第2部 第64話 鳥のいない果樹園
果樹園には、鳥が1羽もいなかった。
赤く色づいた果実が、枝からいくつもぶら下がっている。
甘い香りがするらしく、隣を歩くルナはさっきから鼻を動かしていた。
風が葉を揺らす。
どこかで虫が鳴く。
それだけだ。
人間だった頃、果物の実る木には鳥が集まるものだと思っていた。少なくとも、これだけの実があれば、1羽くらい姿を見せてもよさそうなのに。
「……静かであろう?」
背後から声がした。
振り返ると、果樹園の持ち主であるバロが立っていた。
日に焼けた顔に、分厚い手。腰には剪定用の小さな刃物を下げている。
「少し前までは、朝になると鳥がうるさいくらいだったんだ。実を突かれるのも困りものだったが、いざ来なくなると気味が悪くてな」
ルナが木の上を見上げた。
「巣は残っておるぞ」
「ああ。そこもおかしいんだ」
バロは困ったように頭を掻いた。
「巣だけ残して、みんないなくなっちまった」
俺は枝の間へ目を向けた。
確かに、細い枝を編んだ巣がいくつかある。
壊された様子はない。
地面にも羽や血の跡は見当たらなかった。
鳥が襲われたというより、どこかへ逃げてしまったような感じだ。
……何があったんだ?
◇
今朝、俺たちはハルザの冒険者ギルド出張所を訪ねた。
といっても、俺はまだ正式な冒険者ではない。
トルゼと同じように、魔獣が登録するにはいろいろ問題があるらしく、受付の女性からもそれは確認された。
「関所の紹介状は確認しました。ただ、これだけで登録できるわけではありません」
受付係のオルカは、落ち着いた口調でそう言った。
「ですが、依頼人と直接契約する仕事なら、こちらから紹介できます」
……なるほど。
少なくとも、何もできないわけじゃないんだな。
掲示板には、街道の見回りや荷運びの手伝い、畑の害獣対策など、さまざまな仕事が並んでいた。
その中でルナが目を留めたのが、果樹園の調査依頼だった。
『収穫前の果樹園で鳥や小動物の姿が消えた。原因を調べてほしい』
報酬は大きくない。
危険な魔獣の討伐でもない。
ただ、収穫の時期が近いため、早めに調べてもらいたいと書かれていた。
「……なぜ、これを選ぶんだ?」
俺が首を傾げると、ルナは平然と答えた。
「鳥だけでなく、小動物まで逃げるというのは妙であろう」
……ああ。
確かに。
「それに、果樹園というものを詳しく見たことがない」
……なるほど。
そっちも気になったのか。
悪くない。
しばらく厄介な事件が続いていたことだし、こういう仕事をしてみるのも面白そうだ。
そうして、俺たちは町の南側にある果樹園へやってきたのだった。
「……で」
バロが俺を見下ろす。
「本当に、あんたらが調べてくれるのか?」
俺は4本の脚を止めた。
……あ。
まだ疑ってるな。
まあ、当然か。
見た目だけなら、どう考えても俺の方が調査される側だ。
「心配するな。我らはこう見えて、いろいろ経験しておる」
ルナが胸を張る。
バロは少し困った顔をした。
「……いや、喋る銀色の魔獣にも驚いたが、こっちの方がな」
……俺か。
うん。
知ってた。
「だが、ギルドから紹介されたんだ。仕事さえしてくれりゃ、俺は文句を言わん」
バロはそう言って、果樹園の奥へ歩き始めた。
俺たちも後に続く。
鳥のいない果樹園。
その静けさの理由を、まずは確かめてみよう。
◇
「……ノア」
ルナが小さく呼んだ。
俺は立ち止まり、身体を低くした。
「何か分かるか?」
俺はすぐには答えなかった。
足元から伝わってくる振動を、1つずつ確かめていたからだ。
風に揺れる枝。
地面を這う小さな虫。
遠くを通る荷車の振動。
……それから。
妙なものが混じっている。
音というより、身体の奥を細く擦られるような感覚だ。
俺は前方へ触手を伸ばした。
――……ィン。
……っ。
嫌な感覚。
間違いない。
あの金属棒を鳴らしたときの振動に似ている。
俺は反射的に触手を縮めた。
「ノア?」
ルナが近づいてくる。
俺は果樹園の南側を指した。
「……あっち」
「む?」
「……ぼう、かも」
ルナの耳が動いた。
「……例の金属棒か?」
俺は肯定した。
ルナの表情が引き締まる。
「まだ、こんなところにもあるのか」
……それを確かめたい。
ただ、今回の振動はかなり弱い。
風が吹いたときだけ、かすかに伝わってくる。
そして、しばらくすると消える。
俺はその方向を慎重に探った。
果樹園の端には、低い石垣がある。
その向こうは、草の生えた緩い斜面だ。
斜面の上には、古びた木の柱が立っていた。
……ん?
あの柱。
何か変だな。
俺は目を細めた。
普通の木杭に見えるが、上の方に金属製の留め具がついている。
しかも、細長い棒のようなものが、横へ突き出していた。
……あれか。
「……バロ」
俺は声を出した。
バロが振り返る。
「何だ?」
俺は木杭を指した。
「……あれ、だれ?」
「あれ?」
バロは柱を見て、少し黙った。
「ああ……あれか」
……ん?
何だ。
その反応。
「数日前に、道の調査をしている連中が立てていったんだ」
……道の調査?
俺とルナは顔を見合わせた。
「どういうことだ?」
ルナが尋ねる。
バロは石垣へ腰を下ろした。
「この辺りの街道を調べてるって話だった。風向きや地形を記録するための道具だとか何とか」
……風向き。
金属棒。
調査。
俺は嫌な予感がした。
「それを、貴様の土地へ勝手に立てたのか?」
ルナが尋ねると、バロは首を横へ振った。
「いや。俺が許可したんだ」
……え?
「少し場所を貸すだけで礼金を払うって言うからな。収穫前は人手も金もかかる。ありがたい話だと思ったんだよ」
バロは苦々しい顔をした。
「まさか、そのあとで鳥がいなくなるとは思わなかった」
……なるほど。
そういうことだったのか。
俺はもう1度、木杭へ目を向けた。
風向きを調べるための道具。
本当にそうなら、鳥がいなくなったことと無関係かもしれない。
でも、あの振動は覚えている。
関所で、馬が怯えていたときと同じだ。
……偶然、なのか?
「その連中は、何人だった?」
ルナが尋ねた。
「2人だ。1人は痩せた男で、もう1人は若い男だったな」
……っ。
俺は身体を固くした。
痩せた男。
若い男。
グランツとテオ。
……いや。
まだ決めつけるな。
「名前は聞いたか?」
「……いや。役所から頼まれて来た、とだけ言ってた」
ルナの尻尾が静かに揺れた。
「役所の証明は見せてもらったのか?」
「それは……」
バロは言葉に詰まった。
そして、深く息を吐く。
「……見てない」
……ああ。
そうか。
俺は少し考えた。
バロからすれば、道の調査だと言われて、礼金まで受け取ったんだ。
それが本物かどうか、疑う理由がなかったのかもしれない。
ただ。
それで問題が起きたなら、話は別だ。
「……すまん」
バロが小さく言った。
「俺が余計なものを立てさせたせいで、鳥が逃げたのかもしれんな」
ルナはすぐに答えなかった。
俺も、何と言えばいいのか分からなかった。
まだ原因が決まったわけじゃない。
でも、可能性は高い。
……だったら。
まずは、確かめよう。
俺は木杭へ向かった。
◇
近づくほど、振動が強くなった。
――……ィン。
……うっ。
やっぱり苦手だ。
身体の輪郭が、わずかに乱れる。
それでも、以前ほど大きく崩れることはなかった。
無理に近づかず、距離を取りながら観察する。
……よし。
木杭の上にある金属棒。
細長い形。
先端の輪のような金具。
間違いない。
関所で見たものと、ほとんど同じ構造だ。
ただし、こちらは木杭へしっかり固定されている。
風が吹くたび、先端の隙間を空気が通り抜けていた。
……なるほど。
音を出し続けるために、ここへ設置したのか。
俺はルナへ向き直った。
「……おなじ」
ルナが小さく頷く。
「……やはりか」
バロも、少し離れたところから様子を見ていた。
「それ、何なんだ?」
「魔獣が嫌がる音を出す道具だ」
ルナが答える。
「我らも、別の場所で見たことがある」
「……魔獣が?」
「ああ。人間には分かりにくい音だが、影響を受ける生き物がいる」
バロの顔色が変わった。
「……じゃあ、鳥がいなくなったのも?」
「可能性はある。ただし、まだ断定はできぬ」
……そう。
そこが大事だ。
俺は金属棒の先端へ目を向けた。
関所では、布を巻いて風が通らないようにしたら、あの振動が止まった。
ここでも同じことができるかもしれない。
ただし、今回は柱の高い位置にある。
俺が近づけば、振動の影響を強く受ける。
……どうする。
俺は少し考えた。
そして、バロが腰へ下げていた布袋を見た。
「……ぬの」
「布?」
俺は金属棒を指した。
「……かぶせる」
ルナがすぐに理解した。
「なるほど。風を通さぬようにするのか」
俺は肯定した。
バロが袋を外す。
「これでいいのか?」
俺は触手を伸ばして受け取った。
ただし、そのまま近づくのは難しい。
身体の大部分を石垣の陰へ残し、細い触手だけを伸ばすことにした。
《構造形成》。
触手を長く伸ばす。
しかし、無理に細くしすぎない。
先端が震え、布袋を落としてしまいそうになる。
……くそっ。
近づくほど、気分が悪い。
「……ノア」
ルナが心配そうに声をかけた。
俺は短く答えた。
「……へいき」
……いや。
ちょっと強がった。
正直、あまり平気じゃない。
でも、あと少しだ。
俺は触手を木杭へ沿わせ、布袋を上へ運んだ。
金属棒の先端。
そこへ、袋の口を広げてかぶせる。
……よし。
あと少し。
風が吹いた。
――……ィィン。
……っ!
触手の形が一瞬乱れる。
布袋がずれた。
……まずい。
俺はすぐに《粘着性》を働かせ、袋の端を金具へ固定した。
そのまま、反対側も押さえる。
……よし。
通った!
布袋が金属棒の先端を覆った。
そして。
――……。
……あ。
消えた。
あの嫌な振動が、急に弱くなった。
俺はゆっくり触手を引き戻した。
……ふう。
やっと終わった。
「……止まったか?」
ルナが尋ねる。
俺は身体を上下させた。
「……うん」
「ふむ」
ルナはしばらく耳を澄ませた。
それから、小さく頷く。
「確かに、先ほどまでの音が聞こえなくなった」
……よかった。
俺は石垣の陰で、少しだけ身体を休めた。
バロは呆然と木杭を見ていた。
「……そんなもので、鳥が逃げちまうのか」
「分からぬ」
ルナが答える。
「だが、少なくとも我らが嫌がる音は出ておった」
……うん。
そして、止めることはできた。
あとは、鳥が戻ってくるかどうかだな。
もっとも、すぐに戻るとは限らない。
怖い思いをした場所へ、いきなり帰ってくるとも思えないし。
……でも。
原因らしいものは見つかった。
それだけでも、大きな収穫だ。
俺がそんなことを考えていると、バロがゆっくり口を開いた。
「……なあ」
……ん?
「もしかして、あの連中は俺を騙してたのか?」
俺は答えられなかった。
ただ、ルナは静かに言った。
「少なくとも、すべてを説明していたとは思えぬな」
……そうだな。
何のために設置したのか。
誰が頼んだのか。
そして、どうしてわざわざ風の通る場所に置いたのか。
まだ分からないことが多すぎる。
俺は木杭を見上げた。
ただの風向き調査なら、こんな仕組みが必要なんだろうか。
……いや。
やっぱり、不自然だ。
◇
「……こいつも、見てもらった方がいいかもしれん」
バロがそう言って、家から紙を1枚持ってきた。
薄い茶色の紙。
端には、赤い蝋の印が残っている。
「杭を立てた連中から渡されたものだ。設置した場所の記録だとか言ってたな」
……お。
記録か。
俺は目を近づけた。
文字は、まだほとんど読めない。
でも、紙の中央には簡単な図が描かれていた。
線が何本も交わっている。
その周囲に、小さな四角形や丸印がある。
……地図?
俺は少し首を傾げた。
すると、ルナが説明してくれた。
「……この辺りの地形だな」
……やっぱり。
「ここが果樹園。こちらが南の街道だ」
ルナが前脚で紙を指した。
俺は線を追っていく。
……なるほど。
確かに、見覚えのある形だ。
町の外壁。
南へ続く道。
その周囲に広がる林。
そして、果樹園。
……あ。
ここに、小さな丸印がある。
俺は触手で指した。
「……ここ」
「うむ。今、我らが見つけた杭の位置だろう」
……なるほど。
それなら、ほかの丸印は何だ?
俺は目を動かした。
少し離れた丘。
林の向こう。
それから、町の南門へ続く道の脇。
……ん?
丸印が、ほかにもある。
全部で3つ。
……おい。
まさか。
俺はルナへ目を向けた。
ルナも、すでに気づいていた。
「……バロ」
「何だ?」
「ここに描かれている印は、すべて杭の位置なのか?」
バロは紙を覗き込んだ。
「……ああ。そう言ってたな」
……やっぱり!
俺は身体を持ち上げた。
「……3つ!」
「うむ」
ルナが頷いた。
「少なくとも、この図には3か所の設置場所が示されておる」
……なるほど。
俺たちが見つけたのは、そのうちの1つ。
残りは2つ。
しかも。
1つは町の南門に近い。
……待てよ。
それって、結構まずくないか?
俺は地図を見つめた。
果樹園。
林。
町の南門。
3つの印は、ばらばらに置かれているようで、何かを囲むようにも見える。
……何だろう。
俺は少し考えた。
以前、関所でダインと話したことを思い出す。
あの金属棒を使えば、魔獣が近づきにくい場所を作れるかもしれない。
そして、置き方によっては、魔獣の移動する方向を変えられる可能性もある。
……もし。
もし、この3つが同じ仕組みなら。
林にいる魔獣たちは、いったいどこへ向かうんだ?
俺は紙の上へ触手を伸ばした。
3つの丸印。
その間にある、何も描かれていない場所。
……あ。
1か所だけ、開いている。
町の南側。
外壁のすぐ近くにある、荷車の通れる細い道。
そこには、丸印がなかった。
「……ルナ」
俺は触手で、その場所を指した。
「……ここ」
ルナが目を細める。
「……ふむ」
しばらくして、低い声が返ってきた。
「……確かに、気になるな」
バロが不安そうに尋ねる。
「どうしたんだ?」
俺は上手く説明できなかった。
そもそも、まだ確かなことは何も分からない。
でも、あの金属棒が魔獣を嫌がらせるためのものなら。
3つの杭を使って、特定の方向へ追い立てることだってできるかもしれない。
その先にあるのが、町へ続く道だとしたら。
……。
…………。
……冗談じゃないぞ。
俺はゆっくり身体を起こした。
「……ギルド」
ルナが頷く。
「うむ。これは報告した方がよさそうだ」
バロもすぐに口を開いた。
「俺も行く。あの連中へ土地を貸したのは俺だからな」
……お。
俺は少し驚いた。
バロは苦い顔で続ける。
「礼金をもらったのも事実だ。知らなかったで済むなら楽だが、何か起きてからじゃ遅い」
……そうだな。
俺は触手を伸ばし、バロの靴へ軽く触れた。
「……いこう」
バロは一瞬驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「ああ」
俺たちは急いで果樹園を出た。
さっきまで静かだった木々の間を、風が通り抜ける。
今は、あの嫌な振動は感じない。
けれど。
林の向こうに立つ、残り2つの杭。
あれが今も音を出しているのなら。
……何が起きているんだろう。
俺は町の南門へ目を向けた。
人間たちは、いつもどおり行き交っている。
荷車が通り、店の呼び込みが聞こえ、子どもたちが笑いながら走っていた。
誰も、林の奥を気にしていない。
……まあ。
普通は、気にしないよな。
俺だって、この果樹園へ来なければ気づかなかった。
そう思ったときだった。
――バサッ!
林の方から、突然羽音がした。
俺は反射的に目を向けた。
数羽の鳥が、木々の間から飛び出してくる。
……お?
戻ってきたのか?
一瞬、そう思った。
だが、違った。
鳥たちは果樹園へ向かっていない。
一斉に、町とは反対の空へ飛んでいく。
そのあとに続くように、林の奥から小さな動物たちが駆け出してきた。
……っ。
何だ?
あいつら。
何から逃げてる?
ルナが足を止めた。
鼻先を上げ、風の匂いを確かめる。
「……ノア」
……ん?
ルナの声が、少し低かった。
「林の奥で、大きな群れが動いておる」
……群れ?
俺は地面へ触手を広げた。
《微振動感知》。
最初は、何も分からなかった。
ただの風。
草が擦れる音。
遠くの荷車。
だが。
しばらくして。
――……ドッ。
ごく低い振動が、地面の奥から伝わってきた。
……え?
続けて、もう1度。
――ドドッ。
……おい。
何だ、これ。
俺はさらに意識を集中した。
すると、いくつもの振動が重なり始めた。
重い足音。
地面を蹴る音。
小石が転がる音。
……多い。
かなり多いぞ。
俺はゆっくり顔を上げた。
林の向こう。
木々が、わずかに揺れている。
それも、風とは違う方向へ。
……まずい。
俺はバロとルナへ目を向けた。
「……はやく」
ルナがすぐに頷く。
「分かっておる。町へ知らせるぞ!」
俺たちは走り出した。
背後では、林から飛び立つ鳥の声が続いていた。
果樹園から消えた鳥たちは、もう戻ってこない。
少なくとも、今は。
そして。
鳥たちが逃げ出した理由は、杭の音だけではないのかもしれなかった。




