てて粘着力を弱めた。
ルナが横で鼻を鳴らす。
「ふん。船まで食いつくつもりか」
……食わねえよ!
俺は触手を伸ばし、ルナの尻尾を軽くつついた。
「むっ」
尻尾が逃げる。
もう1度つつこうとしたところで、ルナが前脚を持ち上げた。
「やめぬか」
……はいはい。
俺はおとなしく身体を丸めた。
船が大河の中央へ向かって進んでいく。
◇
しばらくすると、川の水が少しずつ変わってきた。
岸辺では茶色っぽく見えた水が、中央へ近づくにつれて深い青緑色になる。
底が見えない。
光の届かない場所には、いったい何がいるんだろう。
俺が水面を眺めていると、突然、細長い影が跳ね上がった。
――バシャン!
……っ!
俺は反射的に身体を縮めた。
何だ!?
「魚だ!」
船頭が笑った。
「この辺りには、よく跳ねる魚がいるんだ。驚いたか?」
……魚?
俺は水面へ目を向けた。
また、別の影が飛び出す。
銀色の鱗が陽光を反射し、弧を描いて水へ戻っていった。
……すげえ。
結構高く跳ぶんだな。
「……ノア」
ルナの声がした。
振り返ると、白銀の相棒が身を乗り出している。
目は、水面に釘づけだ。
……おい。
まさか。
「……あれは、食えるのか?」
……やっぱり!
船頭が豪快に笑った。
「食えるぞ! だが、ここから飛び込むなよ。流れが速いからな!」
「……む」
ルナが少し残念そうに耳を伏せた。
「向こう岸に魚を売る店もあるさ。捕まえるのはそこで相談しな」
「……買うのと捕るのでは、違うであろう」
「そりゃそうだ!」
船頭が笑いながら舵を動かす。
俺は2人のやり取りを聞きながら、水面へ目を戻した。
……魚か。
そういえば。
俺、この世界へ来てから、水中の魔物をほとんど調べていないな。
洞窟の水たまりや浅い川には入ったことがある。
でも、こういう大きな川は初めてだ。
……ちょっと、試してみたい。
俺は船の縁へ近づいた。
身体の先端から、細い触手を伸ばす。
もちろん、飛び込むつもりはない。
ほんの少し、水に触れてみるだけだ。
……よし。
触手の先を、川面へ下ろした。
――ざぶっ。
……っ!
思っていたより、ずっと強く引っ張られた。
流れている水が、触手を後ろへ押し流そうとする。
俺は慌てて身体を船へ固定した。
……危なっ!
たったこれだけで、こんなに力がかかるのか。
「ノア、何をしておる!」
ルナが振り返った。
「……みず」
「見れば分かる。落ちるでないぞ」
……分かってるって。
俺は触手の先端を細くした。
水の抵抗を減らす。
すると、さっきより楽に形を維持できた。
……お。
いい感じ。
今度は、その先を少し平たくしてみる。
すると。
――ぐいっ。
また強く引っ張られた。
……なるほど。
形によって、受ける力が全然違うんだな。
俺は触手を引き戻した。
細い形。
平たい形。
幅広い形。
それぞれを試す。
《構造形成》でできるのは、身体の形を変えることだけだ。
新しい力を生み出しているわけじゃない。
でも、形が変わるだけで、水の中ではこんなに動きが違う。
……面白い。
俺はもう1度、触手を水へ入れた。
今度は、先端を薄い板のように広げる。
流れに対して角度を変えると、触手が横へ押された。
逆向きにすると、反対側へ。
……あ。
そうか。
これって。
……水かきだ。
人間だった頃、水泳の授業で習ったことを思い出す。
水を後ろへ押せば、身体は前へ進む。
当たり前の話だ。
ただ、今の俺は、手足の形を自由に変えられる。
だったら。
水の中で動くための形だって、作れるんじゃないか?
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……ノア!」
ルナが鋭く呼んだ。
……ん?
「それ以上、身を乗り出すな!」
……あ。
俺は自分の姿勢を確かめた。
身体の半分近くが、船の縁へ寄っている。
……危ない危ない。
夢中になってた。
俺は触手を水から引き上げた。
すると、船頭がこちらへやってきた。
「今の動き、面白かったな」
……お?
「お前さん、身体の形を変えられるのか?」
俺は頷いた。
「そいつは便利だ。川仕事じゃ、水の抵抗をうまく使えるかどうかで、ずいぶん違う」
……へえ。
船頭は長い竿を持ち上げた。
「ほら、見てな」
竿の先には、平たい板が取りつけられていた。
船頭がそれを水へ入れ、角度を変える。
すると、板が流れを受けて、竿の向きが変わった。
「こうすると水を受ける。逆に、細い方を向けりゃ抵抗が減る」
……なるほど。
俺がさっき試していたことと、同じだ。
「泳ぐ魚も、似たようなことをやってるんだろうな」
……魚。
俺は水面を見た。
銀色の魚が、もう1度跳ねた。
……ああ。
確かに。
水の中で生きる連中は、ずっと前からこれを使っているんだ。
俺は少し考えた。
《構造形成》で水かきのような部分を作ることはできる。
でも、それだけで上手く泳げるとは限らない。
水流を読む感覚も、身体の動かし方も必要だ。
それに、今の俺は負傷から回復している途中だ。
……よし。
ちゃんと身体が戻ったら、試してみよう。
今度は、安全な浅瀬でな。
◇
向こう岸が近づくにつれ、周囲の景色が賑やかになってきた。
岸辺には、大小さまざまな船が停まっている。
大きな倉庫。
石造りの建物。
水路に架かる橋。
そして、川から町の中へ向かって、何本もの運河が伸びていた。
……すごいな。
水の上に、町が広がっているみたいだ。
「河港都市レムナだ!」
船頭が教えてくれた。
「ここから先は、水路を使って荷物を運ぶことも多い。陸の道とは勝手が違うぞ!」
レムナ。
……覚えやすい名前だ。
俺は岸の方へ目を向けた。
荷物を運ぶ人々が行き交っている。
角を持つ大柄な男が木箱を担ぎ、長い耳の女性が帳面を確認している。
そのすぐ横では、青い鱗を持つ大きな生き物が、水路から荷船を押していた。
……え?
俺は目を凝らした。
丸い頭。
太い前脚。
水面から突き出た、大きな背中。
……魔獣?
その生き物は、船を岸へ押しつけると、頭だけを水から出した。
近くにいた男が、その頭を軽く撫でる。
「よし、いいぞ。今日はここまでだ」
青い魔獣は嬉しそうに鳴き、水の中へ潜った。
……。
……何だ、あれ。
俺はしばらく動けなかった。
すると、船頭が教えてくれた。
「あれは川荷獣だ。荷物を運ぶ仕事をするんだよ」
……仕事?
魔獣が?
「人と一緒に働く魔獣も、ここじゃ珍しくねえ。もちろん、何でも町へ入れるわけじゃないがな」
……へえ。
俺はもう1度、水路へ目を向けた。
さっきの魔獣が、別の荷船へ泳いでいく。
その姿を見た人間たちが、特に驚く様子もなく道を空けていた。
……面白い。
エルデ村でも、トルゼでも、魔獣はどこか警戒される存在だった。
もちろん、親切にしてくれた人もたくさんいたけど。
でも、ここでは魔獣が人間と一緒に仕事をしている。
……そんな町もあるんだな。
「……ノア」
ルナが隣へ来た。
「見よ。あちらにもおるぞ」
指された方を見ると、水路の端で小さな魔獣が何匹も泳いでいた。
水鳥のような姿だが、首が短く、脚には大きな水かきがついている。
そのうちの1匹が岸へ上がり、子どもから餌を受け取っていた。
……おお。
なんか、かわいいな。
ルナも興味深そうに眺めている。
「……ふむ。ああいう脚も、泳ぐのに向いておるのだろうな」
……あ。
そうか。
俺は小さな魔獣の脚を見た。
水かき。
指の間に張った、薄い膜。
……なるほど。
さっき船の上で試した形と、少し似ている。
俺は思わず、自分の触手を広げてみた。
指のような突起を何本か作り、その間を薄い膜で繋ぐ。
……お。
それっぽい。
ただ、薄くしすぎると、形が安定しなかった。
……難しいな。
俺は形を戻した。
それを見ていたルナが笑った。
「随分と熱心だな」
……そりゃな。
新しいことができそうなんだから。
俺は小さく触手を振った。
ルナは水路の魔獣たちを眺めながら言った。
「ここなら、貴様の身体に合う何かが見つかるやもしれぬな」
……ああ。
俺も、そんな気がしてきた。
◇
船が岸へ着くと、乗客たちが順番に降り始めた。
俺たちも荷物をまとめる。
「おい、ノア!」
船頭が呼んだ。
……ん?
「水の練習をするなら、町の西側に浅い入り江がある。流れが穏やかだから、そっちでやれ!」
……お。
いい情報。
俺は触手を持ち上げた。
「……ありが、と!」
「おう! ただし、1人で深いところへ行くなよ!」
……分かってますって。
俺は船を降りた。
ルナも隣へ跳び下りる。
石畳の道。
水路の音。
聞き慣れない言葉で話す商人たち。
どこかから、焼いた魚の香りが漂っているらしい。
……あ。
ルナの耳が動いた。
「……ノア」
……はい。
分かってる。
魚だろ?
ルナは少しだけ目を丸くした。
「まだ何も言っておらぬぞ」
……言わなくても分かるよ。
俺は触手を揺らした。
ルナはしばらく黙っていたが、やがて楽しそうに笑った。
「ふふっ。ならば、話が早いな」
……やれやれ。
俺も、少し笑ってしまった。
とはいえ、今日は先に宿を探した方がいい。
荷物を置いて、それから町を歩こう。
……いや。
待てよ。
俺は水路へ目を向けた。
さっきの川荷獣が、また船を押している。
その横では、小さな水鳥のような魔獣が、器用に泳いでいた。
……泳ぐ、か。
俺にもできるだろうか。
ただ身体を水に浮かべるだけじゃない。
自分で進む。
流れを利用して向きを変える。
そして、いつか。
水の中でも、自由に動けるようになる。
……いいじゃないか。
俺は思わず、触手を小さく広げた。
ルナがそれに気づく。
「……また、何か考えておるな?」
……まあな。
俺は川を指した。
「……およぐ」
ルナが目を細めた。
「貴様がか?」
俺は頷く。
「……れんしゅう」
「ふむ」
ルナは少し考えてから答えた。
「ならば、我も付き合おう」
……え?
俺は顔を上げた。
「貴様1人では、夢中になって深いところへ行きかねぬ」
……。
……否定できない。
さっきの船の上でも、危うく身を乗り出しすぎるところだったしな。
「それに、我も泳ぎの練習をしてみたい」
……お。
ルナも?
俺は少し驚いた。
ルナは堂々と胸を張った。
「この程度の川、泳げぬ理由はなかろう」
……いや。
程度って。
かなり大きい川だと思うんですけど。
俺は大河を振り返った。
広い水面。
速い流れ。
大きな船が、何艘も行き交っている。
……うん。
まずは、浅い入り江からにしような。
俺がそう伝えると、ルナは少し不満そうに鼻を鳴らした。
「分かっておる。我とて無茶はせぬ」
……本当かなあ。
俺は少し疑いながらも、隣へ並んだ。
ルナが歩き出す。
俺も、その後を追った。
背後では、渡し舟が再び岸を離れていく。
船頭の声が、遠くから聞こえた。
「また乗りに来いよ、2人とも!」
俺は振り返り、触手を高く持ち上げた。
「……また!」
ルナも尻尾を振る。
それから、俺たちはレムナの町へ向かった。
水路の向こうでは、知らない魔獣たちが泳いでいる。
俺たちがまだ見たこともない生き物が、この町にはたくさんいるらしい。
……よし。
まずは宿。
それから、浅い入り江。
身体を回復させながら、水の中で動く練習をする。
もし水中の生き物から、新しい性質を獲得できたら。
きっと、今までとはまったく違う戦い方もできるようになるはずだ。
俺は少しだけ、足取りを速めた。
すると、隣のルナが言った。
「……ノア」
……ん?
「魚も忘れるでないぞ」
……。
もちろん。
忘れてませんよ。
俺は触手を伸ばし、ルナの背中を軽くつついた。
ルナが笑いながら、前へ駆け出す。
俺も、その後を追った。
今はまだ、走るほど速くは動けない。
それでも。
次にこの町を出る頃には、きっと。
地面の上でも、水の中でも。
今よりずっと、自由に動けるようになっていたい。
そんなことを考えながら、俺は賑やかな河港都市へ踏み出した。




