第2部 第49話 選んだのは、逃げ道
《捕食が完了しました》
……ふう。
長かった。
森猪を倒してから、ずいぶん時間が経ってしまった。
さすがに、あれだけ大きな獲物を取り込むのは簡単じゃない。途中で身体の消耗を確かめながら、少しずつ消化を進める必要があった。
ちなみに、今回の《性質吸収》による新しい獲得通知はなかった。
……まあ、毎回何かが手に入るわけじゃないからな。
それでも、腹は満たされた。
ルナの食料も確保できたし、牙と皮も残してある。
十分な成果だろう。
「終わったか?」
ルナが近づいてきた。
俺は身体を上下させる。
「ふむ。では、今日はここで休むとしよう。もう日も傾いておる」
……賛成。
さすがに疲れた。
俺は身体を地面へ広げ、ゆっくりと力を抜いた。
それにしても、今日の戦いは楽しかったな。
初めて自分から大きな獲物を狙い、考えて追い込み、仕留めることができた。
しかも、4本脚で走る感覚まで掴めた。
……次はもっと上手く走れるかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は眠りについた。
◇
それから7日が過ぎた。
俺たちは途中の小さな宿場で森猪の素材を売り、食料を補充しながら南へ進んでいた。
街道は次第に細くなり、周囲には草原と岩山が目立つようになっている。
この辺りまで来ると、荷車とすれ違うことも少ない。
その代わり、野生の獣や魔物の気配が増えていた。
……いやあ。
いいね。
ようやく、旅らしくなってきた。
俺は身体の下側に4本の脚を作り、街道を進んでいた。
以前とは違い、脚を維持するためだけに集中し続ける必要はない。
もちろん、完全に自然な動きになったわけじゃないけど、慣れれば結構歩ける。
《弾性組織》も、跳ぶためだけではなく、地面を蹴る力の調整に使えるようになってきた。
ただし、速く走ろうとすると今でも身体が傾くし、急に曲がるのは苦手だ。
……まあ、そこは今後の課題だな。
「ノア、少し速度を落とせ」
隣からルナの声がした。
……あ。
ごめん。
つい楽しくなって、先へ進みすぎた。
俺は脚を動かす速度を落とした。
「ふん。随分と歩くのが上手くなったものだな」
……だろ?
ちょっと練習したからな。
「だが、進むことばかり考えて周囲を見失うなよ」
……はい。
分かってます。
俺は小さな目を形成し、隣を歩くルナへ向けた。
白銀の毛並み。
淡い紫色の瞳。
そして、しっかり地面を踏む4本の脚。
……お。
以前より、右後ろ脚の動きがよくなっている。
「……何だ?」
ルナがこちらを向いた。
俺は右後ろ脚を指す。
「……あし」
「脚か?」
肯定する。
「……よく、なった」
ルナは一瞬黙り、それから少し得意そうに鼻を鳴らした。
「当然であろう。毎日マルタの薬を使い、無理のない範囲で動かしておるのだからな」
……そっか。
ちゃんと治療の成果が出ているんだな。
「まだ長く走れば違和感はある。だが、短い距離なら以前のように動けるようになってきたぞ」
……おお。
それは嬉しい。
俺は思わず脚を止めた。
「何だ?」
俺は触手を伸ばし、街道の先を指した。
次に、自分の脚を動かしてみせる。
「……まさか、競走したいのか?」
肯定する。
ルナが小さく笑った。
「くくっ。気が早いな」
……まあな。
でも、いつか一緒に走ろうって約束しただろ?
「もう少し脚が治ったら、相手をしてやる」
……よし。
そのときまでに、俺ももっと速くなっておこう。
そんな話をしているうちに、街道は緩やかな丘を上り始めた。
俺は目を上へ向けた。
青い空。
遠くに連なる灰色の岩山。
その手前には、風に揺れる草地が広がっている。
……うわ。
すごい景色だな。
見えるようになってから、こういう場所を歩くのが本当に楽しくなった。
人間だった頃は、休日にわざわざ出かけないと見られなかったような景色が、今は目の前にある。
……異世界生活、悪くないじゃないか。
そう思った、そのときだった。
――ドン……。
地面の奥から、低い振動が伝わってきた。
……ん?
俺は身体を止めた。
もう1度。
――ドン……ドン……。
重い。
かなり重い足音だ。
森猪とは比べものにならない。
俺は目を崩し、《微振動感知》へ意識を集中した。
……1匹?
いや、違う。
少し離れた場所に、似たような振動がいくつもある。
「……ノア?」
ルナが足を止める。
俺は振動の方向を示した。
「何かおるのか?」
肯定する。
ルナが少し高い岩へ上がった。
今では短い段差なら登れるようになっているが、それでも着地するときは右後ろ脚をかばっている。
やがて、ルナが低く声を出した。
「……岩甲牛か」
……ガンコウギュウ?
何だ、その強そうな名前。
「岩のように硬い甲殻を持つ大型の魔獣だ。普段は大人しいが、群れの近くへ入り込めば容赦なく突進してくる」
……大型。
群れ。
突進。
……うん。
嫌な単語ばっかりですね。
「こちらから近づかなければ、向こうも襲ってはこぬ。少し道を外れて、迂回するとしよう」
俺は身体を上下させた。
それがいいな。
いくら最近強くなってきたとはいえ、あんな重い足音の主と戦うのは無謀だ。
俺たちは街道を外れ、岩の多い斜面へ移動した。
その途中、俺は小さな目を形成して、遠くを確かめた。
……おお。
いた。
灰色の大きな塊が、何匹も草地を歩いている。
丸太のように太い脚。
背中を覆うごつごつした甲殻。
頭部には、太く短い角があるようだった。
……うわ。
でかいな。
しかも、あの身体で突進するのか。
……絶対に戦いたくない。
俺はすぐに目を崩し、ルナの後を追った。
「ふん。貴様も少しは相手を選ぶようになったな」
……当たり前だろ。
何でもかんでも食べようとするわけじゃないんですよ。
「本当か?」
……。
……たぶん。
しばらく斜面を進むと、前方に細い谷が現れた。
両側には岩壁があり、その間を乾いた土の道が続いている。
「ここを抜ければ、街道へ戻れそうだな」
ルナが言った。
……お。
それはよかった。
俺は4本脚を動かし、谷へ入った。
幅はそれほど広くない。
だが、足元には大小の石が散らばっていて、歩きやすいとは言えなかった。
ルナも慎重に足を運んでいる。
俺は脚を崩し、いつもの不定形の身体へ戻った。
……うん。
こういう場所なら、こっちの方がいいな。
足元の形に合わせて身体を広げられるし、狭い隙間も通れる。
やっぱり、何でも脚で解決しようとする必要はないらしい。
そのときだった。
――ドドドッ!
突然、背後から激しい振動が伝わってきた。
……え?
俺は身体を止めた。
重い足音。
それも、かなり速い。
……まさか。
「……ノア!」
ルナが振り返る。
「岩甲牛が1匹、こちらへ向かっておる!」
……はあ!?
何で!?
俺たち、ちゃんと避けたじゃないか!
「群れから離れた個体かもしれぬ。とにかく、ここを抜けるぞ!」
俺たちは急いで谷の奥へ進んだ。
だが、足音はどんどん近づいてくる。
――ドドドドッ!
……ちょっと待て。
速すぎない?
あんな巨体で、何でそんなに走れるんだよ!
俺は身体を低く広げ、地面を滑るように進んだ。
ルナも走り始める。
だが。
「……くっ!」
右後ろ脚を踏み込んだ瞬間、動きがわずかに乱れた。
……まずい!
俺は振り返った。
目を形成する余裕はない。
でも、振動だけで十分分かる。
相手はもう、すぐ近くまで来ている。
……どうする!?
俺は前方の地形を探った。
岩壁。
大きな石。
そして、その間にある細い隙間。
……あ。
あそこだ!
俺はルナの前へ回り込み、触手で隙間を指した。
「……そっち!」
「む?」
「……いわ、あいだ!」
ルナがすぐに理解した。
「……なるほど!」
俺たちは岩の隙間へ向かった。
しかし、ルナが通るには、少し狭い。
「……くっ!」
無理に身体を押し込もうとしている。
……まずい。
俺は慌てて《構造形成》を使った。
身体の一部を細く伸ばし、岩の表面へ《粘着性》で固定する。
さらに、ルナの身体の下へ太い触手を回した。
……よし。
押す!
俺は身体の一部を縮め、ルナを少しだけ持ち上げた。
「……ノア!?」
驚いた声が響く。
「……そのまま!」
俺はもう1度、力を込めた。
ルナの身体が岩の隙間へ滑り込む。
……よし!
入った!
直後。
――ドガンッ!!
猛烈な衝撃が岩壁へ伝わった。
……うおっ!?
岩甲牛が、俺たちのいた場所へ突っ込んだらしい。
振動だけで、身体がぐらぐら揺れる。
俺は慌てて身体を縮め、岩の隙間へ逃げ込んだ。
――ガリガリッ!
外側では、硬い角が岩を削る音がしていた。
……こわっ!
何だよ、あいつ!
俺たちを追いかけてきたのか!?
「……落ち着け、ノア」
ルナが低く言った。
「まだ見つかっておるとは限らぬ」
……え?
俺は身体を止めた。
確かに、岩甲牛はこちらへ突っ込んできた。
でも、今は岩壁へ何度も身体をぶつけている。
俺たちを狙っているなら、少し様子がおかしい。
「……見よ」
ルナが小さく言った。
俺は身体の一部に目を形成し、岩の隙間から外を覗いた。
ぼんやりした視界の向こうに、大きな岩甲牛がいる。
身体のあちこちに、硬そうな甲殻が重なっていた。
そして。
……ん?
首の辺りに、何かが絡まっている。
細い蔓のようなものだ。
いや、蔓だけじゃない。
棘のある枝まで引っかかっている。
……あれ?
もしかして。
「……そうか」
ルナが呟いた。
「首に棘蔓が絡んでおるのか」
……え?
「岩甲牛は首の辺りを自分で掻きにくい。あれを外そうとして、岩へ擦りつけておるのだろう」
……なるほど。
そういうことか。
岩甲牛は俺たちを追いかけてきたわけじゃない。
たまたま同じ谷へ入り込んで、岩壁へ身体をぶつけていたのか。
……いやいや。
それにしたって、危なすぎるだろ!
俺たち、もう少しで踏み潰されるところだったぞ!
「……ふむ」
ルナが小さく鼻を鳴らした。
「ならば、しばらく待てばよい。あれが満足すれば、いずれ去るであろう」
……うん。
それが一番だな。
俺たちは岩の隙間で待つことにした。
しかし。
――ガンッ!
――ゴンッ!
――ドンッ!
……。
…………。
……長い。
いつまでやってるんだよ!
岩甲牛は、何度も岩へ首を擦りつけていた。
そのたびに、地面が大きく揺れる。
しかも、どうやら棘蔓は簡単には外れないらしい。
……うーん。
困ったな。
ここを通らないと、街道へ戻れそうにない。
かといって、あいつの近くを通るのは危険すぎる。
俺は岩の隙間から、もう1度外を見た。
……ん?
よく見ると、棘蔓の一部が岩の突起へ引っかかっている。
岩甲牛が身体を動かすたび、蔓が強く引っ張られていた。
……あ。
それで暴れてるのか。
引っかかった蔓が首へ食い込んで、余計に苦しくなっているんだ。
……なるほど。
原因は分かった。
問題は、どうするかだ。
俺は少し考えた。
相手は巨大。
甲殻は硬い。
力では絶対に勝てない。
……でも。
棘蔓を外すだけなら?
俺は身体の前側へ触手を伸ばした。
「……ノア?」
ルナが不思議そうに声をかけてくる。
俺は岩甲牛の方を指した。
次に、自分の触手を細く伸ばしてみせる。
「……まさか」
ルナが何かに気づいた。
「貴様、あれを外してやるつもりか?」
俺は身体を上下させた。
「……正気か?」
……失礼な。
一応、考えてますよ。
「相手は岩甲牛だぞ。気づかれれば、踏み潰されるかもしれぬ」
……うん。
それは分かってる。
でも、別に真正面から近づくつもりはない。
俺には《体表変色》がある。
《粘着性》も、《構造形成》もある。
それに、岩甲牛は今、首の棘蔓を外すことしか考えていない。
……だったら。
ちょっとだけ、やってみる価値はあるんじゃないか?
俺は身体の一部を薄く広げ、岩の表面に沿わせた。
《体表変色》を働かせ、灰色へ変えていく。
……よし。
周囲の岩と、だいたい同じ色になった。
「……ノア」
ルナが低く言う。
「危なくなれば、すぐに戻るのだぞ」
俺は触手を上下させた。
……了解。
今回は、本当に無茶するつもりはない。
俺は細い触手を岩の隙間から伸ばした。
身体の大部分は安全な場所に残す。
まず、棘蔓が引っかかっている岩の突起へ近づく。
……よし。
触れた。
硬い岩。
その周囲に絡まる、細くて丈夫な蔓。
俺は触手の先端を少し硬くした。
《硬質外皮》。
刃物ほど鋭くはないが、細い蔓なら何度か擦れば傷をつけられる。
……よし。
少しずつ。
――ギリッ。
蔓へ押し当てる。
もう1度。
――ギリッ。
……硬いな。
思ったより丈夫だ。
岩甲牛が動く。
――ドンッ!
振動が伝わった。
……うおっ。
危ない。
俺は慌てて触手を緩めた。
蔓が引っ張られ、岩甲牛の首が動く。
その瞬間、俺の触手も少し持っていかれた。
……まずい!
俺は《弾性組織》を働かせ、急な衝撃を逃がした。
……ふう。
危なかった。
でも、今ので分かった。
棘蔓は、岩へ引っかかった部分が強く張っている。
だったら、そこさえ切れればいい。
俺はもう1度、触手の先端を硬くした。
今度は、蔓が岩へ接している部分へ押し当てる。
そして。
――ギリッ!
少しずつ削る。
何度も。
何度も。
……あと少し。
すると、突然。
――プツンッ!
……おっ!
切れた!
次の瞬間。
――ドサッ!
岩甲牛が大きく身体を動かした。
棘蔓が岩から外れ、首の周囲で少し緩んだらしい。
……よし!
俺はすぐに触手を引き戻した。
しかし、岩甲牛はまだ動いている。
首に残った蔓を振り払おうとしているらしい。
――ブンッ!
……おお。
頭を振った。
――ブンッ!
もう1度。
すると。
――バサッ!
棘蔓の塊が、地面へ落ちた。
……おおお。
外れた!
岩甲牛はしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと首を動かし、周囲を確かめるような仕草をした。
……どうだ?
もう痛くないだろ?
俺は岩の隙間から様子を見守った。
やがて岩甲牛は、大きく鼻を鳴らした。
そして。
――ドン……ドン……。
ゆっくり歩き始めた。
今度は岩へ身体をぶつけることもなく、そのまま谷の出口へ向かっていく。
……おお。
行った。
本当に行ったぞ。
俺はしばらく、その振動が遠ざかるのを確かめていた。
……よし。
これで通れる!
「……まったく」
隣からルナの声がした。
「貴様というやつは」
……ん?
何だよ。
ちゃんと成功しただろ?
「我は、岩甲牛をやり過ごすつもりだったのだぞ」
……まあ、そうだったな。
「それが、まさか棘蔓を外してやるとは」
……いや。
だって、あのままだといつまでも出られなさそうだったし。
俺は触手を小さく揺らした。
すると、ルナが笑った。
「ふふっ。だが、悪くない判断だった」
……おっ。
「力で敵わぬ相手でも、別の方法で道を開くことはできる。そういうことだな」
……うん。
そうだ。
何も、全部倒す必要はない。
俺の身体には、いろんな使い道があるんだから。
俺はゆっくり岩の隙間から出た。
ルナも後に続く。
もう岩甲牛の振動は遠くなっていた。
……よし。
先へ進もう。
◇
その日の夕方。
俺たちは街道から少し離れた岩陰で、野営の準備をしていた。
風を避けられる窪みがあり、入口も狭い。
周囲には大きな魔物の足跡も見当たらず、今夜は落ち着いて休めそうだった。
「……ふむ。なかなかよい場所だな」
ルナが言った。
俺は身体を上下させた。
……だろ?
さっきの岩甲牛みたいなやつが来ても、簡単には入り込めないはずだ。
俺は荷物を下ろし、身体を地面へ広げた。
……ああ。
疲れた。
今日は戦闘らしい戦闘をしたわけじゃない。
でも、細い触手を長く維持し、《体表変色》や《弾性組織》まで使ったから、結構な集中力を消耗した。
……うん。
少し休もう。
俺は意識の中で、自分の状態を確かめた。
種族。
Lv。
HP。
そして、これまで獲得してきた性質。
《微振動感知》
《粘着性》
《硬質外皮》
《微弱毒分泌》
《摩擦発音》
《弱酸耐性》
《明暗感知》
《視覚》
《弾性組織》
《体表変色》
……おお。
並べてみると、結構増えたな。
最初は、ただのアメーバみたいな身体だったのに。
今では脚も作れる。
目も作れる。
色まで変えられる。
……何だか、すごいことになってきたな。
俺は少し嬉しくなって、表示を眺めていた。
そのときだった。
《変異条件を満たしました》
……。
…………。
……え?
俺は固まった。
変異?
今、変異って出た?
俺は慌てて表示を確認した。
間違いない。
《変異条件を満たしました》
……おおお。
ちょっと待て。
これって、もしかして。
第1部で経験した、あの変異か!?
俺は思わず身体を持ち上げた。
あのときは、《万能適応型》を選んだ。
おかげで《構造形成》を扱えるようになり、俺の身体は大きく変わった。
そして今。
もう1度、変異できるというのか。
……マジか。
俺は夢中になって、続きを確認した。
《変異候補を表示します》
その下へ、3つの名称が現れた。
《堅牢外殻型》
――防御と耐久に特化した変異。
《感覚拡張型》
――知覚と感覚器の発達に特化した変異。
《自在形態型》
――身体構造と運動能力の発達に特化した変異。
……おお。
なるほど。
今回は、こういう方向性なのか。
俺はしばらく考え込んだ。
《堅牢外殻型》。
確かに、今の俺はまだ防御が弱い。
《硬質外皮》を使っても、強い魔物の牙や爪には傷つけられる。
もっと硬くなれれば、戦いはずっと楽になるかもしれない。
次に、《感覚拡張型》。
これも魅力的だ。
せっかく《視覚》を獲得したんだから、もっと自由に使いこなしたい。
遠くまで見られるようになれば、狩りでも旅でも役に立つだろう。
そして。
《自在形態型》。
……これだ。
俺は自然と、3つ目の候補へ意識を向けていた。
身体構造と運動能力。
つまり、今まで苦労していた脚や目、触手の形成に関係する方向なんだろう。
もちろん、実際に何ができるようになるかは、変異してみないと分からない。
前回だって、最初から《構造形成》の使い方を理解していたわけじゃないんだから。
でも。
……俺が今、一番欲しいものは何だ?
硬い身体?
便利な感覚?
それとも。
もっと自由に変えられる身体?
俺はゆっくり触手を伸ばした。
目の前にある、小さな石へ触れる。
《構造形成》で触手の先端を硬くする。
次に《弾性組織》で、少しだけ柔らかく動かす。
最後に《体表変色》で、石と同じような灰色へ変える。
……うん。
できる。
でも、全部を同時に使うと、まだ集中力が必要だ。
脚を作りながら目を維持するのも難しい。
走っている途中に形を変えれば、バランスを崩す。
もっと自由に身体を動かしたい。
状況に合わせて、必要な姿になりたい。
……そうだ。
それが、俺のやりたいことだった。
俺は決めた。
《自在形態型》。
これを選ぼう。
すると。
《変異を実行しますか?》
《YES/NO》
……お。
前と同じだ。
俺は思わず、最初にこの世界へ来たときのことを思い出した。
あのときも、画面にYESとNOが表示された。
ゲームのつもりでYESを押したら、まさか本当に異世界へ転生することになるとは思わなかった。
……いやあ。
人生って、本当に何が起こるか分からないな。
もっとも。
今の俺には、前回の経験がある。
変異中は、長い時間まともに動けなくなる。
周囲への警戒も難しくなるし、敵が来ても逃げられない。
……よし。
まずはルナへ伝えよう。
俺は発声用の構造を作った。
「……ルナ」
「何だ?」
「……へん、い」
ルナの動きが止まった。
「……何?」
俺は身体を上下させた。
「……また、へんい」
ルナがしばらく黙る。
それから、ゆっくりと近づいてきた。
「……貴様、また身体を変えられるようになったのか?」
肯定する。
「……ほう」
声に驚きが混じった。
「それは、なかなか面白いではないか」
……だろ?
俺もかなり楽しみなんだ。
「だが、前回のように長く動けなくなるのであろう?」
……うん。
そこが問題なんだよな。
ルナは少し考えたあと、周囲を確かめ始めた。
「この岩陰なら、少なくとも大きな魔獣は入り込めぬ。入口も1つだ」
……お。
確かに。
「我の脚も、以前よりは動くようになった。危険なものが近づけば、《衝撃》で追い払うことくらいはできる」
……でも。
俺は少し迷った。
ルナに見張りを任せるのは、まだ不安がある。
今は怪我が回復してきたとはいえ、無理をさせたくない。
すると。
「……ノア」
ルナが少し低い声で言った。
「貴様、我を信用しておらぬのか?」
……え?
いやいや。
そんなことないって!
「ならば、任せよ」
その声は、いつもどおり堂々としていた。
「貴様は、これまで何度も我を助けてくれた。今度は我が、貴様を守る番だ」
……。
…………。
……そっか。
俺は触手を伸ばし、ルナの前脚へ軽く触れた。
「……たのむ」
「うむ」
ルナが小さく笑った。
「任せておけ」
俺は身体をゆっくり広げた。
変異を始める前に、荷物をまとめる。
入口に近い場所へは置かない。
ルナが動きやすいよう、休む場所も確保する。
それから、身体を岩陰の奥へ移動させた。
……よし。
準備完了。
俺は意識の中の表示へ向き直った。
《変異を実行しますか?》
《YES/NO》
……さて。
今度は、どんな身体になるんだろう。
第1部で選んだ《万能適応型》。
あれから、俺はいろんなものを覚えた。
脚。
目。
弾性。
色。
その全部を、もっと自由に使えるようになりたい。
俺は迷わず、YESを選んだ。
《変異を開始します》
次の瞬間。
身体の奥から、じわりと熱が広がった。
……お。
来た。
以前にも感じた、不思議な感覚だ。
身体が溶けるような。
それでいて、内側から何かが組み直されていくような。
俺はゆっくりと意識を沈めた。
最後に聞こえたのは、すぐ隣にいるルナの声だった。
「……安心して眠るがよい、ノア」
……うん。
頼んだぞ。
◇
どれくらい時間が経ったんだろう。
意識が戻ったとき、周囲は静かだった。
最初に感じたのは、地面の冷たさ。
次に、岩の表面を伝わる弱い振動。
そして、すぐ近くにいるルナの呼吸。
……ああ。
無事だったみたいだな。
俺はゆっくり身体を持ち上げた。
……ん?
何かが違う。
身体が、妙に軽い。
いや、重さが変わったわけじゃない。
動かしたいと思った場所が、以前より素直に動く。
……何だ、これ。
俺は試しに、短い触手を作ってみた。
――するっ。
……おお。
できた。
しかも、今までよりずっと滑らかだ。
次に、触手の先端を硬くする。
《硬質外皮》。
……うん。
これもできる。
さらに、触手を少し曲げ、《弾性組織》を働かせてみた。
……おお。
ちゃんと動く。
しかも、今までみたいに集中力が一気に削られる感じが少ない。
……これって。
俺は慌てて意識の中の表示を確認した。
《変異が完了しました》
《自在形態型》
……。
…………。
……きた。
成功だ。
俺は思わず身体を持ち上げた。
「……ノア?」
すぐ近くから、ルナの声が聞こえた。
「目覚めたのか?」
俺は身体を上下させた。
「……ふむ」
ルナが近づいてくる。
「随分と長く眠っておったぞ」
……あ。
やっぱり、結構時間がかかったのか。
俺は身体を持ち上げたまま、周囲を探った。
外は静かだ。
どうやら、夜になっているらしい。
「変異は終わったのか?」
肯定する。
「……そうか」
ルナの声が少し明るくなった。
「では、今度はどんな姿になれるようになったのだ?」
……ふふふ。
それは、俺も気になる。
俺は身体の下側へ意識を集中した。
まず、前脚を2本。
次に、後ろ脚を2本。
今までと同じように、短く太い形を作る。
……おお。
できた。
しかも、前よりずっと安定している。
俺はそのまま身体を持ち上げた。
1歩。
もう1歩。
……おおお。
歩ける。
普通に歩けるぞ!
いや、完全に獣と同じ動きではない。
でも、脚の形を維持することに意識を取られすぎず、前へ進める。
……すげえ。
これは、すごい変化だ。
「……ほう!」
ルナが感心した声を出した。
「前より、ずっと滑らかに動いておるな」
俺は得意になって、その場を少し歩いてみた。
右へ。
左へ。
ゆっくり向きを変える。
……おお。
今度は潰れない!
俺は嬉しくなって、もう少し速度を上げようとした。
「……待て、ノア」
ルナが声をかけた。
……ん?
「ここは狭い岩陰だぞ」
……あ。
そうだった。
危ない危ない。
調子に乗って走ったら、岩へぶつかるところだった。
俺は慌てて脚を止めた。
すると、ルナが小さく笑った。
「くくっ。身体は変わっても、貴様の性格は相変わらずだな」
……うるさいな。
そこまで変わったら、俺じゃなくなるだろ。
俺は抗議するように触手を振った。
それから、少し考えた。
……そうだ。
目はどうだろう。
俺は身体の上部へ小さな目を形成した。
《視覚》。
すると、いつものように景色が広がった。
岩壁。
地面。
そして、すぐ隣にいるルナ。
……お。
前より、少し安定してる。
目そのものが急に高性能になったわけじゃない。
遠くの景色はまだぼやけているし、細かい文字も簡単には読めない。
でも、目を維持しながら脚を動かしても、以前ほど身体が崩れない。
……なるほど。
そういうことか。
今回の変異は、単純に身体を強くするだけじゃない。
これまで覚えた性質を、もっと自由に組み合わせやすくするものなのかもしれない。
……いいじゃないか。
かなりいいぞ。
俺はルナの方へ目を向けた。
白銀の毛並み。
淡い紫色の瞳。
そして、少し得意そうな表情。
「……どうだ?」
ルナが尋ねる。
俺は触手を高く持ち上げた。
「……いい」
少しぎこちない声が出た。
視界が一瞬揺れたが、今度は崩れなかった。
……おお。
喋れた!
目を作ったまま、短い言葉を出せたぞ!
「……ふむ」
ルナが小さく頷いた。
「気に入ったようだな」
俺は大きく身体を上下させた。
「ならば、明日が楽しみだ」
……ん?
「我の脚も、随分とよくなってきた」
ルナはそう言って、ゆっくり立ち上がった。
「貴様も新しい身体に慣れれば、もっと速く動けるようになるであろう」
……うん。
そうかもしれない。
「ならば」
ルナが少し笑った。
「そろそろ、あの約束を試してみるか?」
……約束?
俺は少し考えた。
それから。
……あ。
思い出した。
いつか一緒に走ろうって、あの約束か!
俺は勢いよく触手を持ち上げた。
「……はしる!」
今度は、比較的はっきり声が出た。
ルナが楽しそうに笑う。
「くくっ。随分と嬉しそうだな」
……そりゃそうだろ!
ずっとやってみたかったんだから!
「ただし、明日は短い距離だけだぞ。我もまだ全力では走れぬからな」
俺は身体を上下させた。
……了解。
それで十分だ。
俺は脚を崩し、いつもの不定形の身体へ戻った。
……ああ。
やっぱり、この形も落ち着く。
でも、今は以前とは違う。
必要なら脚を作れる。
目も作れる。
色も変えられる。
そして、その全部を少しずつ組み合わせられるようになってきた。
……いいな。
この身体。
俺はゆっくり身体を丸めた。
外では、夜風が岩の隙間を通り抜けている。
その音を聞きながら、俺は明日のことを考えていた。
ルナと一緒に走る。
ただ、それだけのことだ。
人間だった頃なら、何でもないことだったかもしれない。
でも、今の俺にとっては違う。
自分で脚を作り、自分の意思で走る。
そして、隣には相棒がいる。
……うん。
楽しみだ。
明日は、きっといい日になる。
そう思いながら、俺はゆっくり意識を休めた。




