第2部 第63話 鏡の中の俺
「……肉だ」
ハルザへ到着して、ルナが最初に言ったのはそれだった。
……いや。
分かるよ?
分かるけどさ。
せめて、もう少し町の感想とかないのか?
俺は通りの向こうへ目を向けた。
宿場町ハルザ。
東から来る街道と、南へ続く道が交わる場所に作られた町だ。
トルゼほど大きくはないが、想像していたよりずっと賑やかだった。
道の両側には商店が並び、荷車を引く馬や、旅装の人間たちが行き交っている。
建物の多くは2階建てで、1階を店、2階を住居や宿として使っているらしい。
軒先には色とりどりの布が吊るされ、店によっては商品を通りへ並べていた。
……おお。
いいな。
こういう町。
いかにも旅の途中って感じがする。
「……ノア」
ルナが俺を見た。
「聞いておるのか?」
……ん?
何が?
「肉だ」
……。
……はいはい。
聞いてますよ。
俺は小さな目を動かし、ルナが見ている方を確かめた。
通りの角に、大きな鉄板を置いた屋台がある。
その上では、串に刺さった肉が焼かれていた。
火に落ちた脂が小さく弾け、白い煙が立ち上っている。
……ああ。
なるほど。
これは確かに、おいしそうだな。
もっとも、俺には匂いが分からない。
味も、まだほとんど分からない。
食べ物を取り込めば栄養にはなるし、熱さや硬さの違いくらいは感じ取れる。
でも、ルナがいつも嬉しそうに語る香ばしさとか、甘みとか、そういうものはまだ理解できなかった。
……ちょっと羨ましい。
いや、かなり羨ましい。
「……行くぞ」
ルナが歩き始めた。
……おい。
待て待て。
宿は?
まずは泊まる場所を探すんじゃなかったのか?
俺は慌ててその後を追った。
◇
ハルザの門では、少しだけ時間がかかった。
俺たちは魔獣なので、当然ながら普通の旅人とは扱いが違う。
ただ、今回はダインからもらった証言協力の書類があった。
門番は最初こそ驚いていたものの、関所の印と俺たちの名前を確かめると、落ち着いて話を聞いてくれた。
もちろん、書類があるからといって、何でも自由にできるわけじゃない。
あくまで、東の関所で事件の証言に協力したことを示すものだ。
それでも、身元の分からない魔獣が突然現れるよりは、ずっと話が早かった。
……いやあ。
あの紙、もらっておいてよかったな。
俺は荷物の中へしまった書類を思い出した。
ダインが書いてくれた、俺の名前。
ノア。
種族は未確認のままだけど、名前だけはちゃんと残っている。
……うん。
何度思い出しても、少し嬉しい。
「ノア!」
……あ。
ルナが呼んでる。
俺は慌てて屋台の方へ向かった。
「……これを2本だ」
ルナが店主へ声をかけている。
……おい。
もう注文してるのかよ!
屋台の主人は、大きな腹をした中年の男だった。
腕には火傷の跡がいくつもあり、慣れた手つきで肉を焼いている。
「2本だな。……で、払うのはどっちだ?」
……え?
俺は動きを止めた。
主人はルナを見た。
次に、俺を見た。
「喋る魔獣が買い物に来たのは初めてだが、金さえ払ってくれりゃ構わねえよ」
……おお。
話が早いな。
俺は荷物を開き、貨幣を取り出した。
旅の途中で稼いだ分と、残しておいた金だ。
大金というわけじゃない。
宿代や食料のことを考えれば、無駄遣いはできなかった。
……でも。
まあ、串焼きくらいならいいか。
俺は店主が示した枚数の銅貨を渡した。
「毎度!」
主人が笑う。
そして、焼き上がった串を2本差し出した。
「熱いから気をつけな!」
……おお。
ありがとう。
俺は触手で串を受け取り、ルナへ1本渡した。
「……ふむ」
ルナが肉を眺めた。
「なかなかよい香りだな」
……そうなのか。
「うむ。香草も使っておるようだ」
……へえ。
俺は自分の串を見た。
表面には細かな緑色のものがついている。
これが香草か。
……なるほど。
見た目は結構いい感じだ。
俺は串から肉を外し、身体の一部で包み込んだ。
《捕食》。
……うん。
問題なく取り込める。
肉の熱さと、少し硬い表面。
その内側にある柔らかい部分。
そういう違いは分かるんだけど。
……味は、やっぱり分からないな。
俺が少し残念に思っていると、隣から妙な声が聞こえた。
「……むむ」
……ん?
ルナ?
どうした?
「……これは」
……え?
俺は目を向けた。
ルナが肉をくわえたまま、じっと動かなくなっている。
……おい。
大丈夫か?
俺は少し心配になった。
すると、ルナがゆっくり顔を上げた。
「……うまい」
……。
…………。
……おお。
そんなに?
「これはよいぞ、ノア!」
……うん。
よかったな。
「外側の香草が香ばしく、中の肉にはしっかり味がついておる!」
……へえ。
「しかも、噛むと肉汁が……!」
……はいはい。
分かったから。
そんなに詳しく説明されても、俺にはまだ分からないんだよ。
俺は少し羨ましくなった。
すると、ルナが不思議そうに首を傾げた。
「……貴様は、うまくないのか?」
……あ。
そうか。
ルナは、俺に味覚がないことをまだ詳しく理解していなかったのかもしれない。
俺は少し考えた。
そして、発声用の構造を整える。
《共鳴膜》。
「……あじ」
「味?」
「……わから、ない」
ルナが黙った。
しばらくして、俺の方へ顔を向ける。
「……そうなのか?」
俺は身体を上下させた。
「ふむ……」
ルナは自分の串を見た。
それから、俺の方を見た。
「……それは、つまらぬな」
……。
……うん。
本当にそう思う。
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ルナは少し考え込んだあと、突然言った。
「ならば、いつか味も分かるようになればよい」
……え?
「貴様は、目も脚も声も手に入れてきたのであろう?」
……ああ。
確かに。
「ならば、味を感じる方法も、いずれ見つかるやもしれぬ」
……。
…………。
……なるほど。
そうか。
そういう考え方もあるな。
俺は思わず、身体を持ち上げた。
最初は、何も見えなかった。
それが今では、こうして屋台の肉を見ることができる。
声だって、少しずつ自然に出せるようになってきた。
だったら。
味覚だって、いつか手に入るかもしれない。
もちろん、どんな生き物を捕食すれば獲得できるのか、今は分からない。
そもそも、普通の味覚を持つ生き物を捕食しただけで、その性質が手に入るとは限らない。
……でも。
目標が1つ増えるのは、悪くないな。
俺は触手を持ち上げた。
「……いつか」
ルナが小さく笑う。
「うむ。そのときは、また一緒に食べるとしよう」
……おう。
約束だな。
◇
串焼きを食べ終えたあと、俺たちは通りを歩くことにした。
まずは宿を探す。
それから、町の様子を見て回る。
……という予定だった。
ただ。
「……ノア」
……ん?
「次は、あの焼き菓子だ」
……。
……おい。
お前、さっき肉を食べたばっかりだろ!
「ふん。肉と菓子は別であろう」
……いや。
そういう問題じゃないと思うんだけど。
俺は触手を左右へ振った。
「……あと」
「あと?」
「……やど」
ルナは一瞬黙った。
それから、少しだけ目を逸らす。
「……む」
……おい。
忘れてただろ。
完全に忘れてただろ!
「忘れてなどおらぬ」
……本当か?
「もちろんだ」
……。
…………。
……絶対嘘だな。
俺は少し呆れながら、通りの先へ目を向けた。
すると、宿らしい建物が見えた。
入口には大きな看板が吊るされ、旅人らしい人間たちが出入りしている。
……お。
あそこに聞いてみよう。
俺はルナへ触手を伸ばした。
「……あっち」
「む? 宿か?」
俺は肯定する。
「ふむ。よかろう」
……よし。
ようやく話が進んだな。
俺たちは建物へ向かった。
入口の看板には、俺にはまだ読めない文字が並んでいる。
ただ、下には簡単な絵が描かれていた。
屋根。
寝台。
それから、小さな湯気の立つ鍋。
……なるほど。
宿と食事の店なのか。
これは便利そうだ。
「……ふむ」
ルナも看板を眺めている。
「食事も出る宿らしいな」
……あ。
嫌な予感。
俺は慌てて声を出した。
「……やど!」
「分かっておる!」
……本当かなあ。
俺は半信半疑のまま、宿の扉をくぐった。
◇
宿の主人は、穏やかな顔をした年配の男だった。
俺たちを見ると少し驚いたが、ダインの書類を確認すると、部屋の相談に応じてくれた。
「部屋なら空いておりますよ。ただ、寝台は人間用ですが……」
「構わぬ」
ルナが答えた。
「我らは床でも休める」
……まあな。
俺なんて、むしろ床の方が楽だし。
主人は少し考えたあと、階段の近くにある小部屋を案内してくれた。
窓は1つ。
小さな寝台が1つ。
壁際には木製の机が置かれている。
……おお。
いいじゃないか。
しかも、床がきれいだ。
俺は部屋へ入り、身体の一部を広げて確かめた。
乾いている。
汚れも少ない。
……うん。
十分だな。
「……ふむ」
ルナも気に入ったらしい。
「悪くない」
主人は安心したように笑った。
「では、こちらをお使いください」
俺たちは宿代を払い、荷物を下ろした。
……ふう。
ようやく落ち着いたな。
俺は身体を床へ広げた。
ルナは窓際へ移動し、外の通りを眺めている。
「……賑やかな町だな」
……ああ。
そうだな。
俺も少し身体を持ち上げた。
窓の向こうには、まだたくさんの人が歩いている。
荷車。
旅人。
商人。
そして、遠くには大きな屋根の建物も見えた。
……ん?
あれ、何だろう。
俺は首を伸ばした。
すると、ルナが答えた。
「冒険者ギルドの出張所だろう」
……おお。
あれが?
「先ほど、主人が話しておった」
……なるほど。
なら、明日にでも行ってみようかな。
トルゼでは正式な冒険者登録こそできなかったが、簡単な仕事を引き受けることはできた。
ここでも、何か仕事が見つかるかもしれない。
……まあ。
今日は休みたいけどな。
俺は身体を少し丸めた。
すると、ルナがこちらを向いた。
「……ノア」
……ん?
「まだ外を見に行かぬのか?」
……え?
俺は思わず身体を持ち上げた。
……おいおい。
さっきまで肉だ菓子だって言ってたのに、まだ歩き回るつもりなのか?
「せっかく町へ来たのだぞ」
……まあ。
それはそうだけど。
「宿も決まった。ならば、少しくらい見て回ってもよかろう」
……うーん。
確かに。
疲れてはいるけど、まだ日暮れまでは時間がある。
それに、久しぶりの町だ。
もう少し見て回るのも悪くない。
……よし。
俺は4本の脚を作った。
「……いこう」
ルナが嬉しそうに尻尾を揺らした。
「うむ!」
……ただし。
次の串焼きは買わないからな?
◇
町の南側には、旅道具を扱う店が集まっていた。
丈夫そうな靴。
革の鞄。
雨を避けるための布。
旅人向けの道具が、店先へ所狭しと並んでいる。
……おお。
こういうの、見るだけでも楽しいな。
俺には靴も外套も必要ないけど。
……いや。
靴は、いつか必要になるのかな?
もし人間のような脚を作れるようになったら、履くこともできるかもしれない。
……うーん。
でも、その前に普通の足を作れるようにならないとな。
そんなことを考えながら歩いていると、1軒の店が目に入った。
革袋や小物を売っている店だ。
入口には金属製の道具がいくつも吊るされている。
……ん?
俺は脚を止めた。
その中に、妙なものがあった。
丸い金属の板。
表面が、驚くほど滑らかだ。
……何だ、あれ。
俺は少し近づいた。
すると。
……え?
板の中で、何かが動いた。
俺は反射的に身体を引いた。
……っ!?
魔物!?
いや、待て。
板の中に何かいる?
俺はもう1度、慎重に近づいた。
すると、また何かが動いた。
……ん?
俺が右へ動くと、そいつも動く。
左へ動くと、同じように左へ動く。
……。
…………。
……あ。
もしかして。
俺は小さな目を近づけた。
そこに映っていたのは。
……俺?
俺だった。
「……おや」
店の奥から声がした。
「鏡が気になるのかい?」
……鏡!
そうか!
鏡か!
俺は思わず身体を持ち上げた。
よく考えたら、当たり前だ。
鏡なんだから、そこに映るのは俺だろう。
でも。
……そういえば。
俺、自分の姿をちゃんと見たことがなかったな。
《視覚》を獲得してから、いろんなものを見てきた。
ルナの姿も。
草原も。
町も。
たくさんの魔獣たちも。
でも、自分自身の姿だけは、ほとんど見ていなかった。
水面にぼんやり映る影くらいは見たことがある。
ただ、こうして輪郭まで分かるほど、はっきり見たことはなかったんだ。
……なるほど。
これが。
今の俺か。
俺は鏡の前へ身体を寄せた。
そこに映っていたのは、4本脚の奇妙な生き物だった。
胴体には決まった形がなく、柔らかな輪郭がわずかに揺れている。
その前側から、首のような部分が伸びていた。
先端には小さな目が1つ。
後ろには、姿勢を保つための短い触手。
……。
…………。
……うわ。
思ってたより、変だな。
いや。
自分で作った姿なんだけどさ。
何というか。
脚の長さが、微妙に揃っていない。
しかも、前脚と後ろ脚の太さが違いすぎる。
首も少し曲がっている。
……おいおい。
俺、こんな姿で歩いてたのか?
俺は思わずルナへ目を向けた。
「……ルナ」
「何だ?」
「……おれ」
俺は鏡を指した。
ルナが近づいてくる。
そして、鏡に映る俺の姿を眺めた。
「……ふむ」
……どうだ?
「貴様だな」
……いや。
それは分かってるよ!
そうじゃなくて。
もっとこう。
何か感想とかないのか?
「……ふふっ」
ルナが少し笑った。
「ようやく、自分の姿を見たのか」
……うん。
そうなんだよ。
俺は少し恥ずかしくなった。
ルナは鏡に映る俺を眺めながら続ける。
「なるほど。確かに、こうして見ると脚の長さが不揃いだな」
……っ。
やっぱり!
自分でも思ったんだよ!
「以前から言っておったであろう」
……いや。
そうだけど。
実際に見ると、結構ショックなんですけど。
俺は身体を少し低くした。
すると、ルナが楽しそうに笑った。
「だが、直せるのであろう?」
……え?
俺は鏡へ目を戻した。
……あ。
そうか。
そうだよな。
俺の身体は、人間みたいに決まった形じゃない。
気に入らなければ、調整すればいい。
俺は《構造形成》へ意識を集中した。
まず、左右の前脚。
鏡を見ながら、長さを揃える。
……よし。
次に、後ろ脚。
太さを少しだけ細くする。
ただし、地面を蹴るための《弾性組織》は残しておく。
……うん。
いい感じだ。
さらに、首の位置を調整する。
少しだけ短く。
身体の中央から、自然に伸びるように。
……おお。
さっきより、だいぶまともになったんじゃないか?
俺は少し得意になった。
「……ふむ」
ルナが鏡を見た。
「随分と変わったな」
……だろ?
頑張ったんですよ。
「少なくとも、さっきよりは歩きやすそうだ」
……おお。
それは嬉しい。
俺は試しに、鏡の前で数歩歩いた。
右へ。
左へ。
少し身体を回す。
……うん。
悪くない。
鏡の中では、俺と同じように奇妙な生き物が動いている。
……何だか、不思議な気分だな。
今まで、自分の身体を作るときは、ほとんど感覚だけに頼っていた。
脚が動くか。
体重を支えられるか。
視界を維持できるか。
そればかり考えていた。
でも、こうして外から見ると、今まで気づかなかったことが分かる。
……なるほど。
鏡って、結構便利なんだな。
俺が夢中になっていると、店主が声をかけてきた。
「ずいぶん器用な身体だねえ」
……あ。
そうだった。
ここ、店だった。
俺は慌てて店主へ身体を向けた。
「……ごめん」
「いいよ、いいよ」
店主は楽しそうに笑った。
「ただ、そこまで気に入ったなら、買っていかないかい?」
……え。
買う?
俺はもう1度、鏡を見た。
……うーん。
確かに、欲しいな。
これがあれば、身体の形を調整するときに便利だ。
でも。
……高そう。
俺は少し考え込んだ。
すると、店主が奥の棚から小さな鏡を取り出した。
「こっちなら、少し安いよ」
……お?
俺は目を向けた。
手のひらほどの大きさの、丸い鏡だった。
表面には細かな傷がいくつかある。
縁の一部も、少し曲がっていた。
でも、中央はちゃんと磨かれている。
……おお。
これなら十分じゃないか?
俺は店主が示した値段を聞き、手持ちの貨幣を確かめた。
……うん。
宿代はもう払った。
食料を買う分も、まだ残る。
それなら。
……買ってもいいかな。
俺は触手で銅貨を取り出した。
「……これ」
「毎度あり!」
店主が笑う。
俺は小さな鏡を受け取った。
……おお。
買っちゃった。
異世界で、初めて自分のために買った鏡だ。
俺は少し嬉しくなった。
「……ノア」
ルナが隣から声をかける。
……ん?
「随分と気に入ったようだな」
俺は身体を上下させた。
「ふん。ならば、よかったではないか」
……うん。
本当に。
俺は鏡を荷物の中へ慎重にしまった。
割れたり傷ついたりしないよう、柔らかい布で包む。
……よし。
これからの練習に使おう。
◇
宿へ戻る頃には、すっかり夕方になっていた。
部屋の窓からは、ハルザの町並みが見える。
昼間より人通りは減ったが、それでも通りにはまだ旅人や商人の姿があった。
俺は机の上へ、買ってきた鏡を置いた。
……うん。
ちゃんと映る。
今度は4本脚を崩し、いつもの不定形の身体へ戻ってみた。
鏡の中では、柔らかな輪郭がゆっくり変わっていく。
……ああ。
これが、本来の俺なんだな。
決まった顔もない。
手も足も、最初から備わっているわけじゃない。
必要に応じて作っているだけだ。
……でも。
俺は鏡の中へ、小さな目を1つ作った。
その目が、こちらを見返している。
……何だろう。
少し変な気分だな。
人間だった頃の顔は、もう思い出せない。
名前も、思い出せないままだ。
それでも今、鏡に映っているのは、確かに俺だった。
……ノア。
ルナがつけてくれた名前。
今はもう、その名前で呼ばれることが当たり前になっている。
俺は少しだけ身体を持ち上げた。
「……おれ」
《共鳴膜》を使った声が、小さく響く。
鏡の中の目が、わずかに動いた。
……うん。
俺だ。
「……ノア」
背後から声がした。
俺は振り返る。
ルナが寝台の上から、こちらを眺めていた。
「何をしておる?」
俺は鏡を指した。
「……れん、しゅう」
「ふむ。熱心だな」
……まあな。
せっかく買ったんだから。
俺が触手を揺らすと、ルナは小さく笑った。
それから、寝台の上で身体を丸める。
「明日はギルドへ行くのであろう?」
俺は身体を上下させた。
「ならば、今日はもう休め。町歩きも、なかなか疲れるものだ」
……うん。
それはそうだな。
俺は鏡を布で包み、荷物の中へ戻した。
そして、床の上へ身体を広げる。
……ああ。
落ち着く。
今日は、久しぶりに普通の1日だった。
魔物と戦ったわけじゃない。
誰かを助けるために走り回ったわけでもない。
ただ、町を歩いて。
屋台で肉を買って。
宿を探して。
鏡を見つけた。
……うん。
こういう日も、いいな。
俺は少しだけ目を閉じるように、視覚の構造を崩した。
すると、ルナが小さく声をかけてきた。
「……ノア」
……ん?
「明日は、あの菓子も食べてみたいな」
……。
…………。
……おい。
まだ覚えてたのかよ!
俺は思わず触手を持ち上げた。
すると、ルナが楽しそうに笑った。
「ふふっ。忘れるわけがなかろう」
……まったく。
食べ物に関する記憶力だけは、本当にすごいな。
俺は呆れながらも、少し笑ってしまった。
……まあ、いいか。
明日はギルドへ行く。
仕事があれば、また少しお金を稼げるかもしれない。
それから、町の周りも調べてみたい。
俺の新しい身体を試せる場所があるといいな。
それに。
……いつか、味も分かるようになりたい。
今日、ルナが嬉しそうに肉を食べていた姿を思い出す。
あんなふうに、おいしいものをおいしいと感じられたら。
きっと、旅はもっと楽しくなる。
……よし。
また1つ、楽しみが増えたな。
俺は静かに身体を丸めた。
窓の外では、ハルザの町に灯りがともり始めている。
明日は、どんなことがあるんだろう。
……ああ。
楽しみだ。
ただし。
明日の朝、ルナが真っ先に菓子屋へ向かおうとしたら。
そのときは、ちゃんと止めよう。
……たぶん、止まらないと思うけど。




