第2部 第46話 銅貨6枚の夜
「……銅貨8枚です」
……はい?
「お二方で1部屋、夕食なしでしたら、1泊銅貨8枚になります」
目の前の宿屋の主人が、申し訳なさそうに言った。
俺は身体に固定した小袋へ意識を向ける。
中身は、銅貨6枚。
ついさっき、ギルドの倉庫で針背鼠を捕まえて稼いだ、記念すべき初報酬だ。
……足りない。
いきなり足りない。
「ふむ。少々高いな」
ルナが言った。
「この辺りでは普通の値段ですよ。交易町は行商人も多いですからね」
「そうか。では、ほかを当たるとしよう」
「申し訳ありませんね」
俺たちは宿屋を出た。
……いやあ。
世知辛い。
初めて自分で稼いだお金なのに、宿に泊まることすらできないとは。
人間だった頃も給料日前は財布が寂しかったけど、まさか異世界に来てまで同じ気分を味わうことになるとは思わなかった。
「何を落ち込んでおる」
ルナが隣から声をかけてきた。
俺は触手をだらりと垂らす。
「まだ宿はある。もう少し探せばよかろう」
……まあ、そうなんだけどさ。
「それに、銅貨6枚も稼いだのだ。貴様はよく働いたではないか」
……お。
今日のルナ、ちょっと優しいな。
俺は嬉しくなって身体を持ち上げた。
「ただ、魔物を食べずに残しておれば、もう少し余裕があったかもしれぬがな」
……。
……そこはもう勘弁してください。
さっきから何回言われてると思ってるんだよ。
俺たちは石畳の通りを進み、別の宿を探した。
しかし、次の宿もなかなかのお値段だった。
さらにその次は満室。
どうやら、交易町というだけあって宿泊客が多いらしい。
……うーん。
これは困ったぞ。
別に野宿が嫌なわけじゃない。
俺自身、地面に身体を広げて眠ることには慣れている。
というか、ベッドがあったところで、今の身体でどう使えばいいのか分からない。
問題はルナだ。
右後ろ脚の怪我は回復してきたとはいえ、まだ無理はできない。
できれば、ちゃんとした場所で休ませてやりたい。
「……ノア」
考え込んでいると、ルナが声をかけてきた。
「我の脚を気にしておるのか?」
……え?
俺は身体の端を持ち上げた。
「貴様が何を考えておるかくらい、分かる」
……いや、何でだよ。
本当に読心術でも持ってるんじゃないだろうな。
「心配は無用だ。屋根がなければ眠れぬほど、我は軟弱ではない」
……まあ、そうだろうけど。
「それに、ずっと小屋で寝ておったのだ。たまには外で休むのも悪くない」
……なるほど。
確かに。
でも、街中で勝手に野宿するわけにもいかないよな。
そんなことを考えていたときだった。
「野営場を探してるのかい?」
近くから声がした。
振動の方へ身体を向けると、通りの端に腰掛けていた年配の男が、こちらへ声をかけていた。
「旅人用の野営場なら、西の門の近くにあるぞ。行商人や荷運びが使うところだ」
……おお。
そんな場所があるのか。
「屋根はあるのか?」
ルナが尋ねた。
「簡単な雨よけならある。寝床は自分で用意する決まりだがな」
「料金は?」
「場所を借りるだけなら、1区画で銅貨2枚だったはずだ」
……銅貨2枚!
それなら払える!
俺は勢いよく身体を上下させた。
「……ふむ。そこへ行くとしよう」
ルナが答える。
「助かった。礼を言う」
「おう。気をつけてな」
男は気さくに手を振ってくれたらしい。
……いやあ。
ありがたい。
やっぱり、知らない町では人に聞いてみるものだな。
もっとも、俺だけだったら説明するのに苦労していたと思うけど。
その後、俺たちは夕方の市場を通って、西の野営場へ向かった。
せっかくだから、途中で食料も買っておくことにした。
ルナが足を止めたのは、肉の保存食を売っている屋台だった。
「……ふむ」
何だか、声が少し真剣になったぞ。
俺は身体の上部に小さな目を形成した。
ぼんやりと景色が広がる。
店先には、紐で束ねられた干し肉がいくつも吊るされていた。
茶色く乾いた肉。
その隣には、香辛料をまぶしたらしい赤っぽいものも並んでいる。
……おお。
うまそう。
いや、俺が食べても普通の人間みたいに味わえるかは怪しいけど。
「その肉は、何の獣だ?」
ルナが店主に尋ねた。
「こっちは角兎。そっちは森猪だよ」
……角兎?
ウサギに角が生えてるのか。
何だか、ちょっと見てみたいな。
「ふむ。では、森猪の方を」
「小さい束なら銅貨2枚だ」
……銅貨2枚。
俺は小袋へ意識を向けた。
銅貨6枚。
野営場で2枚。
肉で2枚。
残りは……2枚。
……うん。
ぎりぎりだな。
俺が少し考えていると、ルナが声をかけてきた。
「ノア、無理に買う必要はないぞ」
……え?
「エルデ村でもらった保存食も、まだ少し残っておる」
……いやいや。
それはそうだけど。
俺は触手を伸ばし、店先の干し肉を指した。
「……これ」
「む?」
「……かお、う」
少し音が途切れた。
ルナはしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……ふん。では、貴様の初報酬で買ってもらうとするか」
……おう。
任せとけ。
俺は小袋から銅貨を2枚取り出し、店主へ渡した。
正確には、身体の一部で硬貨を押し出しただけだけど。
店主は少し驚いたようだったが、すぐに干し肉を包んでくれた。
「毎度あり!」
……おお。
初めての買い物、成功。
何というか。
ちょっと感動するな。
俺は受け取った干し肉を、荷物入れへ固定した。
すると、ルナが近づいてきた。
「……ノア」
……ん?
「礼を言う」
……お。
珍しい。
「だが、我ばかり食べていては悪いな。貴様の食料は足りておるのか?」
俺は身体を上下させた。
昨日までの捕食で、ある程度の栄養は補えている。
もちろん、いつまでも食べずにいられるわけじゃないけど、今すぐ飢えるほどではない。
それに、俺の成長には普通の食料より、魔物の捕食の方が重要だ。
……まあ、次の魔物は全部食べないように気をつけるけどな。
「ふむ。ならばよい」
ルナは納得したようだった。
「それにしても、貴様も買い物ができるようになったのだな」
……うん。
そうなんですよ。
声を出せるようになって。
目も少しずつ見えるようになって。
自分で稼いだお金で、買い物までできるようになった。
……何だろう。
異世界に転生してから、初めてまともに生活している気がする。
まあ、見た目は相変わらず丸い魔物なんだけど。
野営場へ着く頃には、空が少し暗くなり始めていた。
西の門の近くには、荷車を並べられる広場があり、その端に簡単な雨よけの屋根が設けられていた。
管理人へ銅貨2枚を渡すと、俺たちは奥の空いている場所へ案内された。
地面は踏み固められていて、雨が降っても水がたまりにくいよう、周囲に浅い溝が掘られている。
近くには水を汲める場所もあるらしい。
……おお。
思っていたより、ちゃんとしてるな。
「ここなら十分であろう」
ルナも気に入ったようだった。
俺は荷物を下ろし、地面へ身体を広げた。
……ああ。
落ち着く。
やっぱり、身体を自由に広げられるのはいいな。
「……貴様、そんなところまで広がるでない。隣の区画にはみ出しておるぞ」
……あ。
すみません。
俺は慌てて身体を縮めた。
危ない危ない。
うっかりほかの旅人の荷物に触ったら、大変なことになるところだった。
ルナが小さく笑う。
「ふふっ。まったく、油断も隙もない」
……いやあ。
身体の形を自由に変えられるのも、考えものだな。
少し休んでから、俺はもう1度目を作った。
夕暮れの野営場。
低い屋根の下には、荷物を整理する商人や、焚き火の準備をする旅人たちがいた。
まだ遠くの細かいものは見えない。
でも、人が動いていることくらいは分かる。
夕日に照らされた荷車。
揺れる火。
その向こうに見える、トルゼの石造りの城壁。
……いいな。
こういう景色。
人間だった頃、旅行先で知らない町の夕暮れを見るのが好きだった。
昼間とは少し違う空気。
帰る場所を探して歩く人たち。
店を片づける音。
遠くから聞こえる鐘。
今はまだ、ここがどんな町なのか全部は分からない。
それでも、確かに俺は、この世界を旅している。
……ああ。
やっぱり、冒険っていいな。
そんなことを考えていると、ふと気になるものが見えた。
ルナの右後ろ脚だ。
白銀の毛並みの下に、少しだけ毛の短い部分がある。
ほかの脚と比べると、立つときの力のかけ方も違っていた。
……あ。
そうか。
俺、初めてちゃんと見たんだ。
怪我をした脚を。
これまでも、触れた感触や歩く振動から状態は確かめていた。
でも、こうして見てみると、まだ左右で動きが違うことがよく分かる。
「……ノア?」
俺の視線に気づいたのか、ルナが顔を向けた。
「どうした?」
俺は目を崩し、触手を右後ろ脚の近くへ伸ばした。
「……いた、む?」
ルナは一瞬、黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「……多少はな」
……そうか。
やっぱり、まだ痛いんだな。
「だが、以前ほどではない。マルタの薬も効いておるし、歩いているうちに調子がよくなることもある」
俺は身体を少し下げた。
……無理させちゃったかな。
今日だって、結構歩いたもんな。
「……貴様」
ルナが少し呆れた声を出した。
「また余計なことを考えておるな?」
……いや。
だって。
「我は、自分の意思で村を出たのだぞ」
……ん?
「貴様が連れ出したわけではない。我が旅を再開したかったのだ」
その声は、いつもどおり堂々としていた。
「脚が痛むからといって、ずっと寝ているつもりはない。もちろん、無理をして傷を悪くする気もないがな」
……そうか。
「だから、貴様は必要以上に気にするでない」
俺は少し考えてから、身体を上下させた。
……分かった。
ルナがそう言うなら、信じよう。
もちろん、危ないときには手を貸すつもりだけど。
「ふん。それでよい」
ルナはそう言って、身体を伏せた。
俺は荷物から布を取り出し、右後ろ脚の下へそっと敷いた。
「……む?」
「……これ」
「脚の下に敷くのか?」
俺は身体を上下させた。
ルナが少し身体を動かし、布の位置を確かめる。
「……なるほど。悪くないな」
……お。
よかった。
「ただし、貴様まで寝床になる必要はないぞ」
……。
……え?
俺は身体を見下ろすように意識を向けた。
いつの間にか、ルナの横へ少し広がっていたらしい。
……いや。
別に寝床になるつもりはなかったんだけど。
「ふふっ。貴様は本当に妙なやつだ」
……お互い様だろ。
でも、ルナが落ち着いて休めるなら、それでいい。
俺は身体を少し縮め、隣へ移動した。
夕食の時間になると、ルナは買ってきた干し肉を食べ始めた。
俺はその隣で、エマからもらった練習用の板を取り出していた。
表面に彫られた文字。
触手でなぞれば、形は分かる。
そして今なら、目でも確かめられる。
……よし。
ちょっと練習してみよう。
俺は小さな目を形成し、板へ向けた。
ぼんやりした線が見える。
少しずつ焦点を合わせると、彫られた文字の輪郭が浮かんできた。
……おお。
見える。
ちゃんと文字の形が見えるぞ。
ただし。
……読めない。
いや、もちろん、エマに教わった文字ならいくつか分かる。
でも、全部を覚えているわけじゃない。
俺は触手で文字の溝をなぞり、形と音を思い出そうとした。
……これ、何だったっけ。
たしか……。
「……ノア」
ルナが声をかけてきた。
「何をしておる?」
俺は板を持ち上げてみせた。
「……じ」
「文字の練習か」
肯定する。
「ふむ。熱心なことだな」
……まあな。
自分で文字が読めるようになれば、これからの旅もずっと楽になるだろうし。
値札も読める。
道案内も読める。
依頼書だって、自分で確かめられるようになる。
……そう考えると、覚えない理由がない。
ただ、目を維持しながら文字をなぞっていると、少しずつ集中力が削られていく。
……うーん。
まだ長時間の勉強は難しいか。
俺は目を崩し、板を荷物へ戻した。
「……もう終わりか?」
ルナが尋ねる。
俺は身体を上下させた。
「ならば、少し休め。今日も随分と動いたであろう」
……そうだな。
俺は身体を丸めた。
空が暗くなるにつれて、野営場の音も少しずつ落ち着いてきた。
荷車の動く音が減り、代わりに焚き火のはぜる音が聞こえるようになる。
遠くでは、誰かが小さな声で歌っていた。
……何だろう。
こういう夜も、悪くないな。
俺はふと、今日の出来事を思い返した。
トルゼへ来て、冒険者ギルドを訪ねた。
初めて仕事をして、銅貨6枚を稼いだ。
そのうち4枚を使い、今は残り2枚。
……うん。
なかなか厳しい。
でも、悪いことばかりじゃない。
自分の身体が、この世界で役に立つと分かった。
人間とは違う能力だからこそ、できることがある。
それに、ギルドで聞いた話も気になっていた。
冒険者登録がすぐにできなくても、魔物の素材は買い取ってもらえる。
なら、これからの旅では、捕食する前に売れる部分を残しておけばいい。
もちろん、全部の魔物を狩る必要はない。
でも、危険な魔物と戦って倒したなら、その身体を無駄にしない方法はいくらでもある。
……なるほど。
ちょっとずつ、生活の仕方が分かってきた気がするな。
「……ノア」
隣からルナの声がした。
「明日はどうする?」
俺は身体を持ち上げた。
……明日か。
そういえば、次の目的地はまだ決めていなかった。
「我は、少し町の外を歩いてみたいと思っておる」
……ん?
「街道沿いだけでは、出会う魔物も限られる。もっと自然の多い場所へ行けば、貴様が得られるものも増えるであろう」
……おお。
それ、いいな。
俺も、もっといろんな魔物を見てみたいと思っていたところだ。
ただし、ルナの脚が心配だ。
俺は触手を伸ばし、右後ろ脚の方を示した。
「……無理はせぬ」
ルナが即答する。
「街道から大きく離れるつもりはない。歩ける範囲で、少しずつ進めばよい」
……なるほど。
それなら、いいかもしれない。
「それに、我もいつまでも貴様に守られてばかりではいられぬからな」
……え?
いやいや。
別に守られてばかりじゃないだろ。
昨日だって《衝撃》で助けてもらったし。
「ふん。あれは貴様が勝手に空へ飛んでいったからであろう」
……。
……それはそう。
ぐうの音も出ない。
俺が黙り込むと、ルナが楽しそうに笑った。
「くくっ。まあよい。明日は無理のない範囲で、森の方を調べてみるか」
俺は大きく身体を上下させた。
……よし。
決まりだ。
もっと強くなる。
もっといろんな性質を手に入れる。
そして、いつかは自分の思いどおりに身体を変えられるようになりたい。
今はまだ、目も脚も不安定だけど。
それでも、少しずつできることは増えている。
……そうだな。
次は、どんな形を作ってみようか。
俺は身体の一部を持ち上げ、短い脚を1本だけ作った。
そして、内部へ《弾性組織》を働かせる。
ゆっくり縮めて。
ゆっくり伸ばす。
……お。
今度は、ちゃんと力を調整できた。
そのまま、もう1度。
……うん。
いい感じだ。
「……ノア」
ルナの声。
「何だ?」
俺は触手を動かした。
「貴様、寝る前まで練習するつもりか?」
……いや。
ちょっとだけ。
「まったく……」
ルナは呆れたように息を吐いた。
「明日も歩くのだぞ。ほどほどにしておけ」
……はいはい。
分かってますよ。
俺は脚を崩し、いつもの形へ戻った。
それから、もう1度だけ小さな目を作った。
今度は、夜の景色を確かめてみたかったのだ。
視界が広がる。
昼間より、ずっと暗い。
遠くの建物はほとんど輪郭しか分からない。
でも、焚き火の明かりだけは、ぼんやりと見えていた。
揺れる橙色の光。
その向こうには、暗い空。
……ああ。
夜って、こんな色だったな。
人間だった頃には当たり前だった景色が、今は何もかも新鮮だった。
俺は視界を隣へ向けた。
ルナが身体を伏せている。
白銀の毛並みに、焚き火の光が少しだけ映っていた。
……うん。
綺麗だ。
俺はしばらく、その姿を眺めていた。
すると、ルナの耳がぴくりと動いた。
「……ノア」
……ん?
「また我を見ておるな?」
……あ。
バレた。
「ふん。好きにせよ」
……お?
今日は怒らないのか。
「ただし、あまりじろじろ見られると、落ち着いて眠れぬぞ」
……はい。
すみません。
俺は慌てて目を崩した。
……まったく。
ちょっと見てただけなのに。
でも、悪い気分じゃなかった。
俺たちは、そのまま静かに夜を過ごした。
翌朝。
野営場の周囲では、すでに荷車が動き始めていた。
俺は身体を持ち上げ、ルナの様子を確かめた。
「……ふむ」
ルナがゆっくり立ち上がる。
右後ろ脚へ体重をかけ、何度か地面を踏み直した。
「昨日より、少し軽いな」
……お。
それはよかった。
俺は触手を上下させた。
「貴様も、よく眠れたか?」
……うん。
十分に休めた。
身体の消耗も、だいぶ落ち着いている。
昨日の仕事で酷使した部分も、今は問題なく動かせそうだ。
……よし。
今日は、どこまで行けるかな。
俺たちは荷物をまとめ、野営場を後にした。
トルゼの南門へ向かう途中、何台もの荷車とすれ違う。
行商人。
旅人。
冒険者らしい装備をした人たち。
それぞれが、別々の目的地へ向かって歩いている。
……何だか、いいな。
俺たちも、その中の1組なんだ。
俺は身体の上部へ小さな目を作った。
朝日に照らされた石畳。
開かれた門。
その向こうへ続く、長い街道。
……よし。
今日もいい天気だ。
「行くぞ、ノア」
ルナが声をかけた。
「まずは南の道を進み、森へ入れる場所を探すとしよう」
俺は目を崩し、身体を上下させた。
……おう。
次は、どんな魔物に出会うんだろう。
どんな性質が手に入るんだろう。
そして、俺はどこまで変われるんだろう。
そんなことを考えながら、俺たちは再び歩き始めた。
ちなみに。
今の所持金は、銅貨2枚。
……うん。
次の町へ着くまでには、もう少し稼げるようになりたいな。
さすがに、毎回野宿するのもどうかと思うし。
……まあ。
俺自身は、地面でも十分なんだけどな。




