変異の条件
第8話 変異の条件
「……腹が減った」
目覚めて最初に考えたのが、それだった。
いや、そもそも眠っていたのかどうかも分からない。
今の俺には瞼がないし、時計もない。意識がぼんやりしていた時間を、勝手に睡眠と呼んでいるだけだ。
ただ、身体を休めたおかげか、昨日……と言っていいのか分からないが、毒を持つ生物に刺された部分はすっかり塞がっていた。
痺れもほとんど残っていない。
「回復力だけは、本当に優秀だな」
その代わり、身体が少し小さくなっていた。
どうやら傷を治すだけでなく、身体を維持すること自体にも栄養が必要らしい。
食わなければ弱る。
当たり前の話だが、今の俺にとってはなかなか切実な問題だった。
「……今日も食料探しか」
俺は岩の陰から身体を伸ばし、水たまりへ向かった。
《微振動感知》を使うと、水の中で動く小さな生物たちの反応が伝わってくる。
相変わらず、ここは餌が豊富だ。
ただし、水たまりの底にいる何かも健在だった。
……とくん。
岩の奥から、あの規則正しい振動が届く。
「お前も元気そうだな……」
もちろん、返事はない。
むしろ、返事なんてされたら困る。
俺は水たまりの端に身体を固定し、小さな生物の反応を探った。
昨日は偶然触れたものを捕食していたが、今日はもう少し効率を考えてみたい。
何しろ、今の俺には新しい性質がある。
《微弱毒分泌》。
せっかく手に入れたのだから、試さない手はないだろう。
「……まずは、これだな」
俺は身体の一部を細く伸ばし、水中へ差し込んだ。
触手……と呼ぶには少々頼りないが、今のところこれが精一杯だ。
先端に《粘着性》を集中させる。
すると、近くを漂っていた小さな生物が触れた瞬間、身体の表面にくっついた。
「よし、捕まえた」
だが、獲物は激しく動いている。
小さくても、生き残ろうと必死なのだろう。
俺は続いて《微弱毒分泌》を意識した。
……じわっ。
先端から、何かが滲み出す感覚。
すると、しばらく暴れていた獲物の動きが、少しずつ鈍くなっていった。
「……おお!」
効いてる!
毒なんて物騒な性質を手に入れたときはどうかと思ったが、これは便利だ。
弱らせてから捕食すれば、抵抗される危険も減る。
俺は獲物を身体の内側へ取り込み、ゆっくりと捕食した。
……うん。
やっぱり、栄養は少ないな。
「もっと大きいのが欲しいところだけど……」
そう思ったところで、昨日の戦いを思い出した。
毒を持つ獲物に刺され、身体の一部が動かなくなったこと。
あれは結構危なかった。
今のところ、毒を扱えるようになったからといって、他の毒に強くなったわけでもない。
それに、毒が効かない相手だっているかもしれない。
「……欲張って死んだら意味ないか」
俺は気を取り直し、小さな獲物を探した。
まずは安全に栄養を集める。
それから少しずつ、できることを増やしていけばいい。
そう考えていたのだが――。
「……ん?」
身体の先端が、妙なものに触れた。
水たまりの底。
岩の表面に、薄く柔らかいものが広がっている。
最初は水草か何かだと思った。
しかし、少し押してみると、微かな反応が返ってきた。
「……生き物?」
俺は慎重に身体を伸ばした。
相手はほとんど動かない。
ただ、岩に張りつくように広がっている。
触れた部分は柔らかく、硬い殻も見当たらない。
「……これなら食えるか?」
試しに端を包み込んでみる。
すると、驚くほど簡単に捕食が始まった。
「……お?」
小さな生物を捕まえたときとは違う。
身体の奥へ、じんわりと栄養が流れ込んでくる。
しかも、まだ続いている。
「……おおお!」
これは当たりだ!
どうやら、岩に張りついている生物は思った以上に大きいらしい。
俺は身体を広げ、接触面を増やした。
捕食が進むにつれて、相手の反応が徐々に弱くなっていく。
だが、そのとき。
……とくん。
水たまりの底から、強い振動が届いた。
「……ん?」
いつもより大きい。
続いて、水の流れが変わった。
身体の端が、ゆっくりと岩の隙間へ引っ張られていく。
「……おい」
嫌な予感がした。
俺は急いで身体を縮めようとした。
しかし、まだ捕食している部分が岩に張りついている。
離れようとしても、思ったように身体が動かない。
「……ちょっと待て!」
……とくん!
今度は明らかに強い。
水の流れが急に速くなった。
そして、岩の隙間から何かが伸びてきた。
「うわっ!?」
柔らかいものが身体の端を掠める。
その直後、俺が捕食していた生物が、何かに引っ張られた。
ぐいっ!
「……っ!?」
身体が大きく伸ばされる。
まずい。
このままでは、捕食中の獲物ごと引きずり込まれる!
俺は咄嗟に《粘着性》を強めた。
身体の反対側を岩に固定する。
だが、相手の力は想像以上だった。
ずるずると、少しずつ引き寄せられていく。
「……冗談じゃない!」
捕食を中断する。
くっついていた部分を無理やり引き剥がすと、身体の一部に痛みが走った。
それでも構わず後退した。
すると、次の瞬間。
ぐしゃっ!
さっきまで捕食していた生物が、岩の隙間へ引きずり込まれた。
「…………」
俺は水たまりの端まで逃げ、そこでようやく動きを止めた。
危なかった。
本当に危なかった。
「あいつ……獲物を横取りしやがった」
いや、違うな。
もともと、あの生物は岩の奥に潜む何かの餌だったのかもしれない。
俺が勝手に手を出しただけだ。
それにしても、あの力は何だ?
水の流れまで操るように、獲物を引き寄せていた。
「……絶対、今は勝てないな」
俺は岩の陰へ身体を隠した。
幸い、追撃はない。
どうやら相手は、岩の隙間から大きく離れるつもりがないらしい。
だったら、こちらから近づかなければいい。
そう考えながら、俺は捕食した栄養を身体全体へ行き渡らせた。
「……ん?」
そこで、妙なことに気づいた。
身体が、少し大きくなっている。
いや、少しどころじゃない。
最初にこの水たまりへ来たときよりも、明らかに身体の量が増えていた。
「……あれ?」
俺は試しに身体を広げた。
岩の上を薄く覆う。
今までなら届かなかった場所まで、身体の端が伸びていく。
「……成長してる?」
捕食すれば身体が回復することは、すでに分かっていた。
だが、今回はそれだけじゃない。
失った分を補ったうえで、さらに身体が増えている。
「……なるほどな」
原初種は、捕食によって成長する。
設定画面で見た情報を思い出す。
あのときは、単純にレベルが上がるようなものだと思っていた。
だが、実際には捕食した栄養が身体そのものを成長させているらしい。
「……そう考えると、結構すごいな」
食べれば大きくなる。
しかも、相手によっては新しい性質まで手に入る。
普通の生物からすれば、とんでもない能力だろう。
ただし、何でも無制限に取り込めるわけではない。
そこは、これまでの経験でよく分かっていた。
「……ん?」
ふと、身体の中心に違和感を覚えた。
昨日から何度か感じていた、あの奇妙な動きだ。
だが、今回は違った。
何かが身体の内側へ集まっている。
水でもない。
捕食した栄養とも、少し違う。
もっと深い場所で、複数の性質が互いに触れ合っているような感覚だった。
「……何だ、これ?」
俺は意識を集中させた。
すると。
《原初種》
成長条件を確認しました。
「……え?」
突然、頭の中に情報が浮かび上がった。
今までにも、性質を獲得したときには似たような表示が現れていた。
だが、今回は明らかに違う。
《捕食による成長量:条件達成》
《異なる性質の獲得:条件達成》
《身体構造の変化適性:条件達成》
《第1段階変異が可能になりました》
「…………」
……変異?
ちょっと待て。
今、何て書いてあった?
俺は慌てて情報を読み直した。
第1段階変異。
つまり、今の身体から別の形へ変われるということか?
「……進化、みたいなもの?」
ゲームならお馴染みの要素だ。
一定のレベルまで成長すると、上位の種族へ進化する。
そういう仕組みなら理解できる。
だが、表示されているのは《進化》ではなく《変異》だ。
しかも、条件には身体構造の変化適性と書かれている。
「……どういうことだ?」
俺が疑問に思った瞬間、追加の情報が浮かび上がった。
《変異方向を選択してください》
《外殻強化型》
身体表面の硬質化を促進し、防御性能を高める変異。
《毒腺発達型》
毒の生成能力を発達させ、捕食時の攻撃性能を高める変異。
《万能適応型》
現在の流動体構造を維持し、獲得した性質を用途に応じて組み替える能力を発達させる変異。
「……おお?」
思わず興奮した。
選べるのか!
しかも、3種類。
俺は改めて、それぞれの説明を確認した。
まず《外殻強化型》。
これは分かりやすい。
今の俺にとって、身体が柔らかすぎることは大きな弱点だ。
あの巨大な化け物に襲われたときも、甲殻を持つ虫の群れに囲まれたときも、身体を簡単に傷つけられた。
防御力が上がれば、生存率は確実に高くなるだろう。
「……悪くないな」
だが、問題もある。
身体を硬くすると、動きにくくなる。
今の《硬質外皮》でさえ、広い範囲に使うと移動が鈍くなるのだ。
変異によってその欠点が改善されるかもしれないが、保証はない。
何より、身体が硬くなることで狭い隙間へ入り込めなくなったら困る。
今の俺が生き残れているのは、この柔らかい身体のおかげでもあるからだ。
「……じゃあ、次」
《毒腺発達型》。
これは攻撃向きだろう。
《微弱毒分泌》が強くなれば、獲物を捕まえるのも楽になるはずだ。
毒で相手の動きを止めて、ゆっくり捕食する。
なかなか合理的な方法だと思う。
ただし。
「……毒が効かない相手もいるよな」
硬い甲殻を持つ虫にだって、柔らかい部分へ触れなければ毒を送り込めないかもしれない。
それに、さっきの水たまりの底にいる何かのように、相手がこちらより大きすぎる場合はどうだ?
微弱な毒が少し強くなったところで、通用するとは限らない。
「……うーん」
どちらも魅力的だ。
けれど、決定打に欠ける。
俺は最後の選択肢へ意識を向けた。
《万能適応型》。
現在の流動体構造を維持。
獲得した性質を、用途に応じて組み替える能力を発達させる。
「……これ、どういう意味だ?」
説明だけでは少し分かりにくい。
俺は詳しく知ろうと意識を集中させた。
すると、さらに情報が浮かび上がった。
《万能適応型》
特定の形態に固定されず、身体の一部を目的に応じて変化させる方向へ成長します。
獲得した性質を局所的に発現させ、移動・防御・攻撃・感知などに適した構造を形成できます。
ただし、変化可能な範囲と同時に維持できる構造には限界があります。
「…………」
俺はしばらく、その説明を考えていた。
つまり。
今の身体を基本にしたまま、必要に応じて形を変えられるようになる。
例えば、移動するときは細長く伸びる。
攻撃するときは、硬い突起を作る。
防御するときは、必要な場所だけ殻を作る。
さらに、身体の一部を感知専用に変化させることもできるかもしれない。
「……それ、めちゃくちゃ便利じゃないか?」
もちろん、説明には限界があると書かれている。
何でも自由自在にできるわけではない。
それでも、今の俺にとっては相当魅力的だった。
何しろ、原初種の最大の特徴は、捕食によって性質を増やせることなのだ。
これから新しい性質を手に入れるたび、その使い道も増えていく。
もし身体を自在に変えられるなら、獲得した性質を組み合わせることだってできるかもしれない。
「……これだな」
俺はほとんど迷わなかった。
今までの経験が、答えを教えてくれている。
硬い身体だけでは、狭い場所を通れない。
強い毒だけでは、毒が通用しない相手に対処できない。
それに、この世界にはまだ知らない生物がいくらでもいる。
どんな敵が現れるのか。
どんな環境へ進むことになるのか。
今の俺には、まったく分からない。
だったら。
「……何にでも対応できるようになりたいよな」
もちろん、万能という名前を鵜呑みにするつもりはない。
実際には限界もあるだろうし、使いこなすための練習だって必要なはずだ。
でも、それでいい。
少なくとも俺は、特定の能力に頼りきるよりも、状況に応じて自分を変えられる身体が欲しかった。
「……決めた」
俺は意識を集中させた。
《万能適応型》を選択。
すると、頭の中の情報が切り替わった。
《変異方向を確認しました》
《選択:万能適応型》
《変異を開始しますか?》
《YES/NO》
「……おっと」
思わず動きが止まった。
YES。
NO。
この表示には、見覚えがある。
元の世界で、あのゲームを始めようとしたとき。
最後に現れた選択肢も、こんな形だった。
あのとき俺は、何も考えずにYESを選んだ。
そして気づけば、この世界にいた。
手足も、目も、口もない。
見知らぬ洞窟の中で、アメーバのような生き物になっていた。
「……またYESかよ」
何だか、嫌な思い出を刺激された気分だ。
今回も押した瞬間に、何かとんでもないことが起きたりしないだろうな?
俺は慎重に、表示を確かめた。
だが、変異後の詳細な姿までは書かれていない。
本当に、どんな身体になるのか分からないのだ。
「……怖いな、これ」
失敗したらどうなる?
変異の途中で動けなくなったりしないのか?
そもそも、変異にはどれくらい時間がかかるんだ?
疑問はいくらでも浮かんでくる。
だが、答えはどこにも表示されなかった。
「……準備くらいは、した方がいいよな」
俺は周囲の振動を探った。
水たまりの底には、相変わらずあの鼓動のような振動がある。
しかし、それ以外に大きな生物の反応はない。
近くの岩の隙間も、今のところ静かだった。
「……よし」
俺は水たまりから離れ、以前見つけていた狭い亀裂へ向かった。
ここなら、大きな生物は入り込めない。
しかも、奥は行き止まりになっている。
逃げ道がないのは少し不安だが、変異中に無防備になる可能性を考えれば、周囲を警戒しやすい場所の方がいいだろう。
俺は亀裂の奥へ入り込み、身体を小さく丸めた。
岩肌へ《粘着性》を使い、しっかりと固定する。
念のため、周囲の振動をもう1度確認した。
……静かだ。
「……さて」
準備はできた。
あとは、選ぶだけ。
俺は頭の中に浮かんだ選択肢へ意識を向けた。
《変異を開始しますか?》
《YES/NO》
元の世界で、この選択肢を押したときは、ただのゲームだと思っていた。
だが、今回は違う。
この身体が本物だということも、痛みがあることも、死ぬ危険があることも知っている。
それでも。
「……いつまでも、弱いままじゃいられないからな」
今の俺は、まだ何も知らない。
この洞窟の外がどうなっているのかさえ分からない。
人間がいるのか。
町があるのか。
それとも、魔物ばかりの世界なのか。
確かめたいことは山ほどある。
そして、そのためには生き残らなければならない。
「……よし」
俺は迷いを振り払った。
《YES》
その瞬間。
《第1段階変異を開始します》
《変異方向:万能適応型》
身体の中心で、何かが弾けた。
「……っ!?」
痛みではない。
だが、今まで感じたことのない強烈な感覚だった。
身体の内側から、何かが全身へ広がっていく。
《硬質外皮》を発動したときのような、表面が変化する感覚。
《粘着性》を使ったときのような、身体が岩へ吸いつく感覚。
そして、《微振動感知》によって周囲の情報が流れ込む感覚。
それらが一斉に強まり、互いに混ざり合っていく。
「……お、おい!?」
俺は慌てて身体を動かそうとした。
だが、動かない。
さっきまで自由に伸ばせていた身体が、思うように反応しない。
代わりに、中心部分がゆっくりと収縮し始めた。
ぐぐっ……。
身体が内側へ引っ張られていく。
「……これ、大丈夫なのか!?」
今さらNOを選ぼうとしても、表示は消えていた。
身体の変化は止まらない。
そして。
《身体構造の再編成を開始》
その情報が浮かんだ直後、俺の意識は急速に遠のいていった。
「……ちょ、待っ……」
最後まで考えをまとめることもできず、周囲の振動が途切れていく。
岩の感触も。
身体を流れる栄養の感覚も。
すべてが、遠ざかっていく。
ただ1つ。
身体の中心に生まれた、新しい何かの感触だけが残っていた。
それは、今までの俺には存在しなかったものだ。
硬い殻でもない。
毒でもない。
もっと根本的な、身体の仕組みそのもの。
「……何に、なるんだろうな……」
そんな考えを最後に。
俺の意識は、完全に途切れた。




