第2部 第50話 白銀を追いかけて
「……ノア。準備はよいか?」
朝の光が差し込む岩陰で、ルナがそう尋ねてきた。
俺は身体を持ち上げ、勢いよく触手を振った。
「……うん!」
よし。
ついに、このときが来た。
昨日、俺は2度目の変異を終えた。
新たな形態は《自在形態型》。
今まで苦労していた《構造形成》が扱いやすくなり、身体の複数の部分を同時に動かしても、以前ほど集中力を奪われなくなった。
もちろん、急に何でもできるようになったわけじゃない。
昨日の夜も、試しに脚を6本作ってみたら、どれを動かせばいいのか分からなくなって、その場で固まってしまった。
……いやあ。
あれは情けなかった。
ルナには散々笑われたし。
ただ、4本脚なら話は別だ。
俺は身体の下側へ意識を集中した。
前に2本。
後ろに2本。
後ろ脚には《弾性組織》を働かせ、地面を蹴る力を補助する。
身体の前側には、小さな目を1つ。
そして、急に方向を変えたときに姿勢を保てるよう、後ろへ少し太めの触手を伸ばした。
……よし。
完成。
視界の中に、朝日に照らされた草地が広がる。
以前なら、この状態を維持するだけでも精一杯だった。
でも、今は違う。
目を動かしても、脚の形がすぐには崩れない。
……おお。
改めて考えると、すごい進歩だな。
「……ふむ」
ルナが俺の周りをゆっくり歩いた。
「随分と獣らしくなったではないか」
……おっ。
珍しくまともな評価だ。
「もっとも、脚の太さが少々不揃いだがな」
……そこは見逃してくれよ。
まだ練習中なんだから。
ルナは楽しそうに笑うと、岩陰から外へ出た。
「では、始めるか」
俺は身体を少し低くした。
今日の目的は、あの約束を果たすことだ。
ルナと一緒に走る。
ただ、それだけ。
でも、俺にとっては特別なことだった。
◇
競走する場所は、岩陰から少し離れた草地に決まった。
緩やかな下り坂になっていて、大きな石や深い穴も少ない。
先ほどルナと一緒に確かめたので、足元の状態も分かっている。
「向こうの倒木までだ」
ルナが前脚で方向を示した。
目を向けると、少し離れた場所に横たわる茶色い木が見えた。
……なるほど。
あそこまでか。
俺は身体を上下させた。
「言っておくが、我はまだ全力では走れぬぞ」
……うん。
分かってる。
「痛みが強くなれば途中でも止まる。それでよいな?」
もちろん。
俺はもう1度、身体を上下させた。
マルタからも、無理をして怪我を悪くするなと言われている。
ルナの右後ろ脚は、ここ数日でかなり回復してきた。
普通に歩く分には、もうほとんど違和感がないらしい。
それでも、長時間走ったり、急に方向を変えたりすると、まだ痛むことがあるという。
だから今日は、短い距離だけ。
競走というより、軽く走ってみるための練習に近い。
……まあ。
だからといって、負けるつもりはないけどな!
俺は4本の脚を軽く曲げ伸ばしした。
前脚で身体を支える。
後ろ脚へ力をためる。
目の前には、倒木まで続く草地。
……よし。
準備完了だ。
「では、始めるぞ」
ルナが隣へ並んだ。
白銀の毛並みが、朝日に照らされている。
俺は思わず、その姿を見つめた。
……綺麗だな。
最初に目が見えるようになったときも思ったけど、こうして外で見ると、また違って見える。
細い脚。
長い尻尾。
少し尖った耳。
そして、こちらを向く淡い紫色の瞳。
「……ノア」
……ん?
「我を眺めるのは、走り終わってからにせよ」
……あ。
バレた。
「まったく。競走前から余裕だな」
いやいや。
別に余裕ってわけじゃないんだけど。
俺は慌てて視線を前へ戻した。
ルナが小さく笑う。
「……行くぞ」
……おう。
俺は身体を低くした。
ルナも、少しだけ姿勢を落とす。
「……始め!」
次の瞬間。
――ダッ!
ルナが走り出した。
……え?
速っ!
いや、ちょっと待て!
全力じゃないんだよな!?
俺は慌てて後ろ脚へ力を込めた。
《弾性組織》。
縮めた脚を伸ばし、地面を蹴る。
――グッ!
身体が前へ進んだ。
……おお!
いける!
俺は前脚で着地を支え、すぐに後ろ脚を引き寄せた。
もう1度。
――グッ!
身体が前へ押し出される。
目の前の草地が、どんどん後ろへ流れていった。
……すげえ!
本当に走ってる!
今までのように、地面を滑って進んでいるわけじゃない。
4本の脚で身体を持ち上げ、自分の力で地面を蹴っている。
……楽しい!
俺は少し速度を上げた。
前脚で支える。
後ろ脚で押し出す。
その繰り返し。
……よし。
だいぶ慣れてきた。
しかし。
視界の先には、すでにルナの白銀の尻尾があった。
……あれ?
全然追いつかないんですけど。
しかも、ルナはまだ余裕がありそうだ。
軽やかに草地を蹴り、ときどきこちらを振り返っている。
「どうした、ノア!」
……うっ。
「その程度では、我に追いつけぬぞ!」
……くそっ!
言われなくても分かってるよ!
俺は後ろ脚へさらに力を込めた。
――グッ!
身体が大きく前へ進む。
……おお!
少し速くなった!
だが、その直後。
――ぐらっ。
……あ。
まずい。
前脚が追いつかない。
俺は咄嗟に、後ろへ伸ばしていた触手を地面へ押しつけた。
――ザザッ!
身体が少し横へ流れたが、何とか転ばずに済んだ。
……おお。
助かった。
今の触手、意外と役に立つな。
バランスを崩したとき、支えにできる。
だったら、もう少し位置を調整してみよう。
俺は走りながら触手を短くし、身体の後ろ側へ固定した。
左右へ傾いたときだけ、地面へ接触させる。
……よし。
これなら。
俺は再び速度を上げた。
前へ。
もう1歩。
……おお!
今度は転ばない!
しかも、少し曲がることもできた。
俺は夢中になって走った。
風が身体の表面を流れていく。
足元の振動。
目の前を流れる景色。
そして、その少し先を走る白銀の相棒。
……ああ。
いいな。
本当に、いい。
こんなふうに走れる日が来るなんて、少し前までは想像もしていなかった。
俺はもう1度、地面を蹴った。
すると。
「……む?」
ルナが少し驚いた声を出した。
……お?
距離が縮まってる?
さっきまでずっと前にいた尻尾が、少しずつ近づいてきた。
……よし!
あと少し!
俺はさらに脚を動かした。
もう1歩。
さらに1歩。
白銀の尻尾が、すぐ目の前まで来る。
……いける!
俺は思わず触手を伸ばした。
その瞬間。
「……ふん!」
ルナが軽く地面を蹴った。
――ダッ!
……え?
一気に離された。
……ちょっとおお!?
何だ、その加速!
さっきまで手加減してたのかよ!
「くくっ! まだまだだな、ノア!」
……くそっ!
覚えてろよ!
いつか絶対追いついてやるからな!
俺は必死に脚を動かした。
だが、結局。
ルナが先に倒木へ到着した。
俺がたどり着いたのは、その少しあとだった。
……。
…………。
……負けた。
完敗だ。
俺はその場で脚を崩し、草の上へ身体を広げた。
……はぁ。
疲れた。
いや、でも。
……楽しかった!
めちゃくちゃ楽しかったぞ!
「……ふふっ」
ルナが近づいてきた。
「なかなかよい走りだったではないか」
……おお。
負けたけど、褒められた。
「途中から、かなり速くなっておったぞ」
……だろ?
ちょっとコツを掴んだんだよ。
俺は身体の一部を持ち上げ、後ろへ伸ばしていた触手を見せた。
「……ほう」
ルナが少し考え込む。
「それで姿勢を保っておったのか」
肯定する。
「なるほど。獣の尻尾の使い方に似ておるな」
……え?
そうなの?
「うむ。走るときや跳ぶとき、身体の向きを整える助けになる」
……おお。
なるほど。
ただの触手だったけど、ちゃんと意味のある使い方だったんだな。
俺は少し得意になった。
しかし。
「……ただし」
……ん?
「貴様、途中で我の尻尾を掴もうとしたであろう」
……。
……あ。
バレてた。
「競走中に相手を引っ張るのは反則だぞ」
……いやいや!
引っ張るつもりはなかったって!
ちょっと、届くかなって思っただけで!
「……ほう?」
ルナが目を細めた。
「では、次は尻尾に触れずに追いつくのだな」
……。
……はい。
頑張ります。
「くくっ。それでよい」
ルナは楽しそうに笑った。
そのまま倒木の近くへ移動し、身体を伏せる。
俺は少し気になって、右後ろ脚へ視線を向けた。
……ん?
さっきより、少しだけ動きが硬い。
俺は近づき、触手でそっと示した。
「……あし」
「む?」
「……だい、じょうぶ?」
ルナはしばらく黙った。
それから、小さく鼻を鳴らす。
「……少々、張るな」
……あ。
やっぱり。
「だが、強い痛みではない。久しぶりに走ったのだから、これくらいは仕方あるまい」
俺は身体を少し下げた。
……ごめん。
競走しようなんて言い出さなければよかったかな。
すると、ルナが俺の頭らしい部分へ前脚を乗せた。
「……何を落ち込んでおる」
……いや。
だってさ。
「我も走りたかったのだぞ」
……え?
「ずっと寝ておった。歩くことも満足にできず、貴様が外で戦っている間も、我は待つことしかできなかった」
その声は、いつもより少し静かだった。
「今日、久しぶりに風を切って走れた。実に気分がよかったぞ」
……そうか。
ルナも、ずっと我慢してたんだな。
「それに」
ルナが少し笑った。
「貴様が必死になって追いかけてくる姿も、なかなか愉快であった」
……おい。
最後の一言、必要だったか?
俺は触手を持ち上げて抗議した。
すると、ルナは楽しそうに笑った。
……まったく。
でも、元気そうでよかった。
俺は近くの草を避け、ルナが休みやすいよう地面を少し整えた。
それから、自分も隣へ身体を広げる。
……うん。
今日はしばらく休憩だな。
◇
少し休んでから、俺たちは再び街道へ戻った。
今度は急がず、ゆっくり進む。
俺も脚を維持するのをやめて、いつもの不定形の身体へ戻した。
……ああ。
やっぱり、楽だ。
でも、以前とは違う。
今の俺は、必要なら脚を作って走れる。
目も使える。
それも、少しずつ自然にできるようになってきた。
……いいな。
《自在形態型》。
選んで正解だったかもしれない。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「貴様、次はどんな姿を作るつもりだ?」
……ん?
次?
俺は少し考えた。
脚を作れるようになった。
目も作れる。
体表の色も変えられる。
……だったら。
次は、もう少しちゃんとした頭を作ってみたいな。
今の俺は、身体の一部を持ち上げて目を作っているだけだ。
それでも景色は見える。
でも、目の向きを変えるたびに身体全体を調整するのは、少し不便だった。
頭と首のような構造があれば、もっと自然に周囲を見られるんじゃないか?
俺は身体の前側を持ち上げた。
《構造形成》。
細長い首のような部分を作る。
その先を丸くする。
そして、小さな目を1つ形成する。
……よし。
どうだ?
「……ふむ」
ルナが俺を見た。
「頭を作ったのか?」
肯定する。
「ほう。今度は随分と分かりやすいな」
……おっ。
いい反応。
俺は嬉しくなって、首を右へ向けた。
……おお。
動く!
しかも、身体の向きを変えずに視界だけ動かせる。
……これ、結構便利じゃないか?
俺は今度は左へ向けた。
……よし。
成功。
さらに上へ。
……おお。
空も見える!
俺は調子に乗って、もっと上へ向けようとした。
――ぐにゃ。
……あ。
首が曲がりすぎた。
目の位置がずれ、視界が一気にぼやける。
……くそっ。
まだ支えが足りないのか。
俺は首を少し太くし、内部の一部を硬くしてみた。
すると、今度は形が安定した。
……おお。
なるほど。
柔らかいままじゃ駄目なんだな。
身体を自由に動かすためにも、支えになる部分が必要なんだ。
俺は首をゆっくり動かした。
右。
左。
上。
下。
……よし。
今度はうまくいく。
「……くくっ」
ルナが笑った。
……ん?
何だよ。
「貴様、随分と忙しく頭を動かすのだな」
……いや。
せっかく作れたんだから、試したいだろ。
「まあよい。以前より、ずっと生き物らしい姿になってきたではないか」
……おお。
それは嬉しい評価だ。
俺は得意になって、首を少し高く持ち上げた。
すると、ルナが続けた。
「もっとも、今は首の長い奇妙な小獣だがな」
……。
……また奇妙って言った。
この相棒、俺の外見には本当に厳しいな!
俺は抗議するように触手を振った。
だが、今度は目を維持したままでも身体が崩れなかった。
……お。
そういえば。
以前なら、こんなふうに別の部分を動かすだけで、目の構造が壊れていた。
それが今では、普通にできている。
……すごいな。
変異って。
ただ強くなるだけじゃなくて、身体の使い方そのものが変わるんだ。
俺は少し嬉しくなって、首を元へ戻した。
しばらく歩くと、街道は小高い丘の上へ出た。
そこから先には、広い草原が続いている。
俺は目を形成し、遠くを眺めた。
……うわ。
すごい。
今まで見てきた草地とは、規模が違う。
緑色の大地が、ずっと向こうまで広がっている。
その間には、細い川が何本か流れているらしい。
さらに遠くには、森と、低い山々の影。
……おお。
これが、異世界の景色か。
今までだって、いろんな場所を歩いてきた。
でも、こんなに広い場所を自分の目で見るのは初めてだ。
俺は思わず、身体を持ち上げた。
「……ふむ」
ルナも隣で足を止めた。
「なかなかよい眺めであろう?」
俺は大きく身体を上下させた。
「この先には、まだまだ広い土地が続いておる。森もあれば、岩山もある。人間の町から遠く離れた場所には、珍しい魔獣も棲んでおるぞ」
……おお。
いいね。
そういうの。
俺は遠くを眺めた。
今の目では、細かなところまでは分からない。
でも、世界がずっと先まで続いていることは分かる。
……何だろう。
すごく、わくわくする。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「次は、どこへ行きたい?」
……え?
俺が決めていいの?
「当然であろう。我らは相棒なのだからな」
……そっか。
俺は少し考えた。
正直、まだこの辺りの地理はよく分からない。
どこにどんな町があるのか。
どんな魔物がいるのか。
危険な場所はどこなのか。
知らないことだらけだ。
でも。
俺は遠くの森へ視線を向けた。
あの森には、どんな生き物がいるんだろう。
どんな性質を持つ魔物がいるんだろう。
俺の身体は、まだどこまで変わるんだろう。
……よし。
俺は触手を伸ばし、森の方を指した。
「……あっち」
「森か?」
肯定する。
「ふむ。悪くない」
ルナは少し考えてから、街道の先へ顔を向けた。
「ただし、今日は無理に入らぬぞ。まずは道を進み、休める場所を探す。それから森の様子を確かめるとしよう」
……うん。
それでいい。
急ぐ必要はない。
俺たちの旅は、まだ続くんだから。
俺は身体の下側へ4本の脚を作った。
今度は走らない。
ゆっくり歩くだけだ。
1歩。
もう1歩。
……うん。
ちゃんと動ける。
視界の中では、ルナが隣を歩いていた。
俺は少しだけ速度を上げた。
すると、ルナも歩調を合わせてくれる。
……おお。
並んで歩けてる。
初めて出会った頃は、こんなことできなかったのにな。
俺は思わず、身体の端を揺らした。
「……何を喜んでおる?」
ルナが尋ねる。
俺は少し考えた。
今なら、短い言葉くらいは出せる。
俺は発声用の構造を整えた。
「……いっしょ」
「む?」
「……ある、く」
ルナが一瞬、黙った。
それから、小さく笑う。
「……そうだな」
白銀の尻尾が、ゆっくり揺れた。
「次は、もっと遠くまで一緒に走るとしよう」
……うん。
約束だ。
俺は4本の脚で地面を踏みしめ、前へ進んだ。
今はまだ、ルナの方がずっと速い。
でも、いつか必ず追いついてみせる。
そのときは、尻尾に触れるだけじゃない。
ちゃんと隣に並んで。
同じ景色を見ながら、走ってみたい。
……まあ。
その前に、もっとかっこいい身体を作れるようになりたいけどな。
俺は遠くの森へ目を向けた。
次の冒険は、もうすぐそこにある。
【ノア/ステータス】
種族:原初種
変異段階:第2段階
現在の変異形態:《自在形態型》
過去の変異:《万能適応型》
【固有能力】
《捕食》《性質吸収》
【変異能力】
《構造形成》
【保有性質】
《微振動感知》
《粘着性》
《硬質外皮》
《微弱毒分泌》
《摩擦発音》
《弱酸耐性》
《明暗感知》
《視覚》
《弾性組織》
《体表変色》




